第8話 不穏なスープと、激辛の救世主
「デイジー、今夜は隣国バルフレア帝国からの使節団を迎える大変重要な夜会だ。決して失礼のないようにな。……くれぐれもな」
「はい、お父様……!」
王宮の大ホールは、まばゆいばかりの燭台の光と、着飾った貴族たちの熱気に包まれていた。
ロメオ伯爵家の父親から釘を刺されたデイジーは、ドレスの裾をぎゅっと握りしめ、ガチガチに緊張していた。
(大丈夫……! 今日の私は、ただお父様とお母様の隣でおとなしく笑っているだけ! 何も喋らないし、どこにも移動しない! これなら絶対にトラブルなんて起きようがないわ!)
デイジーは心の中で「安全第一」のおまじないを何度も唱えていた。
先日の劇場の地下室で『聖なる宝冠』を掘り出してしまってからというもの、彼女の精神的疲労はピークに達していたのだ。今日こそは、徹底的に影の薄い貴族令嬢として夜会を終えたい。
しかし、運命の女神は、デイジーに平穏な夜など与えるつもりはなかった。
ホールの中心、一段高くなった貴賓席には、本日の主賓であるバルフレア帝国の使節団が着席していた。
その中央に鎮座するのは、帝国王弟殿下の嫡男にして、若くして軍を率いる『獅子将軍』鋭い眼光、顔に刻まれた浅い傷跡、そして威圧感あふれる巨躯。彼が視線を動かすだけで、周囲の貴族たちが怯えて後退るほどの強面であった。
(ひえぇ……絶対にお近づきになりたくないわ……)
デイジーが心の中で怯えていた、まさにその時である。
「――やあ、デイジー嬢。今夜も可憐だね」
「ひゃいっ!?」
背後から低く甘い声が響き、デイジーは跳ね上がった。
振り返ると、そこにはプラチナブロンドの髪を華やかにセットし、極上の微笑みを浮かべたライアンが立っていた。
「ラ、ライアン様……! ごきげんよう……」
「そんなに怯えなくてもいい。……それにしても、今夜の君のドレスは素晴らしいな。私の贈った絹が、君の美しい肌によく映えている」
(やっぱりあの匿名で届いた大量の高級ドレス、ライアン様からだったのねーーー!?)
デイジーが内心で悲鳴を上げていると、給仕たちがうやうやしく料理を運んできた。
本日のメインディッシュの前に振る舞われるのは、王国と帝国の友好を象徴する特製のコンソメスープである。
そして、運命の悪戯か。
給仕たちが料理を運び始め、デイジーたちのところにも順番が回ってきた。しかも、デイジーたちがいたのは、ちょうどヴァルター将軍の貴賓席の目と鼻の先だった。
(落ち着いて……スープが運ばれてきただけよ。私は何も触らない……!!)
デイジーは息を殺した。
テーブルの脇には、帝国料理に添えられる『特製激辛スパイス』の小さな瓶が置かれており、貴賓席へ向かう給仕のひとりが、銀のトレーを掲げてデイジーの脇を通り抜けようとしていた。
男の正体は、毒を盛ったスープを無事にヴァルター将軍へ届けることに全神経を注ぐ刺客であった。
(余計な邪魔が入らぬうちに、早く将軍の席へ――)
刺客が強い緊張と焦りで目的に集中していた、まさにその瞬間。
(あ、あの将軍様……威厳がすごくて、やっぱり怖いわ……)
威圧感に耐えかねたデイジーが、急に「ひょいっ」と一歩後退りするという、刺客の計算にない突飛な動きを見せたのだ。
「なっ……!?」
デイジーにぶつかった刺客がよろめき、その身体がテーブルの端にぶつかった。
その反動で近くのテーブルが大きく揺れ、端に置かれていた丸いスパイス瓶が、ころころと転がり始めたのだ。
(あ、危ない……! 落ちて割れてしまうわ!)
