第4章 法を守る家
皇帝は偉い。
それくらいは、アネクシアにも分かる。
この国で一番偉い人。
たくさんの人に頭を下げられて、国を動かして、命令すれば大抵のことはできる。
そして、その娘である自分も。
たぶん、かなり偉い。
だから。
「駄目です」
「なんで?」
「法で決まっているからです」
「でも、お父様はいいって言ったよ?」
「陛下がお許しになっても駄目です」
アネクシアは目の前の男を見た。
男もアネクシアを見た。
「……お父様、皇帝だよ?」
「存じております」
「一番偉いよ?」
「その通りです」
「なのに駄目なの?」
「はい」
おかしい。
アネクシアは父を見る。
助けを求めたつもりだった。
父は笑いを堪えていた。
「お父様」
「なんだ?」
「この人、わたしの言うこと聞いてくれない」
「そうだな」
「お父様の言うことも聞いてくれない」
「そうだな」
「いいの?」
「それでいい」
もっとおかしい。
アネクシアはもう一度、男を見た。
アルベルト・クロイツェル。
国を支える三家の一つ。
司法を担うクロイツェル家の当主である。
そして。
アネクシアが生まれて初めて出会った。
皇帝の命令を聞かなくても、皇帝に褒められる人だった。
◇
話は少し前に遡る。
「これ、もらっていい?」
アネクシアが指差したのは、一冊の本だった。
皇妃フィオナ・アウレリスが使っていた部屋。
母が亡くなってからしばらく経ち、そこに残された品々を整理することになった。
衣服。
装飾品。
手紙。
食器。
そして、たくさんの本。
アネクシアには、どれも見覚えがあった。
幼い頃。
ベッドからあまり動けない母のそばで、何度も読んでもらった。
そのうちの一冊。
表紙の角が少し擦れている。
何度も開いた跡がある。
「それが欲しいの?」
隣にいたセリシアが尋ねた。
「うん」
「いいんじゃない?」
「では、こちらに」
侍女が本をアネクシアの側へ移そうとする。
「お待ちください」
止めたのは、部屋の隅にいた官吏だった。
「なに?」
「申し訳ございません、第三皇女殿下。その書物は、まだお渡しできません」
「なんで?」
「皇妃殿下の遺品の整理が完了しておりませんので」
「でも、これお母様の本だよ?」
「はい」
「わたし、娘だよ?」
「はい」
「じゃあ、いいじゃん」
「駄目です」
アネクシアはセリシアを見る。
「お姉ちゃん」
「私を見ても駄目よ」
「なんで?」
「私も娘だから」
「二人で決めればいいじゃん」
「それをやると怒られるの」
「誰に?」
セリシアが少しだけ嫌そうな顔をした。
「クロイツェル家」
なるほど。
よく分からない。
「じゃあ、お父様に聞く」
皇帝なら大丈夫だろう。
アネクシアはそう思った。
そして父も、
「一冊くらい構わんだろう」
と言った。
だから解決した。
はずだった。
「駄目です」
解決しなかった。
◇
「何が駄目なの?」
皇帝の執務室。
アネクシアの前には、父とアルベルト・クロイツェル。
その後ろに三人の青年が立っていた。
クロイツェル家の三兄弟。
長男、ユリウス。
次男、クラウス。
三男、テオドール。
今日は父とアルベルトの会談に同行してきたらしい。
そこへアネクシアが、本の件で突撃した。
「皇妃殿下の所有物は、その死後、定められた手続きに従って整理されます」
アルベルトが答える。
「その後、皇室に帰属するもの、血縁者へ譲られるもの、その他の処置が必要なものに分けられます」
「本一冊なのに?」
「本一冊でもです」
「めんどくさい」
「法とは、時として面倒なものです」
「じゃあ、なくせば?」
父が咳き込んだ。
後ろの三兄弟にも反応があった。
テオドールが露骨に顔を逸らした。
たぶん笑っている。
ユリウスは無表情。
クラウスは――。
「面白いことを仰いますね」
口を開いた。
アネクシアが振り返る。
「面白い?」
「ええ」
「どこが?」
「法が面倒なら、なくせばいい。確かに一つの解決方法です」
