第6章 聖女のお仕事
朝食を終えたアネクシアは、今日一日をどう過ごすかという、とても重要な問題について考えていた。
本を読む。
庭を歩く。
昨日、教師から出された課題を片づける。
最後の選択肢だけは、できれば明日に回したい。
前世では二十八歳まで生きたが、大人の記憶があるからといって勉強が好きになるわけではなかった。
むしろ、やらなくても困らないことを知っているぶん、少しだけ質が悪い。
「アネクシア」
背後から聞こえた声に、嫌な予感がした。
「今日は暇よね?」
振り返る。
白を基調とした衣装に金の装飾。
普段、アネクシアの前では姉という立場を最大限に利用して甘やかしてくるセリシアが、今日は珍しく聖女としての正装をしていた。
「……暇じゃない」
「あら、何か予定が?」
「これから考えるところ」
「それを暇というのよ」
逃げ道を塞がれた。
セリシアは満足そうに笑う。
「今日は私のお仕事に付き合ってもらいます」
「お仕事?」
「そう。社会勉強」
その言葉は便利だ。
大人が子供を連れ回すとき、大抵のことを正当化できる。
「お父様は?」
「許可をいただいたわ」
「本当に?」
「今回は本当に」
「今回は」
「細かいことを気にしてはいけません」
前回の城下町での一件以来、姉の言う『許可』には種類があることをアネクシアは学んでいた。
今回は正規のものらしい。
「どこ行くの?」
「西の街よ。少し魔物が出たのと、怪我人がいるみたい」
「危なくない?」
「私がいるのよ?」
セリシアは胸を張った。
説得力がありすぎて何も言えなかった。
普段の姉を知っていると忘れそうになるが、この人は聖女である。
しかも、かなりすごいらしい。
どれくらいすごいのか。
アネクシアはまだ、よく知らなかった。
◇
皇都を出てしばらくすると、景色は徐々に変わっていった。
石造りの建物が減り、畑が増える。
アネクシアは馬車の窓に張りついていた。
「そんなに珍しい?」
「うん」
「城下町には行ったでしょう?」
「街と外は違う」
「なるほど」
セリシアが笑う。
「何が違うの?」
「畑が多い」
「それだけ?」
「道が狭い。馬車も少ない。家と家が遠い。それから――」
「ごめんなさい。聞いた私が悪かったわ」
「まだある」
「でしょうね」
姉が遠い目をした。
最近、周囲の大人たちはアネクシアが何かを見て考え始めると、少し警戒するようになっていた。
なぜなのかは分からない。
たぶん失礼だと思う。
「ところで、お姉様」
「なあに?」
「聖女って、何するの?」
セリシアが固まった。
「……今?」
「うん」
「今聞くの?」
「だめ?」
「いいけれど……」
セリシアは困ったように頬へ指を当てた。
「治療をしたり、結界を張ったり、魔物を浄化したり……いろいろね」
「お医者さん?」
「それだけではないわね」
「兵士?」
「それも違うわ」
「神官?」
「近いけれど、それだけでもなくて……」
アネクシアは首を傾げた。
「何でも屋?」
「聖女よ」
少しだけ強い声だった。
どうやら何でも屋ではないらしい。
◇
目的の街に着いたとき、アネクシアはようやく姉の仕事を理解した。
いつものセリシアとは、まるで違った。
「重傷者からこちらへ。歩ける方は後です」
声は穏やかなまま。
だが、誰も逆らわない。
「結界の西側が薄くなっています。補修を。浄化は私がやります」
次々と指示を出しながら、負傷者の前に膝をつく。
白い光がセリシアの手から広がった。
血に染まっていた男の腕から、ゆっくりと傷が消えていく。
アネクシアは少し離れた場所から、それを見ていた。
「……すご」
思わず声が漏れた。
姉は振り返らなかった。
次の患者。
その次。
休む様子もない。
普段ならアネクシアが転びそうになっただけで大騒ぎする人が、今は泣いている子供にも、呻いている兵士にも、同じ声で話しかけている。
「大丈夫よ」
その言葉だけで、本当に大丈夫になる気がした。
聖女。
なるほど。
何でも屋ではなかった。
「第三皇女殿下」
護衛に呼ばれ、アネクシアは我に返った。
「こちらへ。物資の搬入がありますので」
「物資?」
街の入口へ目を向ける。
何台もの馬車が入ってきていた。
見慣れない紋章。
荷台には食料、薬、布、木材。
そして、その中央に一人の青年がいた。
まだ若い。
整った顔立ちに、落ち着いた色の髪。
その両眼が荷馬車と周囲の人間を忙しく追っていた。
「その薬箱は治療所へ。食料は広場に集めないでください。三か所に分散を。人が集中します」
「殿下、こちらの木材は?」
「西へ。結界の補修班が使うはずです」
「しかし聖女様からの指示は――」
「確認してきます。勝手には動かさないように」
偉そうに命令するというより、必要な場所へ必要なものを動かしている。
そんな印象だった。
アネクシアはしばらく眺めた。
「誰?」
「グランヴェル王国のレオンハルト殿下です」
護衛が答える。
「王様?」
「国王陛下の弟君でいらっしゃいます」
「へえ」
大国グランヴェル。
アネクシアの国にとって宗主国でもある、最も重要な隣国。
距離も近く、人も物も頻繁に行き来する。