デイジーの『余計な親切心』と『天性の間の悪さ』が完璧に噛み合った。彼女は咄嗟に手を伸ばし、転がる瓶を掴もうとした。
しかし――
サッ。
デイジーの指先が瓶のフチに触れた瞬間、彼女のドレスの袖口に装飾されていた小さな真珠のボタンが、隣の給仕が持つトレーの布に引っかかった。
「きゃっ!?」
引き戻される手、崩れた体勢、そして宙を舞うスパイス瓶。
ぽーん。
綺麗な放物線を描いて飛んでいった瓶は、蓋が奇跡的な確率でポンッと外れ、そのままヴァルター将軍のスープ皿へ落下した。
ドボンッ!
スープが跳ね、同時に瓶の中に詰まっていた真っ赤な激辛スパイスが、容赦なくスープの中へぶちまけられた。
一瞬でスープはどろりとした不気味な「真っ赤な液体」へと変貌し、周囲に目と鼻を刺すような強烈な辛みの刺激臭が充満した。
静まり返る大ホール。
「な……何事だ!!」
ヴァルター将軍の護衛たちが一斉に剣の柄に手をかけ、殺気を放った。
将軍本人が、真っ赤に染まったスープ皿と、顔を真っ青にして固まっているデイジーを交互に見つめる。その眼光は、まるで獲物を噛み殺す肉食獣のようだった。
「ご……ごめんなさぃぃぃっ! 私、手元が狂ってしまって……!」
デイジーは半泣きになりながら謝罪した。
終わった。帝国の将軍のスープを激辛のマグマに変えてしまった。今度こそロメオ伯爵家は取り潰し、あるいは国家間戦争の引き金になってしまう!
「無礼者め! 我がバルフレア帝国とヴァルター将軍への宣戦布告か!?」
帝国の使節が怒鳴り散らそうとした――その時であった。
ツン……と。
強烈なスパイスの香りの奥から、かすかな「異臭」が漂った。
軍人として修羅場を潜り抜けてきたヴァルター将軍は、鼻腔をくすぐるそのわずかな違和感に目を見開いた。
彼は黙って手元にある銀のスプーンを持ち上げると、真っ赤なスープの底をすくった。
すると――銀のスプーンの表面が、見る見るうちに『黒く』変色していったのだ。
「……なに!?」
会場に緊張が走った。銀を黒変させるのは、特定のアサシンが使う即効性の『劇薬・無色無臭の致死毒』の反応であった。
もし、このスパイスがぶちまけられていなければ。
香りの変化に気づかず、ヴァルター将軍はこの毒入りスープを口にし、その場で吐血して絶命していたかもしれないのだ。
「毒……!? スープに毒が盛られておる!!」
帝国の護衛たちが騒然となった。
ヴァルター将軍は黒変したスプーンを見つめ、それからガタガタと震えているデイジーを見つめた。
(待て……。この令嬢は、僕が毒入りのスープに口をつける寸前、完璧なタイミングで『スパイス瓶』を叩き込んでスープを激辛に変え、僕が飲むのを物理的に阻止したのか……!? しかも、普通の指摘では犯人に勘づかれて逃げられるため、あえて『不運な事故』を装って毒の存在を暴露した……!?)
ヴァルター将軍の脳内で、凄まじい「深読み」が展開された。
(なんという鋭い洞察力……! なんという命がけの隠密行動……! アルディア王国には、これほど恐ろしい令嬢が潜んでいるのか……!)
ヴァルター将軍はゆっくりと立ち上がると、デイジーに向かってズカズカと歩み寄った。
「ひっ……! い、命だけは……!」
デイジーが恐怖で目を瞑った瞬間――。
ドサッ。
なんと、あの強面の『獅子将軍』ヴァルターが、デイジーの前で堂々と右拳を胸に当て、帝国の最高の敬礼を捧げたのだ。
「……見事だ、ご令嬢」
「え……?」
「我が帝国の反乱分子が潜ませた卑劣な毒を、自らの身を投げ打った『事故』で暴いて見せるとは。君のその神業のような判断力と度胸に、心からの感謝と敬意を捧げる。君は幸運の女神だ!」
「は……はい……?」
(事故なんですけど……!?)
