第73話 女のプライド
先に着いたことを拓也にLIMEで伝え、ソファに座った。程なくして拓也が顔を出す。ドクン、と心臓が跳ねた。手先から温度が消えるのがわかる。
「ごめん。待った?」
普段通りの優しい拓也に、少しだけ泣きそうになって誤魔化すように「今来たところだよ」と笑う。
「はあ〜、小晴だ」
挨拶もほどほどに隣に来た拓也は、倒れ込むように小晴を抱きしめた。構えていなかった行動に驚き、身が固まった。
「忙しくてごめん。ずっとこうしたかった」
言われるなんて思ってもなかった言葉だった。目の前にいるのは、いつもの拓也だ。小晴にとびきり優しくて甘い、大好きな拓也で絶対に嬉しいはずなのに、なぜか心が違う方向で揺れる。
拓也の顔が首筋に埋まって、くすぐったくて身を捩るとさらにキツく抱きしめられた。彼の香りに包まれているのに、どうしてこんなにも幸せな気持ちになれないんだろう。
小晴は、控えめに抱きしめ返しながら揺れる瞳をそっと閉じた。拓也が満足するまで抱きしめられ、ゆっくりと距離が離れると――それでも距離は近い――、当たり前のように瞳の中を覗かれる。心の中をすべて見られてしまいそうで、小晴はさりげなく瞳を伏せた。
「なんで目逸らすの?」
「え…、えっと。逸らしたわけじゃないよ?」
突っ込まれるなんて思っていなくて戸惑う。真っ直ぐに言葉を使う拓也に返す言葉に迷いながら、小晴は誰もがわかる嘘をついた。
「嘘。俺の目なんで見れないの?」
「う、嘘じゃないよ」
「それ、俺に誓えるの?」
言い淀んだ小晴をこれ見よがしに拓也は笑った。時折見せる拓也の意地悪な顔にドキリとしてしまう。
「会えなくて寂しくさせたこと怒ってる?」
「お、こってない。だって、忙しいって言ってた」
本当に忙しかったのであれば、会えなかったのは仕方ない。寂しかったけれど、小晴が我慢することだと思った。
「じゃあ、なんでいつもみたいに見てくれないの?」
いつも通りの彼の表情を直視した途端、隠していた感情がグラグラと揺れた。
「……っ、私と別れて、あの人とヨリを戻すの?」
聞かないと決めていたのに、感情が堰を切ったように止まれないまま聞いていた。拓也の目が丸く開く。
「どうして、そう思ったの?」
「だって、みんな噂してる」
「………、そっか。知ってたんだ」
拓也は、重たいものを吐き出すように息を吐いた。
なんだろう。やっぱり別れ話なのだろうか。不安が増して、自然と瞳に涙が溜まった。
「まず、不安にさせてごめん」
小晴の目尻を指先で優しく撫で、涙を拭きながら拓也は悲しげに眉を下げた。
「俺は、小晴のことが好き。別れたくないし、小晴以外と付き合おうなんて思ってない」
拓也の言葉に頼りなげに頭を振った。それならなんで、という気持ちが浮き上がって拓也の言葉をすんなりと飲み込めない。
「信用できない?」
小晴の気持ちに追い討ちをかけるような問いに胸が詰まった。信用できないわけじゃない。そうじゃない。そうじゃなくてーー。
言わなくちゃ。言わないままでは、誤解させてしまう。だけど、鉛のように口が重い。自分ばかりが気にしていて、拓也はそんなことなくて、恥ずかしさと女としてのちっぽけな悔しさが口を重くさせている。小晴は自分の潔くないズルさを実感して、この上ない浅ましさに嫌気が差した。
拓也を責めるような態度をして、ここまで折れてくれている相手にまだ本音を言えないのかと、惨めな自分を叱咤してしまう。拓也を好きな自分と、自分の自尊心を守りたい自分に挟まれながら、小晴はやっと重たかった口をゆっくりと開いた。
「だって…」
紡いだ声は、いじけた子供のようだった。母親を詰る駄々っ子そのもので、やめたかったがやめられそうにない。
「だって、なに?」
だって、拓也がずっと優しくて包み込むような聞き方をするから、無意識に甘えてしまう。
「タクくん」
「うん」
彼の優しい瞳に見つめられ、今にも泣きそうになった。喋ったら泣いてしまいそうで、一旦言葉を飲んだ。
