第9話 天井を穿つ令嬢と、密輸組織の大混乱
「ふぅ……とっても心地よいお天気ね、マリー」
「ええ、デイジーお嬢様! 本日は絶好の写生日和でございますね!」
穏やかな秋の陽気が差し込む午後。デイジーは侍女のマリーを伴い、王都の郊外にある小高い丘を訪れていた。
先日の夜会にて、隣国の将軍のスープを激辛マグマに変えた末に『命の恩人』と崇められるという大騒動を引き起こしたデイジー。
疲れ果てた心を癒すため、本日は趣味である絵画――写生をしに来ていたのだ。
(よし……! 広々とした丘の上で絵を描くだけなら、誰にも迷惑はかからないわ! 壁もないし、スープもない! 今日こそは完璧に穏やかな休日を過ごせるはずよ!)
デイジーは木製の画架に真っ白な画用紙をセットし、木炭を手に取った。
――まさに、その瞬間のことである。
ごぉっ。
丘の頂上を、突如としてイタズラな強風が吹き抜けた。
「ああっ!?」
セットしたばかりの画用紙が画架から外れ、くるくると空中を舞いながら丘の下へと飛んでいってしまったのだ。
「お嬢様、お任せください! 私が拾ってまいります!」
「いいのよマリー! 貴女はここで絵の具の準備をしていて。私、すぐそこまで走って拾ってくるわ!」
前回の経験をまったく活かしていないデイジーは、ドレスの裾を少し持ち上げると、飛んでいった画用紙を追いかけて一人で丘を下っていった。
用紙は風に乗ってひらひらと舞い、丘の麓にポツンと佇む、気味の悪い木造の廃屋の二階の開いた窓へと吸い込まれていった。
(まあ……こんなところに古い建物があったのね。……ちょっと不気味だけど、用紙が一枚しかないから拾いに入らなきゃ)
デイジーはギシギシと音を立てる腐った外階段を上り、二階の窓からそっと廃屋の中へ侵入した。
中は埃っぽく、長年誰も使っていないような廃墟だった。部屋の隅に落ちている自分の画用紙を見つけ、デイジーはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった、汚れてはいないわ。さあ、早くマリーのところへ戻らなきゃ――」
デイジーが画用紙を拾い上げ、くるりと振り返ったその瞬間。
ミシッ……メリメリメリッ!
(え……?)
足元から、尋常ではない木材の悲鳴が聞こえた。
この廃屋は湿気で床板が完全に腐り果てており、伯爵令嬢の軽い体重すら支えきれなくなっていたのだ。
お約束の、避けえぬ事態である。
バキァァァンッ!!
「ひやああぁぁぁぁぁぁっ!?」
デイジーの足元の床板が一気に抜け落ち、大量の木の屑と埃を巻き込みながら、真下の『一階』へと真っ逆さまに落下した。
◇
その頃。
廃屋の一階――表向きはただの物置に見えるが、実は地下へと続く密輸ルートの入口となっている部屋では、重武装した男たちがテーブルを囲んでいた。
彼らの正体は、王都で暗躍する最大規模の闇密輸組織『黒い蛇』。
隣国から密輸した違法な武器や毒薬を山分けし、これからの取引について密談している最中だった。
「いいか、王立騎士団の張り込み網は潜り抜けた。今夜中にこの荷物を港へ運び出すぞ」
「へへっ、かしこまりやした頭。騎士団のボケどもめ、まさか俺たちがこんな廃墟のアジトに潜んでるとは夢にも思ってねえだろ――」
男がニヤリと下劣な笑みを浮かべた――次の瞬間であった。
ズドォォォォォンッ!!!!!
「ぎゃあああああっ!?」
天井が爆破されたかのような凄まじい音と共にぶち抜け、大量の木片と粉塵が降り注いだ。
そして、爆煙の中から――ひらひらとした高級なレースのドレスを纏った少女が、突如として天から降臨したのである。
ドサッ! ボフッ!!
「「ぎゃっ!!」」
「うぅ……お尻が……お尻が痛いわ……」
積まれていた密輸品のふかふかの毛皮の山の上に奇跡的に着地したデイジーは、頭を押さえて涙目で呻いた。
一方、密輸組織の男たちは、目の前の光景に完全にパニックを起こしていた。
「な、なんだぁぁぁっ!?」
「天……天井を突き破って、女が降ってきたぞ!?」
「白!? 白かったよな!?」
男たちの脳内で、恐ろしい誤解が爆風のように駆け巡った。
(バカな! 天井を一撃で粉砕して殴り込んできただと!? 待て……あの身なり、貴族の令嬢……!? 噂に聞く、あの数々の犯罪組織を叩き潰してきたという、王立騎士団の秘密兵器『崩壊の令嬢』かーーーっ!?)