「クラウス」
アルベルトが息子の名を呼ぶ。
「申し訳ありません、父上」
クラウスは頭を下げた。
だが、皇帝が手で制した。
「構わん。続けろ」
「では」
クラウスがアネクシアを見る。
「殿下。もし法がなければ、その本はどうされますか?」
「わたしがもらう」
「第一皇女殿下も欲しいと仰ったら?」
「お姉ちゃんと話す」
「話し合っても決まらなければ?」
「……じゃんけん」
「じゃんけん?」
しまった。
この世界にあるのか知らない。
「勝負」
「なるほど」
クラウスは気にしなかった。
「では、皇帝陛下が欲しいと仰ったら?」
アネクシアは父を見る。
「お父様はいらないでしょ」
「例えです」
「……お父様と話す」
「それでも陛下が欲しいと仰ったら?」
「……」
「そして陛下が、皇帝である自分が最も偉いのだから自分のものだ、と仰ったら?」
アネクシアは少し考えた。
「ずるい」
「そうですね」
「クラウス?」
父が低い声を出した。
「例えです、陛下」
「覚えておこう」
「恐縮です」
テオドールの肩が震えた。
今度は間違いなく笑っている。
「つまりね、アネクシア」
セリシアが隣に座る。
「あなたの本を守ってくれるのも法なのよ」
「わたしの?」
「ええ」
「でも今、法のせいでもらえないよ?」
「そうね」
「守ってないじゃん」
「今はね」
よく分からない。
クラウスが続ける。
「殿下が欲しいものを手に入れるためだけに法があるわけではありません」
「じゃあ誰のため?」
「誰か一人のためではありません」
少しだけ。
アネクシアの表情が変わった。
「皇帝のためでもない?」
「はい」
「お父様が作った国なのに?」
「陛下であっても同じです」
「でもお父様、一番偉いんでしょ?」
クラウスは答えなかった。
代わりに、アルベルトが口を開いた。
「陛下がお許しになれば何でも許されるのであれば、法は必要ございません」
静かな声だった。
「皇帝陛下が正しいときに従うだけなら、クロイツェル家も必要ないでしょう」
「じゃあ、いつ必要なの?」
「陛下がお間違えになったときです」
部屋が静かになった。
アネクシアは父を見る。
怒るだろうか。
自分が皇帝なら、少し怒るかもしれない。
だが。
「相変わらず、耳が痛い男だ」
父は笑った。
「それが役目ですので」
「たまには手加減しろ」
「法に手加減を求められましても」
「ほら、アネクシア。こういう男だ」
「めんどくさい人?」
「そうだ」
「陛下」
今度はユリウスが口を開いた。
「父への評価としては、概ね正確かと」
「ユリウス?」
「褒めております、父上」
「お前まで……」
テオドールがとうとう吹き出した。
「申し訳ありません」
「笑っているだろう」
「いえ」
「顔を上げろ」
「今は少々」
「テオドール」
「はい、父上」
どうやら。
クロイツェル家というのは、思っていたより面白い家なのかもしれない。
◇
結局。
本は、その日にはもらえなかった。
「納得できない」
執務室を出たアネクシアは頬を膨らませた。
「でも、分かったでしょう?」
セリシアが言う。
「ちょっとだけ」
「偉いわ」
「でも本は欲しい」
「それは別なのね」
「大事な本だから」
すると。
「第三皇女殿下」
後ろから呼び止められた。
三兄弟だった。
一番前にいるユリウスが頭を下げる。
「先ほどは弟が失礼いたしました」
「どこが?」
「皇帝陛下を例に使った件です」
「お父様も笑ってたからいいよ」
「寛大なお言葉、感謝いたします」
堅い。
父親によく似ている。
「ユリウスはいつもそんな喋り方なの?」
「はい?」
「疲れない?」
「アネクシア」
セリシアが止める。
「いいんだよ」
テオドールが笑う。
「兄上は寝言もこんな感じだから」
「テオドール」
「嘘です」
「当たり前だ」
「寝言、聞いたことないから」
「そういう問題ではない」
やっぱり面白い。
「あなたがテオドール?」
「はい。三男のテオドール・クロイツェルです」
