第3話 路地裏の人生相談
「マリー、お願いだから私から三歩以上離れないでちょうだいね」
「お任せください、デイジーお嬢様! 今日の私はお嬢様の影となってお守りいたしますわ!」
王都の大通りに面した高級ドレス店の前で、デイジーは侍女のマリーに向かって真剣な眼差しを向けていた。
川での『背中突き落とし事件』、植物園での『ダイビング婚約成就事件』。
二度にわたるハプニングを経て、デイジーの警戒心は極限に達していた。
(今日はお母様に頼まれた刺繍糸とリボンを購入するだけ。絶対に余計な面倒ごとには関わらないわ! 誰とも目を合わせない。転ばない。完璧だわ!)
デイジーは鼻息荒く決意を固めると、伯爵家の馬車が待つ乗り場へ向けて店を後にした。
……しかし。
運命の神様は、デイジー・ロメオの『間の悪さ』を愛しすぎているらしかった。
「あっ、お嬢様! あちらに奥様が今朝お話ししていた新作の焼き菓子店が――」
「まあ、マリーたら。今日は買い物を終えたらすぐに帰るお約束でしょう?」
店を出て数十歩。ほんのわずか、マリーが甘味の誘惑に気を取られて歩幅を緩めた、その一瞬のことだった。
人混みの中から、ボロボロの服を着た一人の少年が猛スピードで飛び出してきたのだ。
(えっ!?)
デイジーが気づいた時には遅かった。
少年はデイジーに向かって一直線に突っ込んできており、その手はあからさまにデイジーの腕に下げられたレースの巾着袋へと伸びていた。
スリだ! あまりにも稚拙で、あまりにも必死な、絵に描いたようなスリの現場。
(避けないと!)
デイジーは足を踏み出そうとした。
しかし、ここで発動するのが彼女の不運である。昨夜の雨で、石畳の凹みに生えた苔が濡れて滑りやすくなっていた。
つるり。
「きゃああっ!?」
豪快に体勢を崩したデイジーの体は、避けるどころか前傾姿勢になり、突進してきた少年の懐へ、真正面から飛び込む形になった。
――ドガッ!
「ぐはっ!?」
二人はもつれ合ったまま、大通り脇の狭い路地へと転がり込んだ。
ガシャーン! と路地裏に積まれていた空の木箱が崩れ落ち、二人は木くずまみれになって倒れ込む。
「えっ! お嬢様!?」
大通りで、マリーの悲鳴が響く。
運悪く、近くに停められていた荷台まで巻き込む形で木箱が崩れ、路地の入口を塞いでしまった。マリーはすぐにこちらへ入ってこられない状態になってしまった。
(痛たた……また……またやってしまった……!)
デイジーは涙目になりながら体を起こした。
目の前では、十歳にも満たないであろう痩せこけた少年が、尻餅をついて恐怖に顔を引きつらせていた。
「ひ、ひぃ……っ! ご、ごめんなさい! 許してくださいっ!」
少年は完全に怯えていた。身なりの良い貴族の令嬢を巻き込んでしまったのだから、憲兵に引き渡されて牢屋に入れられると思ったのだろう。
少年は慌てて逃げ出そうと身を起こしたが、デイジーの『間の悪さ』はここからが本領発揮だった。
「待ちなさい――っ!」
逃がすまいとしたわけではない。
デイジーはただ、もつれたドレスの裾を解こうと手を伸ばした。
ところが、その手が偶然にも少年の古びた上着に引っかかり、そのままポケットのあたりを掴んでしまったのだ。
周囲から見れば、貴族の令嬢がスリの少年の上着を掴み、身柄を拘束した瞬間であった。
「ひっ……!?」
少年は硬直した。
デイジーはハッとして少年の姿をまじまじと見た。
そして、少年のガリガリに痩せた体と、ボロボロの服、今にも泣き出しそうな大きな目を見つめた。
(この子……盗みを働こうとするくらい、お腹が空いているの……?)
