第11話 開かずの扉と、嫉妬深き貴公子
「まあ、デイジー! ようこそ我が家へ!」
爽やかな秋晴れの日、デイジーは友人の子爵令嬢、シルヴィアの屋敷で開かれる少人数のお茶会に招かれていた。
先日の『廃墟の落下事件』の打撲痛もようやく癒えて、今日はおとなしく紅茶とスコーンを楽しむだけの平和な一日になるはずだった。……デイジー本人は、心からそう願っていた。
「今日はとびきり美味しい茶葉を用意したの。ゆっくりしていってね」
「ありがとう、シルヴィア。今日こそは……本当に何事もなく、穏やかに過ごせそうで安心したわ」
デイジーが胸を撫で下ろした、まさにその瞬間のことである。
「ニャ〜ン」
シルヴィアの愛猫であるモコモコの白猫『ブラン』が、デイジーの足元をすり抜け、廊下の奥へとトコトコと走っていったかと思うと、開いていた窓から部屋の中へと飛び込んでしまった。
「あら、ブランちゃん! 待って、そっちはダメよ!」
シルヴィアが慌てて声を上げる。
「私、連れ戻してくるわ!」
デイジーは親切心からドレスの裾を少し持ち上げ、白猫の後を追いかけた。
「ちょっと、デイジー! その部屋、昔はお祖父様が使っていた書斎で、最近はほとんど使っていないのよ!」
「すぐに連れ戻すだけだから大丈夫よ!」
そんなシルヴィアの声を背に、デイジーは書斎を目指して子爵邸内へと駆け込んでいった。
◇
「すみません! お祖父様がお使いだった書斎はどちらでしょうか!」
侍女に案内された薄暗い廊下の突き当たり、半開きになっていた書斎の扉を開けると、白猫は壁際に置かれた巨大な本棚の『隙間』へとすっと入り込んでしまった。
「あ! ブランちゃん! さあ、こちらへいらしゃい!」
デイジーが声をかけると、デイジーを見て「ニャ〜ン」とひと鳴きしたブランは、壁際に置かれた巨大な本棚の裏へ、すっと姿を消した。
「ブランちゃ〜ん、出てきて……って、あら?」
本棚と壁の間には、わずかな隙間があった。
その奥を覗き込むと、人ひとりがようやく入れそうな暗い空間が続いている。
「こんなところに……?」
どうやら本棚の裏には、昔から隠されていた小さな保管庫があるらしい。
その奥から、ブランが「ニャ〜ン」と鳴いた。
デイジーが壁の空洞に首を突っ込み、奥へ足を踏み入れたその時である。
ギィ……ガチャン!!
「え……?」
足元に落ちていた古い木枠を踏みつけた衝撃で、壁の奥に立てかけられていた重い板が、突然こちら側へ倒れてきた。
「きゃっ!!? や、やだ……開かないわ!」
デイジーは、見事に隠し扉の狭い空洞に閉じ込められ、挟まってしまった。
「シルヴィアー! 助けてー!」
必死に叫ぶが、外から返事は聞こえない。
「どうしましょう……。開かないわ……」
焦ったデイジーは、なんとか外へ出ようと、壁を両手でドンドン叩き始めた。
毎度お約束の、『不運』の発動である。
バキッ! メリメリメリ……!
デイジーが壁を叩いた振動で、内部の木箱が大きく傾いた。
「ひっ……!?」
壁の中から、嫌な音がした。
そして――
ドサッ! ゴトッ!!
「いたっ!」
突然、頭上から何かが落ちてきた。
「もう……何なのよぅ……!? いった〜い!」
デイジーが頭を押さえながら拾い上げたのは、古びた革張りの書類入れだった。中には、黄ばんだ羊皮紙が何枚も収められている。
「これは……?」
何気なく一枚を広げたデイジーの目に、見慣れない紋章と古い公印が飛び込んできた。
その直後――
「デイジー!?」
外からシルヴィアの声が響いた。
なかなか戻らないデイジーを心配したシルヴィアと、屋敷の侍従たちが書斎へ駆け込んできた。
「た、助けてシルヴィア……! ここよ! ここに挟まっちゃったの……!」
「まあ大変! みんな、この壁の板を退けて!」
侍従たちが駆けつけ、倒れた板を取り除いていく。
やがてデイジーが救出されると、シルヴィアは彼女の手に握られた書類を見て首を傾げた。
「それ……何?」
「分からないの。壁の中で、上から落ちてきたのよ」
「上から?」
シルヴィアは書類を受け取ると、最初の一枚に目を通した瞬間――顔色を変えた。
「……待って。これ……」
「どうしたの?」
「この印……お祖父様の印章だわ。それに、この署名は王宮付きの公証人のもの……」
「え?」
シルヴィアは震える指で羊皮紙をめくっていく。
「これ……もしかして……」
そこには、かつてシルヴィアの祖父が親族から預かったことを示す記録と、正式な公証人の署名が残されていた。
さらに、その奥から一通の古い遺言状が現れた。
「これ……先代当主様の遺言状じゃないかしら」
「先代当主って……?」
「先代ブロイ子爵――レオン様のお父様よ」
シルヴィアの声が震える。
『レオン・ブロイ』――ブロイ子爵家の令息。亡き父はシルヴィアの父と従兄弟にあたり、レオン自身はシルヴィアにとって、はとこにあたる少年だ。
