第4話 迷い込んだ邸と、無自覚な救世主
「マリー、今日の私は絶対にどこにも迷い込まないわ!」
「はい! お嬢様! 今日の目的地は王都で最も安心安全な商業組合の建物ですから!」
デイジーは侍女のマリーを引き連れ、王都の中心部に建つ立派な石造りの建物へ足を運んでいた。
ロメオ伯爵家が支援する慈善事業の書類を届けるだけだ。
危険な川も、修羅場になりそうな庭園も、物騒な路地裏も一切通らない、完璧なルート選択である。
(今日こそ……今日こそ、何事もなく書類を提出して、美味しい紅茶を飲んで帰るのよ!)
デイジーは胸を張り、意気揚々と商業組合の建物の廊下を歩いていた。
しかし。彼女は知らなかったのだ。
この建物の二階には、『悪徳金貸しゴルドン』の事務所が入っていることを。
表向きは組合にも正式に登録された商人として巧妙に正体を隠しているが、裏では貧乏貴族を言葉巧みに騙し、不当な金利で家財をむしり取っている悪徳商人だ。
「お嬢様。三階の奥の部屋とお伺いしていましたが、あちらでしょうか?」
「そうね、確か右側の……あら?」
廊下の曲がり角。誰かが引っ掛けたのか、部屋番号を示すプレートが妙な角度に曲がっていた。デイジーは「右」へ行くべきところを、何疑うことなく「左」の扉へと向かってしまったのだ。
そして、その扉は――鍵がかかっていなかった。
「失礼いたします、ロメオ伯爵家から書類をお持ち――」
ノックをして返事を待たずに、うっかりドアノブを回して開けてしまった侍女のマリー。
その瞬間、部屋の中に漂う重苦しい空気と、殺気立った沈黙が二人を襲った。
(……え?)
◇
部屋の中にいたのは、豪華な上着を羽織った太った男――悪徳金貸しのゴルドンと、その両脇に控える目つきの悪い男たち。
そしてテーブルを挟んだ向かい側に、顔を真っ青にしてガタガタと震えている一人の若い青年貴族だった。
青年貴族――コルド男爵家の当主、オスカー・コルドは、あまりの緊張と絶望に汗をダラダラと流していた。
亡き父から引き継いだコルド男爵家は、領地の不作で深刻な資金難に陥っていた。まだ幼い妹たちと領民を守るため、オスカーは必死の思いでこの金貸しの元を訪れていたのだ。
しかし、目の前に提示された契約書は、一見すると親切な支援金に見えて、裏のページには解読困難な暗号のような細かい文字で『返済が滞った場合、領地の鉱山権利および令嬢たちの身柄を譲渡する』という悪魔のような条項が組み込まれていた。
(こんな契約……結んじゃダメだ……! でも、今すぐ金を作らないと、領民たちが冬を越せない……っ!)
ペンを握るオスカーの手が、恐怖で激しく震える。まさに彼が諦めて契約書にサインをしようとペン先を紙に走らせた、その絶妙すぎる瞬間に――。
◇
バタンッ!
「失礼いたしますー!」
と、マリーとデイジーが勢いよく部屋に入室してきたのである。
「な、なんだ貴様は! 誰の許可を得て入ってき……って、ロメオ伯爵家の……!?」
金貸しのゴルドンが怒鳴り散らそうとして、デイジーの胸元に輝くロメオ伯爵家の家紋入りペンダントを見て言葉を詰まらせた。アルディア王国創立以来の名門貴族。自分のような裏社会の人間が逆らって良い相手ではない。
(あ……これは……面倒ごとの予感……!?)
デイジーの脳内で警報が鳴り響いた。
怪しい強面ども、怯える若い貴族、机の上の契約書。一目で分かる。『見てはいけない面倒ごとの現場』だ。
(逃げなきゃ! 今すぐ謝って退室しないと!)
「も、申し訳ございません! 部屋を間違えてしまいましたわ! ホホホホホ、それでは失礼――」
デイジーは素早く後退り、マリーの手首を掴んで扉を閉めようとした。
……しかし、運命の神様がそれを許すはずがない。
焦って後退りしたデイジーの足が、床に乱雑に積まれていた分厚い貸付帳簿に引っかかり、派手に滑った。
「きゃっ!?」
派手にバランスを崩したデイジー。
その拍子に、もう片方の手に持っていた伯爵家の書類入りの革製ファイルが跳ね飛んだ。
――ドガッ!!
