第12話 夜の庭園と、暗闇の蜜月
「うぅ……少し風に当たるだけのつもりだったのに……」
ヴァンサン公爵邸の煌びやかに飾り付けられた広大な庭園。デイジーは、迷路のように入り組んだ薔薇の生け垣で途方に暮れていた。
今夜はヴァンサン公爵家が主催する夜会。豪華絢爛な大広間は熱気に溢れ、人酔いしたデイジーは「少しだけ夜風を……」と庭園へ出たのだが、あろうことか完全に道に迷ってしまったのだ。
(どうしましょう……マリーもいないし、ここが敷地のどの辺りかも分からないわ……)
焦るデイジーが立ち尽くしていると、生け垣のすぐ向こう側から、男たちの低い話し声と足音が近づいてきた。
『……狙うのはヴァンサン公爵邸の庭園奥に建つ離宮。その一階にあるライアン・ヴァンサンの控室だ』
『ああ、部屋のテラスの暗がりに潜伏し、隙を見て仕留めるぞ』
(ひっ……!? 暗殺者……!?)
どうやら話している二人のうち、一人が実際にテラスへ潜伏するらしい。
デイジーは血の気が引いた。自分が大変な現場の近くにいることを察し、恐怖で凍りつき、心臓が破裂しそうになる。
(見つかったら殺されるかも! どこか……どこかに隠れなきゃ!)
パニックに陥ったデイジーは、月明かりの下、ドレスの裾を掴んで必死に薔薇の生垣を駆け出した。生け垣を抜けると、目の前にひっそりと佇む静かな離宮の建物が見えた。
一階のテラス部分には大きな観葉植物の鉢植えが並び、深い影を作っている。
(あそこなら……! あの鉢植えの陰なら隠れられるわ!)
デイジーは足音を殺し、必死の思いでテラスの暗がりへと飛び込んだ。
しかし。そこはまさに、先ほど密談していた刺客が『潜伏場所』として選んでいた、一番隠れやすい場所だったのだ。
ドスンッ!!
「なっ……がはっ!?」
逃げ込んできたデイジーの膝が、暗闇の中で息を潜めていた男の鳩尾に完璧な角度で打ち込まれた。
まさか潜伏場所に、貴族令嬢が声も上げずに突撃してくるとは夢にも思っていなかった刺客は、強烈な一撃に「ぐえっ」と息を詰まらせた。
(きゃああっ!? なにか踏んだわ!? 人!?)
パニックになったデイジーは『ごめんなさいごめんなさい!』と心の中で叫びながら、暗闇の中で必死に立ち上がろうと暴れた。
その拍子に、デイジーの細いヒールが刺客の手にしていた小瓶を思い切り踏みつけた。
パリンッ!
「なっ――!?」
小瓶から漏れ出した液体が床に広がった瞬間、白い煙が一気に立ち上った。
「ぐっ……!」
刺客は喉を押さえ、その場に崩れ落ちた。
「きゃッ! なに、この煙!」
デイジーが涙目になってオロオロしていると――。
ガラッ!