「お祖父様は……亡くなる前に、これを預かっていたんだわ」
シルヴィアは、古い記憶を辿るように呟いた。
「そういえば、お祖父様は昔、レオンのお父様をすごく可愛がっていたって……」
先代当主であるブロイ子爵、つまりレオンの父君は、死の間際、自分の弟――つまり、レオンの叔父にあたる男が家督を狙っていることを察していた。
だが、その後まもなくシルヴィアの祖父も急逝した。
祖父は万一の事態に備え、遺言状をはじめとする重要書類を一つの書類入れにまとめ、書斎の壁に設けた隠し保管場所へ収めていたらしい。
その存在を知る者がいなくなったため、書類入れは誰にも発見されることなく、長い年月の間、壁の中に眠り続けていたのである。
「じゃあ……レオン様のお父様は、ちゃんと遺言を残していたの?」
「ええ」
シルヴィアが遺言状を広げる。
そこには、はっきりと記されていた。
『我が死後、家督ならびに全財産を嫡男レオンに相続させる』と。
「……これが本物なら」
シルヴィアが息を呑む。
「レオンは……最初から正当な後継者だったのよ。王宮付きの公証人の署名まである。これが正式なものだと認められれば、叔父様が家督を継いだこと自体が覆るわ」
「まあ……!」
デイジーは驚きに目を見開いた。
騒ぎを聞きつけて、屋敷の雑用をしていたレオンも廊下へ駆けつけていた。
そこには、質素な服を着た少年が立っていた。その少年こそが、レオンだった。彼は、自分の人生を変えることになる遺言状を見つめていた。
「……僕の……?」
震える声だった。
デイジーは困ったように首を傾げる。
「ええ。どうやら、あなたのお父様が残された正式な遺言状みたいよ」
「…………」
レオンの瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
「僕……ずっと、自分には何もないと思っていました」
そして彼は、デイジーを見つめる。
「それを……貴女が見つけてくれたんですね」
「え? い、いえ……私はただ、ブランちゃんを追いかけて、壁に挟まって暴れただけで……」
「いいえ」
レオンは首を横に振り、震える手で、デイジーの手をそっと握った。
「貴女は僕を暗闇から救ってくれた女神様です」
「は? いや、ええぇ……!?」
デイジーの絶叫が、古い書斎に響き渡った。
◇
その日の夕方。ロメオ伯爵家のサロン。
「……ふーん。『可愛らしい銀髪の子爵令息に、手を握られて感謝された』、ね」
冷たい。恐ろしく温度の低い声がサロンに響いた。
応接室のソファに腰掛け、優雅に紅茶のカップを傾けているライアン・ヴァンサン。
彼のアイスブルーの瞳は、微笑んでいるはずなのに全く笑っていなかった。
「ひぃっ……! ラ、ライアン様……? なぜ我が家に……?」
「君がまたどこかの屋敷で壁に挟まったと聞いてね。心配して駆けつけたのだが……どうやら余計なお世話だったようだ。新しく年下の『可愛い信者』ができたようで、何よりだよ」
ライアンはカップをソーサーに置くと、静かに立ち上がり、デイジーの目の前へ歩み寄った。そのままデイジーの顎をすっと人差し指で持ち上げ、逃げ場を塞ぐように顔を近づける。
「ら、ライアン様……! レオン様はただ感謝してくださっただけで、私は何も――」
「知っているよ。君が無自覚なのはね」
ライアンの唇が、デイジーの耳元に触れそうなほど接近する。熱い息がかかり、デイジーの全身に鳥肌が立った。
「……だが、私もそれほど寛大な男ではなくてね。私の知らないところで、別の男が君に触れ、君を『僕の女神様』などと呼ぶのは……どうにも不愉快でね」
「ひやぁっ……!?」
ライアンはポケットから一枚の書類を取り出すと、優雅にテーブルの上に置いた。
「安心しなさい。あの子爵令息には、当主としての見聞を広めてもらうため、明日から我が公爵家が所有する『ウィステリア領』の復興事業に従事してもらうことにした。もちろん、王家にも話は通してある」
「……え?」
「将来の当主なら、現場を知っておくのも大切だろう?」
にこり、とライアンが笑う。
その笑顔を見て、デイジーは悟った。
(これは、私から遠ざけようとしてる……? 絶対それが目的じゃないですかーっ!!)
デイジーは内心で悲鳴を上げた。
ライアンの独占欲と嫉妬心が、麗しき貴公子の微笑みの裏でドロドロに渦巻いていた。
「さあ、デイジー嬢。もう余計な男に気を取られないでおくれ。……君が救うべきなのは、君のせいで毎日胸を痛めている、この私だけなのだから」
ライアンはそう囁くと、デイジーの指先に甘いキスを落とした。
(なんで!? どうして、うちに!? そして、どうして、キスされるのよ!!)
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