デイジーは大変なお人好しでもあった。
本当なら『スリは泥棒です! 憲兵に引き渡します!』と叫ぶべき場面である。しかし、目の前の少年の泣き顔と哀れさに、彼女の『間の悪さ』が奇妙な方向へと舵を切った。
「あなた……お腹が空いているの?」
「え……?」
少年は呆然とした。怒鳴られるでも、打たれるでもなく、聞こえてきたのは心底心配そうな、鈴を転がすような優しい声だったからだ。
「妹が病気で……もう三日も、何も食べさせてやれなくて……」
少年はポロポロと大きな涙をこぼし始めた。極限状態の緊張が切れたのだ。
デイジーは溜息をつくと、巾着袋から、先ほど服飾店でもらった、上質な銀紙に包まれた高級な果実ゼリーを二つ取り出した。
「これをお食べなさい。それと、妹さんの分も」
「えっ……? でも、僕……お姉ちゃんの巾着を盗もうと……」
「まだ盗まれてはいないでしょう? それより、お座りなさい。さあ、事情を聞かせてちょうだい」
デイジーはドレスが汚れるのも構わず、崩れた木箱の上に腰掛けた。
こうして、路地裏の吹き溜まりのような場所で、伯爵令嬢による『人生相談室』が突如として開幕したのである。
「妹さんはどんな症状なの? 王都の東区にある救護院なら、私の家が支援しているから無料で診てもらえるわ。それから……あなたは仕事を探しているのね? 盗みは感心しないけれど、妹を想う気持ちは本物でしょう? お父様に相談して、うちの屋敷の下働きか、知り合いの商人に紹介してあげられるかもしれないわ」
「ほんと……? ほんとに……!? 妹を助けてくれるの……!?」
「ええ。だから、二度とこんな危ない真似をしてはダメよ?」
少年の瞳に、生きる希望の光が宿る。少年は涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、何度も何度も地面に頭をこすりつけて感謝した。
「ありがとう……ありがとう、お姉ちゃん! お姉ちゃんは、女神様だ! 僕、まじめに働きます! 妹を絶対に助けて欲しいです!」
ちょうどその時、木箱の山をかき分けたマリーが「お嬢様ぁぁぁ!」と叫びながら飛び込んできた。
「ご無事ですか!? お怪我はありませんか!? この悪ガキを憲兵に突き出しましょう!」
「いいのよマリー、何もされなかったわ。……それより、この子を東区の救護院へ案内してあげてちょうだい」
デイジーは立ち上がり、ドレスの塵を払った。
またしても、自分は平穏なお買い物を楽しむことができなかった。スリの少年に体当たりをかまして倒してしまい、なぜか路地裏で人生相談に乗って終わった。
(はぁ……私って、本当に間が悪いわ……。なんで普通に買い物もできないのかしら……)
デイジーは疲労感いっぱいに遠い目をした。
◇
「……まさか、スリのガキを説教するどころか、仕事と病院の世話まで焼いてやるとはね。本当に、読めない令嬢だ」
路地裏を見下ろす、建物の二階の窓辺。
日除けの影に身を潜めて階下を見下ろしていたライアン・ヴァンサンは、感心したように息を吐いた。
「ライアン様、あの少年の手配は我がヴァンサン公爵家の方で済ませておきましょうか? デイジー様の手間を省くために」
後ろに控えるルイスが尋ねると、ライアンは愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「いや、彼女が救護院を紹介したんだ。手出しは無用だが……あの少年が二度と悪事に手を染めないよう、裏から少し圧力をかけておけ。それと、あの少年と妹が安心して暮らせる場所を用意してやれ。デイジー嬢の優しいお節介を無駄にしたくはないからな」
「かしこまりました。……しかしライアン様、本当によろしいのですか? デイジー様の『間の悪さ』による善行は、すでに王都のあちこちで噂になり始めていますよ。『奇跡の幸運を呼ぶ令嬢』として」
「ああ、知っている」
ライアンはプラチナブロンドの髪をかき上げ、アイスブルーの瞳を細めた。その瞳には、これまでとは違う熱が宿っていた。
「他の男どもに気づかれる前に、早く彼女を私のものにしなければな」
ライアンの密かな策略が、着々とデイジーを包囲していくのであった。
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