「このヴァルター・バルフレア、君に命を救われた! 今後、君に危機が訪れたならば、我が軍勢はいつでも君の盾となろう!」
ヴァルター将軍の威厳ある宣言に、会場全体から「おおおっ!」という大きな歓声と拍手が巻き起こった。
「素晴らしい! さすがロメオ伯爵家のご令嬢だ!」
「一瞬で刺客の企みを見破るなんて、なんという英知!」
「世間では『幸運の女神』だと評判になっているそうだぞ!」
賞賛の嵐の中で、デイジーは魂が抜けた顔でポカンと口を開けていた。
(なんで……? 私、普通に体制を崩してスパイス瓶を飛ばしただけなのに……なんで帝国将軍の命の恩人になっちゃってるの……!?)
◇
会場が騒然とする裏で、すでに『事後処理』は始まっていた。
「……逃がすと思うか?」
ホールの暗がりの廊下。
毒入りのスープを運んできた若い給仕の男が、血相を変えて裏口から逃走しようとしていた。しかし、その脚は突如として現れた黒い影、ライアンの密偵によって足を払われ、冷たい石畳の上に叩きつけられた。
「ひっ……!?」
暗闇からゆっくりと歩み出てきたのは、ライアンであった。
彼のアイスブルーの瞳には、一切の感情が窺えなかった。
「私の目の前で、私の愛する女性を巻き込むような真似をしてくれたな。……毒の入手元と、背後にいる反王太子派閥の名前をすべて吐いてもらう」
「ひ、ひぃぃぃっ! 頼まれただけだ! 助けて――」
「自害はさせるな。絞り上げろ」
「はっ」
慣れた手際で刺客を拘束させたライアンは、手袋をすっと嵌め直すと、いつもの『完璧な貴公子』の笑みを貼り直した。
(やれやれ……。彼女の『間の悪さ』は、反乱分子の暗殺計画すら一瞬で踏み潰してしまうな。まったく、目が離せない愛おしい人だ)
◇
夜会も終盤。
騒動が落ち着き、バルコニーのベンチで「もう嫌……お家へ帰りたい……」と、げっそりと疲れ果てていたデイジーの元へ、ライアンが足音もなく近づいてきた。
「お疲れ様、私の可憐な救世主」
「ライアン様……。私、もう何も言いたくありません……」
デイジーが半泣きで力なく呟くと、ライアンは優しく目を細め、彼女の隣に腰掛けた。
「君が疲れ果てると思ってね。甘いものを用意させたよ」
ライアンの手元には、銀のトレイに乗せられた、最高級のイチゴと濃厚なクリームがたっぷり乗った完熟タルトが置かれていた。
「わぁ……美味しそう……って、ダメです! 私、また何かハプニングを起こしてイチゴを飛ばしてしまうかもしれません!」
先日のカフェでのトラウマから慌てて手を引っ込めようとするデイジー。
しかしライアンは、フッと甘く魅惑的な笑みを漏らすと、フォークで小さく切り分けたタルトをすくい――
「大丈夫だよ。もしイチゴが飛んでも、私がすべて受け止める。……ほら、あーんして?」
「えっ……!? あ、あの、ご自分で食べられますから――」
「ダメだよ。国家の危機を救ったヒロインには、相応のご褒美が必要だ」
逃げ場を塞ぐように、ライアンがすっと顔を近づけてくる。彼の美しいプラチナブロンドの髪がデイジーの頬をかすめ、甘い香水と男らしい体温がデイジーを包み込んだ。
「さあ……食べてくれないと、私が直接口移しで与えることになってしまうけれど?」
「た、食べます! いただきますっ!!」
真っ赤になったデイジーは、意を決してライアンのフォークからタルトをパクリと口に含んだ。
口の中に広がる上品な甘さとイチゴの酸味に、デイジーの瞳がほろりと緩む。
「ふふ、可愛いね。……よく頑張ったね、デイジー」
ライアンはそう囁くと、デイジーの頬に付いたわずかなクリームを、自身の指で優しく拭い、その指を自分の唇へと運んだ。
「ひやぁぁぁっ!?」
その艶めかしい仕草に、デイジーの顔は真っ赤に染まった。
(あ、関わっちゃいけない……! この人、悪徳金貸しや刺客より何倍も危険だわ!!)
反乱分子の陰謀すら吹き飛ばすデイジーの『不運』と、それを完全に甘い溺愛で包み込んでいくライアンの執着。
二人の距離は、デイジーの意図とは裏腹に、着実に近づいていくのだった。
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