第3章 三人の皇女
「アネクシア。また先生を困らせたの?」
昼食の席に着くなり、セリシアがそう言った。
「困らせてない」
「昨日、先生が頭を抱えていたって聞いたわよ」
「考えてただけ」
「何を?」
「なんで授業が予定通り進まないんだろう、って」
「それを困ってるっていうのよ」
そうなのだろうか。
アネクシアが首を傾げていると、向かい側から笑い声が聞こえた。
「相変わらずね、アネクシアは」
「レティシアお姉ちゃん」
「私なら先生に同情するわ」
レティシア・ヴァレンティス。
アネクシアの姉であり、この国の第二皇女。
父親は同じ皇帝だが、母親は違う。
立法を担うヴァレンティス家の一人娘であり、普段はそちらで暮らしている。
「レティシアまで……」
「だって、文字を習っていたはずなのに、どうして街道の通行料を調べ始めるの?」
「気になったから」
「それで地方ごとの物価まで調べてるんでしょう?」
「うん」
「ほら」
「なにが?」
「セリシア姉様。この子、自覚ないですよ」
「でしょう?」
「二人ともひどい」
不服だ。
アネクシアはパンをちぎり、口へ放り込んだ。
「でも、面白かったわよ」
レティシアが言った。
「なにが?」
「あなたがきっかけになった物資調査」
「わたし、調べてないよ」
「お父様が調べさせたの。あなたが街で変なことを言うから」
「変なこと?」
「褒めてるのよ」
「聞こえない」
「じゃあ、面白いこと」
「それならいい」
「いいんだ……」
レティシアが苦笑した。
先日、アネクシアが城下町で口にした疑問。
地方ごとの生産量。
輸送にかかる費用。
街道の通行料。
それぞれ別々に扱われていた数字を並べてみると、今まで見えていなかったものが見える。
皇帝が作らせた資料は、ヴァレンティス家にも回ってきたらしい。
「レティシアはどう思ったの?」
セリシアが尋ねる。
「私ですか?」
「ええ」
「面白いと思いました。ただ――」
レティシアは少し考えた。
「アウレリス家が全部を把握する必要はないと思います」
「なんで?」
アネクシアが聞く。
「誰が何を作って、どこへ運んで、いくらで売っているのか。全部を皇帝が知っていたら、少し怖いでしょう?」
「……そうかな」
「じゃあ、アネクシアが何を食べて、何を読んで、何時に寝たか、毎日全部お父様に報告されても平気?」
「やだ」
「でしょう?」
分かりやすい。
「必要なことを調べるのはいいの。でも、何が必要なのかは考えないといけない」
「なるほど」
「何でも集めればいいわけじゃないのよ」
「じゃあ、それを誰が決めるの?」
レティシアが少し笑った。
「そういうことを考えるために、ヴァレンティス家がいるの」
「レティシアお姉ちゃん、ちゃんと第二皇女っぽい」
「どういう意味?」
「いつもより賢そう」
「アネクシア?」
「いたい、いたい」
頬をつままれた。
「セリシア姉様。この妹、ヴァレンティス家への不敬で捕まえていいですか?」
「駄目よ。アウレリス家で保護します」
「身内に甘すぎません?」
「妹ですから」
「私も妹なんですけど」
「あら」
セリシアが立ち上がった。
「レティシアも抱きしめてほしいの?」
「結構です」
「遠慮しなくてもいいのよ?」
「してません」
「レティシアお姉ちゃん、顔赤いよ」
「アネクシアは黙ってなさい!」
三人の笑い声が部屋に響いた。
アネクシアにとって、二人は少し種類の違う姉だった。
セリシアは、いつもそばにいる姉。
レティシアは、少し離れたところにいて、会えばいろいろな話をしてくれる姉。
二人とも好きだった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
◇
午後。
三人は皇妃フィオナ・アウレリスの部屋を訪れた。
「まあ」
ベッドの上で、フィオナが微笑んだ。
「今日は三人揃っているのね」
「レティシアが来ているので、連れてきました」
セリシアが答える。
「私が無理やり連れてこられたみたいに言わないでください」
「違うの?」
「今日は最初からフィオナ様のお見舞いに来るつもりでした」
「あら、ごめんなさい」
「絶対思ってないですよね?」
フィオナが小さく笑った。
「セリシアは昔からそういうところがあるから」
「お母様まで?」
「レティシアは小さい頃からよく知っているでしょう?」
「はい。よく存じています」
「二人とも酷くない?」
アネクシアも笑った。