ファイルは綺麗な放物線を描き、テーブルの上に置かれていたゴルドンのインク瓶を直撃。
さらに、弾け飛んだ黒いインクが、オスカーの目の前にあった『悪徳契約書』の上にドバッと豪快にぶちまけられたのだ!
「ああっ!? 契約書が!!」
ゴルドンが悲鳴を上げた。重要な条項が書かれた用紙は、一瞬にして真っ黒なインクの海へと沈み、読むことすら不可能な紙屑と化した。
「ひ、ひえぇぇっ!? ごめんなさい! ごめんなさい!!」
デイジーは半泣きになりながら謝罪した。
またやってしまった。他人様の大切な書類をインクまみれにして台無しにしてしまったのだ。
「ロ、ロメオ伯爵令嬢……! いくら名門の令嬢でも、これは……!」
ゴルドンが顔を真っ赤にして立ち上がろうとした、その時である。
デイジーの起こした惨状を呆然と見ていたオスカー・コルドの頭の中で、電撃が走った。
(待てよ……さっき見た裏ページの文面。あれは『王国金融取締法』で禁止されている不当担保の条項じゃなかったか……!?)
極度の緊張から解放され、冷や水を浴びせられたオスカーは、一気に冷静さを取り戻した。
そして、目の前で派手に躓き、インクをぶちまけたデイジーを見つめる。
(違う……このお方は部屋を間違えたんじゃない! 僕が悪徳契約を結びそうになっているのを察して、わざと乱入し、伯爵家の威光を示しながら契約書を物理的に破壊してくださったんだ……!)
オスカーの脳内で、凄まじい『勘違いの変換』が行われた。
「あの……? 大丈夫ですか……?」
デイジーが恐る恐る顔を上げ、申し訳なさそうに尋ねた。彼女としては「怪我はありませんか」という意味だったのだが――。
「ロメオ伯爵令嬢様……! ありがとうございます!!」
オスカーはガタッと立ち上がると、デイジーに向かって深く深く頭を下げた。涙がその目から溢れ出している。
「私の不徳の致すところでした! 騙されかけていた私の目を覚まさせるため、あえてこのような荒治療を……! コルド男爵家オスカー! 幸運の女神から受けたこの御恩は生涯忘れません!」
「え? え?」
オスカーは黒焦げ……ならぬインクまみれの契約書を放り投げると、顔を青ざめるゴルドンを一瞥し、デイジーの手を固く握りしめた。
「ロメオ伯爵令嬢様、実は我が家は領地の資金難で……ですが、このような悪徳な融資に頼らず、正々堂々と、もう一度王国銀行への融資を申し込んでみます! 助けていただき、本当にありがとうございました!」
「あ……はい……? 頑張ってください……?」
オスカーは晴れやかな顔で部屋を飛び出していった。
あとに残されたのは、インクまみれの机と、手出しできなくなった悪徳金貸しと、魂の抜けたデイジーと侍女だけだった。
(なんなの……? 私、普通に転んでインク倒しただけなんだけど……!)
◇
「……くくっ、ははは! まさかインク瓶を投擲して悪徳契約を物理的に白紙撤回させるとはね!」
商業組合会館を見下ろせる、向かいの建物の上階。
遠眼鏡で一部始終を観察していたライアン・ヴァンサンは、優雅に紅茶をすすりながら楽しそうに肩を揺らしていた。
「ライアン様、笑い事ではありません。あのコルド男爵家は、我々が支援している家の一つです。危うく悪徳商人に領地を奪われるところでした」
侍従のルイスがため息をつく。
「ああ、分かっている。コルド男爵家には、私から適切な金利で正規の融資を回すよう手配しておけ。……それにしても」
ライアンは窓の外を見つめた。その口元に、楽しげな笑みが浮かぶ。
「彼女の『間の悪さ』は、もはや国益レベルの幸運だな。青年貴族を救い、悪徳商人の契約書まで潰し、本人はただ落ち込んでいる。そろそろ、陰から見守るのも終わりだ」
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