「さっき笑ってた人」
「……見えていましたか」
「うん」
「忘れていただけると助かります」
「やだ」
「困りましたね」
全然困っていない顔で笑っている。
「それで」
アネクシアは残った一人を見る。
「クラウス」
「覚えていただけましたか」
「お父様を悪い皇帝にした人」
「その覚え方は訂正をお願いしたいですね」
「違うの?」
「例えです」
「知ってる」
クラウスが一瞬黙る。
テオドールがまた笑った。
「兄上、遊ばれてる」
「黙れ」
アネクシアも笑った。
「でも」
クラウスを見る。
「一個だけ分かった」
「何でしょう」
「お父様が一番偉くても、何でもしていいわけじゃない」
「はい」
「わたしも?」
「もちろんです」
「第三皇女なのに?」
「第三皇女だからこそです」
「……やっぱりクロイツェル家、嫌いかも」
「光栄です」
「褒めてないよ?」
「法を扱う者が権力者から好かれすぎるのも、考えものですので」
「変な人」
「よく言われます」
クラウスは笑わなかった。
けれど、不機嫌にも見えなかった。
アネクシアはまだ知らない。
この男が。
いつか父のすぐそばに立つことを。
そして。
父に最も近い場所から、父に逆らうことになることを。
◇
その日の夕方。
クロイツェル家の馬車が皇宮を離れた。
車内にはアルベルトと三人の息子がいる。
「どう見た」
アルベルトが尋ねた。
「第三皇女殿下ですか?」
ユリウスが答える。
「そうだ」
「聡明な方だと思います。ただ、まだ幼い」
「テオドール」
「面白い子ですね」
「それだけか」
「今のところは」
アルベルトの視線が次男へ移る。
「クラウス」
「……そうですね」
クラウスは窓の外を見る。
皇宮が遠ざかっていく。
「質問の仕方が、少し変わっています」
「変わっている?」
「普通の子どもなら、皇帝陛下が一番偉いと教えられれば、それで終わるでしょう」
「殿下は違ったと?」
「納得できる理由を探しているように見えました」
アルベルトは何も言わない。
「だから説明したのか?」
「はい」
「相手は幼い第三皇女だぞ」
「だからこそです」
クラウスが父を見る。
「皇族だから法を守るのではありません」
「……」
「法を守るべき人間が、たまたま皇族であるだけです」
ユリウスが弟を見る。
テオドールは今度は笑わなかった。
アルベルトだけが、僅かに目を細めた。
「覚えておけ、クラウス」
「何をでしょう」
「その言葉をだ」
クラウスが首を傾げる。
「いつか、お前自身が試される日が来るかもしれん」
「その時も同じことを言います」
「そうか」
馬車が進む。
しばらくして、ユリウスが一通の書簡を取り出した。
「父上。ヴァレンティス家から、また会談の申し入れが届いております」
「議題は」
「行政側が進めている物資調査について。それと――」
ユリウスが一瞬言葉を止める。
「近頃の皇権について、意見を聞きたいと」
「……そうか」
アルベルトは短く答えた。
「お受けになりますか?」
「受ける」
テオドールが父を見る。
「ヴァレンティスに同意するんですか?」
「話を聞くと言っただけだ」
「でも最近、多いですよね」
「ああ」
「何をそんなに話すことが?」
アルベルトは窓の外へ視線を向けた。
「話さなければならないから話すのだ」
「誰と?」
「意見の違う者とだ」
テオドールは黙った。
「同じ考えの者だけで話すことに、大した意味はない」
皇宮はもう見えない。
「ヴァレンティス家には、ヴァレンティス家の懸念がある」
「父上も同じ懸念を?」
ユリウスが尋ねる。
「違う」
即答だった。
「だが、違うから聞かなくていいということにはならん」
馬車は進む。
アウレリス家は国を動かす。
ヴァレンティス家は、その力が一つに集まりすぎることを警戒する。
クロイツェル家は。
どちらかの味方をするために、法を守っているわけではない。
少なくとも。
この時の彼らは、そう信じていた。