レティシアにとって、フィオナは実の母ではない。
レティシアの母はヴァレンティス家の人間だ。
それでも、三人がもっと幼かった頃から、レティシアは何度も皇宮を訪れていた。
フィオナも彼女を遠ざけることはなかった。
「レティシア」
「はい?」
「こちらへいらっしゃい」
呼ばれたレティシアがベッドへ近づく。
フィオナがその髪に触れた。
「また少し伸びた?」
「分かります?」
「もちろん」
「お母様、私には?」
「あなたは昨日も見たでしょう?」
「扱いが違う」
「セリシアは毎日来るもの」
「じゃあ、わたしは?」
「アネクシアも毎日来るでしょう?」
「そうだった」
「忘れてたの?」
レティシアに笑われる。
こんな時間が、昔からあった。
三人が揃う日は少ない。
それでも揃えば、いつもこんな感じだった。
「そういえば」
フィオナがアネクシアを見る。
「街へ行ったんですって?」
「うん」
「楽しかった?」
「楽しかった」
「セリシアが騒ぎを起こしたとも聞いたわ」
「お母様!?」
「起こした」
「アネクシア!?」
レティシアが吹き出した。
「何をしたんです?」
「変装したって言って、服だけ変えて顔そのままで行った」
「セリシア姉様……」
「仕方ないでしょう。忘れてたんだから」
「変装する目的まで忘れたんですか?」
「二人とも酷くない?」
フィオナが笑った。
そして。
「……っ」
小さく咳き込んだ。
笑い声が止まる。
「お母様」
セリシアがすぐに水を差し出す。
「大丈夫よ」
「でも」
「いつものことだから」
水を一口飲む。
フィオナはまた笑った。
アネクシアを産んでから、フィオナの身体はずっと弱かった。
母親とはベッドにいるものなのだと、幼いアネクシアが思っていた時期さえある。
自分を抱き上げるのはセリシア。
眠れない夜に来るのもセリシア。
叱るのも。
褒めるのも。
着たくもない服を持ってくるのも。
大抵は姉だった。
それでも。
「アネクシア」
「なに?」
「こっちへ」
ベッドへ近づく。
フィオナの手が、アネクシアの髪を撫でた。
「大きくなったわね」
「まだちっちゃいよ」
「そうね」
優しい手だった。
フィオナが咳をする。
セリシアが心配する。
大丈夫だとフィオナが笑う。
何度も見てきた。
だから。
明日も。
来月も。
来年も。
きっと同じように続いていく。
アネクシアは、どこかでそう思っていた。
◇
数日後。
授業の途中で扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきた侍女の顔を見て、アネクシアは持っていた羽根ペンを置いた。
まだ何も言われていない。
それでも。
「……お母様?」
侍女は答えなかった。
その沈黙だけで、分かった。
◇
父がいた。
セリシアもいた。
医師も。
いつもより大勢の侍女も。
そしてフィオナがいた。
ベッドの上に。
「アネクシア」
セリシアが呼ぶ。
「こっちへ」
足が動かなかった。
怖い。
不意に、前の人生の最後が蘇る。
何も分からないまま。
何も言えないまま。
当たり前に来ると思っていた明日がなくなった。
ありがとうも。
ごめんなさいも。
またね、さえも。
言えなかった。
――まだ終わってない。
そう思った。
なのに終わった。
「アネクシア」
もう一度、姉に呼ばれた。
今度は歩いた。
ベッドの横まで行く。
「……お母様」
「アネクシア?」
フィオナが目を開けた。
「来てくれたのね」
「うん」
「よかった」
細い手が伸びる。
アネクシアは、その手を両手で握った。
冷たい。
何か言わなければ。
今度は時間がある。
言える。
言わなければ。
そう思うのに。
「……」
出てこない。
二十八年生きた記憶があっても。
一度死んだ記憶があっても。
別れが上手になるわけではなかった。
「ごめんなさいね」
先にフィオナが言った。
「なんで?」
「ずっと……何もしてあげられなかった」
「そんなことない」
今度は、すぐに言えた。
「本、読んでくれた」
フィオナが少し笑う。
「覚えていたの?」
「うん」
「途中で寝てしまったでしょう?」
「続き、お姉ちゃんが読んでくれた」
「そう……」
フィオナがセリシアを見る。
「やっぱり、あなたに頼んで正解だったわ」
「お母様」
「この子をお願いね」
セリシアが唇を噛む。
「はい」
「でもね、セリシア」
「はい」
「お姉ちゃんとしてよ」
セリシアが目を見開いた。
「母親にならなくていいの」