「ひっ……! 罠だ! 襲撃だぁぁぁっ!」
「上からの強襲だぞ! 逃げろ! 殺される!!」
デイジーがただお尻を押さえて「うぅ……」と泣いているだけなのに、極悪非道な密輸組織の男たちは恐怖のあまり完全に動揺していた。
パニックを起こした男たちは出口へ殺到し、仲間同士で衝突し、将棋倒しになったり、勝手に転んだり柱にぶつかったりして、次々と動けなくなっていった。
そこへ――。
「手配中の密輸組織『黒い蛇』のアジトはここか! 突入――……って、え!?」
外で慎重に張り込みを行っていた王立騎士団が、あまりの轟音に、突入の機を逃すまいとドアを蹴破って入ってきた。
騎士たちが目にしたのは、天井に空いた巨大な穴と、勝手に自滅して全滅している凶悪犯たち。
そして、毛皮の山の上で画用紙を大事そうに抱え、ポカンと口を開けているデイジーの姿であった。
「デ……デイジー・ロメオ伯爵令嬢……!?」
「あ……あの……失礼いたしました……。床が抜けてしまって……」
引きつった笑みを浮かべるデイジー。
(なんで……? 私、ただ飛んでいった画用紙を拾いにきただけなのに……なんで闇の密輸組織のアジトを天井から粉砕しちゃってるのーーー!?)
◇
騒動から一時間後。密偵たちから知らせを受けたライアンは、急ぎ廃屋へ駆けつけていた。廃屋の近くに停められた、ヴァンサン公爵家の豪華な馬車。その中で――。
「……痛いところはないかい? どこか骨が折れていたり、擦り傷があったりしない?」
「ら、ライアン様……! 大丈夫です、毛皮の山の上に落ちたので無傷ですわ……!」
馬車のふかふかのシートの上で、デイジーは真っ赤になって縮こまっていた。
ライアンは、いつになく真剣で険しい表情をしていた。
彼は、決して広くはない馬車の中で、デイジーの目の前にひざまずき、彼女の手を優しく取り、手首や足首、肩のあたりを実に念入りに、触れるような手つきで検分していたのだ。
「手袋を外してごらん。……怪我がないか、私がこの目で直接確認させてもらう」
「ひゃいっ!? い、いえっ、本当に怪我はありませんからっ! ライアン様、お顔が近いです……!」
ライアンの手がデイジーの細い手首を撫で上げ、そのまま彼女の頬にそっと触れた。
彼のアイスブルーの瞳は、普段の完璧な微笑みの奥に、恐ろしいほどの執着と安堵の情熱を滾らせていた。
「冷や冷やさせないでくれ……。君が天井から落ちたと聞いた時、私の心臓がどれほど冷たくなったか……」
「う……ごめんなさい……」
「謝る必要はないよ。君が無事で、本当に良かった……」
ライアンはデイジーの手の甲に深く口づけを落とすと、そっと彼女の体を抱き寄せ、その頭を胸元に引き寄せた。
トン、トンと力強く脈打つライアンの鼓動が、デイジーの耳に伝わってくる。
(や、やっぱりこの人……距離感が近すぎるわ……! 胸が苦しくなっちゃう……!)
デイジーが心臓をバクバクさせていると、ライアンは彼女から見えない角度で、馬車の窓の外に立つ侍従のルイスへ視線を向けた。
そのアイスブルーの瞳は、一瞬で氷のように冷たく、残忍な光を放っていた。
二人は幼い頃から身につけた読唇術を使い、互いに唇の動きだけで意思を伝え合った。
『……ルイス』
『はっ。アジトを逃げ延びた『黒い蛇』の残党、および裏で資金を回していた反王太子派閥の末端組織ですね』
『影の騎士団、暗部を全投入させろ。今夜中に一匹残らず処理しろ。私のデイジーに傷を負わせようとした愚か者どもに、二度と日光を見せるな』
唇の動きだけの会話で凶悪な討伐命令を下したライアンは、再びデイジーに向き直ると、極上の甘い笑みを浮かべた。
「さあ、デイジー。今日はたくさん怖い思いをしたね。我が家のシェフが作った最高のモンブランを食べに行こうか」
「え……あ、はい……いただきます……。あ、でも、マリーは!? 私の侍女はどうなりましたか?」
「ああ、彼女なら、先にロメオ伯爵家へ送り届けてあるよ。心配はいらない。屋敷へ戻る前に、我が家で少し休んでいくといい」
二人を乗せた馬車は、公爵家へと向かうのだった。
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