テラスに面したガラス扉が優雅に開き、眩しい部屋の明かりが暗闇を照らし出した。
◇
「……先ほどからテラスの外に妙な気配があると思っていたんだ。捕らえようとしたところで、君が飛び込んできたわけか」
光の中に立っていたのは、プラチナブロンドの髪を少し崩し、上着を脱いだシャツ姿のライアンであった。
ライアンは足元で倒れている刺客を一瞥すると、アイスブルーの瞳を薄く細め、それから涙目で立ち尽くすデイジーへと視線を移した。
「ら、ライアン様……? ここ……ライアン様のお部屋だったのですか……?」
「ああ。ここは私の私室兼控室だよ」
「ひえっ……! 違いますの! 私、刺客の男たちから隠れようとしてここに飛び込んだら、なぜかその刺客が足元にいて、私が小瓶を踏んで割ったら勝手に倒れて――」
必死に弁明しようとするデイジーの言葉を遮るように、ライアンはゆっくりと近付き、彼女の華奢な腰に手を回した。
「……ふふ。刺客から逃げて、よりによって私の部屋のテラスに飛び込んでくるなんて。君の『間の悪さ』は、本当に私の予想を遥かに超えてくるね」
「だ、だから事故なんです……! 離してくださいませっ!」
ライアンはデイジーを軽々と抱え上げると、そのまま部屋の中へと連れ込み、重い扉をカチャンと施錠した。
ふかふかのソファにデイジーを座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。
「ライアン様……!? 扉を閉めないでくださいませ……!」
「ダメだよ。外にはまだ刺客がうろついているかもしれない。それに……」
ライアンはデイジーの耳元に顔を寄せ、低く甘い声で囁いた。
「夜会の最中、人目を忍んで私の私室に飛び込んできたんだ。……社交界ではこれを何と呼ぶか、知っているかい?」
「え……? 『迷子』……でしょうか?」
「ふっ。『密会』だよ、私の愛しい人」
「み……っ!?」
デイジーの顔が爆発したように真っ赤になった。
ライアンの手がデイジーの背中に回され、彼女の体をゆっくりと自分の方へと引き寄せる。息が触れ合うほどの距離に、ライアンの美しい顔が迫っていた。
「ライアン様……お、顔が近いです……っ!」
「君が悪いんだよ、デイジー。こんなにも無防備に私の領域に飛び込んできて……私の理性を試しているのかい?」
ライアンのアイスブルーの瞳に、熱く濃密な執着の色が宿る。
彼の長くて美しい指先がデイジーの唇を優しくなぞり、ゆっくりと自身の顔を傾けて重なっていく――。
(ひやぁぁぁっ!? ち、チューーされる!? ファーストキスを奪われちゃうーーー!?)
デイジーが恐怖と緊張でぎゅっと目を瞑った――まさにその時。
ドンドンッ!
『ライアン様! ルイスです! テラスで刺客が倒れているとの報告を受け――』
絶妙すぎるタイミングで、護衛のルイスが扉をノックした。
「…………」
唇が触れる寸前で、ライアンの動きが止まった。
その顔から一瞬で微笑みが消えた。アイスブルーの瞳からは、人を殺せそうなほど冷酷な殺気が放たれ、扉へと向けられた。
「……ルイス。空気を読むという概念を忘れたのかい?」
『ひっ……! 大変申し訳ございませんっ! すぐに立ち去ります!』
「待ってください! ルイス様! 開けて! 助けてーーー!」
デイジーはライアンの腕をすり抜けると、半泣きでドアへ駆け寄り、鍵を開けて廊下へ逃げ出したのだった。
◇
「……やれやれ。あと一歩だったのだがね」
静まり返った室内で、ライアンは残されたデイジーの甘い香りを惜しむように溜息をついた。
そこへ、青ざめた顔のルイスが恐る恐る戻ってくる。
ルイスは倒れた刺客の懐を探り、折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
「……これは、暗号表ですね。王宮内の配置と照合すれば、暗殺計画の標的と侵入経路が特定できるかと」
そこには、王宮の見取り図と、複数の場所を示す奇妙な記号が記されていた。
「……ライアン様、申し訳ございません。刺客の件ですが、ローゼンベルク公爵派の手先で間違いありません。デイジー様のおかげで、王宮への侵入経路を示す暗号表まで回収できました」
「……そうか」
ライアンはいつもの冷徹な表情に戻ると、冷たい笑みを浮かべた。
「あの愚か者どもめ。私のデイジーを怯えさせ、さらに私の最高の瞬間を邪魔してくれた罪は重い。……次の舞踏会で、ローゼンベルク公爵家には退場してもらおう」
二人の運命は、いよいよ物語のクライマックス――クーデターの夜へと突き進んでいくのだった。
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