「俺が、なに?」
唇にぐっと力を入れたところもちゃんと見ながら、拓也は優しく次の言葉を促す。
「タクくん。私に…」
「ん?」
「あんまり、触れようとしてくれないもん…」
言った。言ってしまった。胸の中にずっと引っかかっていて見ないフリが出来なかったことを。
小晴は、反応を知るのが怖くて拓也の顔をわざと見なかった。
「わ、わかってるの。私が魅力的じゃないって。元カノさんの方が綺麗で、他の子達のほうが可愛くて、女の子としての魅力が少ないってわかってるけど…」
下を向いたまま、弁解のように言葉を続けた。拓也に言われたら傷ついてしまう言葉を先に言って、深傷を負わないようにした。
「ストップ。待って。俺の話聞いて」
耳を閉ざした小晴にも分かるように短い言葉が届いた。勝手に燃えていた火を手際よく鎮火されたみたいに、小晴は口を閉ざした。やっと拓也の顔を見た。想像の反応とは違う様子に、戸惑ってしまう。まるで、私が間違えているかのような、そんな顔をしていると思った。
「小晴は、なんか勘違いしてる」
そして、小晴の予想と違いない否定がやってきた。
「してないよ」
即座に返したものの、半分は行き先を失った感情を持て余した意固地な返事だった。
「ううん。すごいしてる」
まるで、それすらもお見通しみたいに拓也は怒ることなく、もう一度否定した。なぜそんなに自信満々に断言できるのか、小晴には理解ができなかった。
「まず、小晴は可愛い。今すぐ食べたいくらい可愛い」
シンプルに頬が赤く染まった。好きな人に真剣な顔で可愛いなんて言われて、赤面しないなんて出来るはずがない。
「あと、触れようとしてないんじゃない」
続いた言葉に狼狽えてしまう。もう既に拓也に絆されてしまいそうだ。
「俺は、ずっと死ぬほど我慢してる」
思いもしなかった拓也の思いを告げられ、瞳の中が大きく見開く。無意識に息を呑んだ。
何を言われるのか、わかるようなわからないような、聞いたら終わりなような、不可思議な心情に陥る。拓也は、小晴の混乱一歩手前の反応を見ているはずなのに、そこで言葉を止めてはくれなかった。
「本当なら、今すぐ俺のものにしたいくらい」
息が止まった。飲み込んだ空気が、肺に詰まったように息苦しい。いつも優しかった拓也の目が、これ以上近づいたらあまりにも危険な熱を孕んだものに変わっていた。
「赤くなってる。可愛い」
意地悪な顔で、瞳を細める。それだけで体が熱を帯びたように感じた。回避不可能な彼の色気を当てられたようだった。
「っ、ま、まって」
拓也の手が小晴の頬に触れる。宝物に触れるかのように優しく、けれど明確な意味を持って伸ばされた手に怖気付く。慌てふためいて、小晴は反射的に物理的な距離取ろうと体が後ろに傾いた。いつもだったら、きっと拓也は小晴の言葉で止まってくれただろう。しかし、今は一瞬たりとも待ってはくれそうにない。言葉通り、拓也は逃げる小晴の腰を引き寄せた。
「やだ、待たない。小晴から言ったんだよ。触れてくれなくて寂しいって」
もう瞳の中の虹彩が色鮮やかに見えるくらい、二人の距離は近かった。
「そっ、そこまで言ってない」
「じゃあ、どういう意味?」
引くつもりが全くない男の顔に体が小さく震える。初めて見る顔だと思いながら、そんなことはないと否定する自分がいた。何度か垣間見た拓也の顔だ。
「そ、それは…」
言い淀んだ小晴に拓也が顔を近づける。やっと黙ったと言うように、口を塞がれた。柔らかな唇を感じたあとに、開いた口から舌が侵入する。これまでとは比べものにならない大人なキスに身体が跳ね、声が漏れた。ようやく解放された頃には、息も絶え絶えといった具合だった。濡れた唇を満足そうに見つめ、拓也は今までの中で一番優しい顔で笑った。それから流れるように、髪の束を一房とりキスをする。
「学祭終わって落ち着いたら、ちゃんとシようね」
妖しく光る瞳を見て、小晴は自分が取り返しのつかないことをやらかしたんじゃないかと一抹の不安を覚えた。