名前くらいは本で読んでいた。
その王弟が、なぜこんなところにいるのだろう。
「なんで?」
護衛の表情がわずかに固まった。
「……何がでしょう」
「王様の弟が、荷物運んでる」
「運んではおりません。指揮を執っておられます」
「なんで?」
「それは……」
困らせてしまった。
アネクシアがもう一度レオンハルトを見ると、ちょうど向こうもこちらに気づいた。
目が合う。
レオンハルトが何かを護衛に告げ、歩いてきた。
「お初にお目にかかります、第三皇女殿下」
きちんとした礼。
「グランヴェル王国、レオンハルトです」
「アネクシア・アウレリスです」
こちらも覚えたばかりの作法で返す。
「存じております」
「私もさっき知った」
一瞬、沈黙。
護衛が顔を伏せた。
レオンハルトは笑った。
「それは光栄です」
怒らなかった。
いい人かもしれない。
「なんでここにいるの?」
「近隣地域の状況確認と、支援物資の輸送状況を見るためです。こちらの国で問題が起きれば、我が国にも影響がありますから」
「王様の弟がやるの?」
「私の担当ですから」
「王族なのに?」
「王族だから、でしょうか」
アネクシアは少し考えた。
「偉い人って、仕事多いね」
「まったくです」
即答だった。
この人とは話が合いそうだ。
「レオンハルト!」
遠くからセリシアの声。
振り向けば、治療を終えた姉がこちらへ歩いてくる。
レオンハルトの表情が少し変わった。
先ほどまでの王族らしい顔から、もっと柔らかなものへ。
「セリシア」
「もう着いていたの?」
「君が治療を始めた頃には」
「声をかけてくれればよかったのに」
「患者より先に?」
「……それは駄目ね」
「だろう?」
アネクシアは二人を交互に見た。
距離が近い。
というより。
「知り合い?」
二人ともアネクシアを見た。
セリシアが瞬きをする。
「アネクシア?」
「なに?」
「もしかして……聞いてない?」
「何を?」
今度はセリシアがレオンハルトを見た。
レオンハルトもセリシアを見る。
「陛下から話すものだと思っていた」
「私はあなたから聞いていると思っていたわ」
「何を?」
二人が再びこちらを見る。
嫌な予感がした。
セリシアが少し申し訳なさそうに笑う。
「レオンハルトはね」
「うん」
「私の婚約者なの」
「…………」
アネクシアはレオンハルトを見る。
レオンハルトが微笑む。
セリシアを見る。
姉も微笑む。
「聞いてない!」
街に、第三皇女の声が響いた。
◇
「お姉様、結婚するの?」
「すぐではないわよ」
「いつ?」
「もう少し先」
「どこに住むの?」
「結婚したら、グランヴェルへ行くことになるわ」
アネクシアの足が止まった。
「……遠い?」
セリシアも足を止める。
少しだけ考えてから、笑った。
「すぐ会いに来られるわ」
「ほんと?」
「本当よ」
レオンハルトも頷いた。
「こちらとグランヴェルは近いですから。街道が空いていれば、それほど時間はかかりません」
「じゃあ、遊びに行っていい?」
「もちろん」
セリシアが答えるより先にレオンハルトが言った。
「城を案内しましょう」
「美味しいものある?」
「そちらが先ですか」
「重要」
「それならセリシアより詳しいかもしれません」
「あら?」
セリシアの声が低くなった。
「私より?」
「……同じくらいです」
「よろしい」
何がよろしいのか分からない。
けれど、アネクシアは安心した。
遠くへ行く。
その言葉には、どうしても少しだけ敏感になる。
前の人生では、会おうと思っていた人に、もう会えなくなった。
だから今度は。
「じゃあ約束」
アネクシアが小指を出した。
セリシアが笑う。
「また約束?」
「大事だから」
「そうね」
姉の指が絡む。
少し迷ってから、アネクシアはレオンハルトにも手を向けた。
「殿下も?」
「案内するって言った」
「確かに」
レオンハルトも小指を差し出した。
三人の指が、不格好に重なった。
「グランヴェルに遊びに行く」
「ええ」
「美味しいものを食べる」
「そこも含まれるのね」
「重要」
「では、私が店を探しておきましょう」
「レオンハルト、甘やかさないで」
「君にだけは言われたくない」
帰りの馬車まで、そんな話をしていた。
その日の夕食。
「お父様」
「どうした、アネクシア」
「セリシアお姉様が結婚するって知ってた?」
皇帝の手が止まった。
「……知っていたが」
「なんで教えてくれなかったの?」
「セリシアから聞いているものだと」
「私もお父様から聞いているものだと思っていたのよ」
隣のセリシアが言う。
アネクシアは二人を見る。
「二人とも駄目じゃん」
皇帝が黙った。
セリシアも黙った。
少し離れたところで、侍女が笑いを堪えていた。
今日、アネクシアはいくつかのことを知った。
姉は、本当にすごい聖女だった。
偉い人には、偉い人なりの仕事があるらしい。
そして大人は、大事なことほど誰かが説明したと思い込む。
最後の一つが、一番役に立ちそうだった。
翌日。
アネクシアは教師に、グランヴェル王国についての本を頼んだ。
いつか姉が暮らす国なら、知っておきたかった。
それだけの理由だった。