「……」
「あなたも、私の娘なんだから」
セリシアが俯いた。
アネクシアは初めて見た。
いつも自分を守ってくれる姉が。
いつも笑っている姉が。
子どものように泣くところを。
「……はい」
それでも、セリシアは答えた。
「はい、お母様」
フィオナの手が伸びる。
今度は、セリシアが握った。
「セリシア」
「はい」
「ありがとう」
それだけだった。
セリシアは何度も頷いた。
フィオナの視線がアネクシアへ戻る。
「アネクシア」
「うん」
「あなたは……自分が思っているより、たくさんの人に愛されているわ」
アネクシアは母の手を強く握った。
「忘れないで」
「……うん」
「セリシアも」
「はい」
「レティシアとも、仲良くね」
「うん」
「あの子も……あなたたちの大切な姉妹でしょう?」
セリシアが頷く。
アネクシアも頷いた。
「約束できる?」
約束。
「できる」
「はい、お母様」
二人の声が重なった。
フィオナは微笑んだ。
「いい子たち」
その日の夜。
皇妃フィオナ・アウレリスは、二人の娘に見守られながら、静かに息を引き取った。
◇
葬儀の日は、晴れていた。
物語なら雨でも降りそうなものなのに。
空は腹が立つほど青かった。
皇妃の葬儀には、大勢の人間が集まった。
アウレリス家。
ヴァレンティス家。
クロイツェル家。
外国からの使節。
聖職者。
官吏。
知らない顔ばかりだった。
アネクシアはセリシアの隣に立っていた。
姉は泣いていない。
あの日、あれほど泣いていたのに。
今は第一皇女として、一人一人に応じている。
「アネクシア」
横から声がした。
「レティシアお姉ちゃん」
黒い礼装を身につけたレティシアが立っていた。
その少し後ろには、ヴァレンティス家の人々がいる。
「大丈夫?」
「……うん」
「嘘ね」
「なんで?」
「顔に書いてあるもの」
「書いてない」
「昔からそうなのよ、あなた」
「昔って?」
「赤ん坊の頃」
「覚えてない」
「私は覚えてるわ」
レティシアが隣へ来る。
何も言わず、一緒に立った。
「……お母様、いなくなっちゃった」
「そうね」
大丈夫とは言わなかった。
仕方ないとも言わなかった。
「寂しいわね」
アネクシアは姉を見る。
「レティシアお姉ちゃんも?」
「当たり前でしょう」
「でも……」
「私のお母様ではないわ」
レティシアは静かに言った。
「でも、私にとっても大切な人だったもの」
「……そっか」
「小さい頃から、何度も叱られたし」
「お母様、怒るの?」
「怒るわよ。あなたには甘かっただけ」
「知らなかった」
「私とセリシア姉様には結構厳しかったのよ?」
レティシアが少し笑った。
アネクシアも、ほんの少し笑う。
「手、繋ぐ?」
「子どもじゃない」
「子どもでしょう」
「レティシアお姉ちゃんも」
「私はあなたより大人です」
「ちょっとだけ」
「結構よ」
差し出された手。
アネクシアは握った。
「……今日だけ」
「はいはい」
温かかった。
反対側から、もう一つ手が伸びてきた。
「じゃあ、私も」
「セリシアお姉ちゃん?」
「二人だけずるいでしょう」
「セリシア姉様は大人でしょう?」
「今日はいいの」
アネクシアの右手をレティシアが。
左手をセリシアが握った。
「……歩きにくい」
「我慢しなさい」
「今日だけよ」
「二人とも勝手」
それでも。
アネクシアは手を離さなかった。
◇
葬儀が終わる。
レティシアがヴァレンティス家へ戻る時間になった。
「また来るわ」
「いつ?」
「そんな顔しないの。すぐよ」
「ほんと?」
「約束する」
また、約束。
アネクシアはその言葉を、以前より少しだけ重く感じた。
「じゃあ次は三人で街に行こう」
「いいわね」
レティシアが笑う。
「今度はちゃんと変装して」
「ちょっと待って」
セリシアが抗議した。
「なんで私を見るの?」
「前科があるから」
「一回だけでしょう!?」
「一回で十分です、セリシア姉様」
「レティシアまで!」
三人で笑った。
母を亡くした日のあとに笑うのは、少し悪いことのような気もした。
でも。
フィオナなら怒らない気がした。
「それじゃあ、またね。アネクシア」
「うん。またね」
今度は言えた。
またね。
前の人生では、最後に言えなかった言葉。
今回は母にも言葉を伝えられた。
姉にも、次に会うための言葉を言える。
それだけのことが。
アネクシアには、とても大切なことに思えた。
◇
「殿下」
馬車へ向かう途中、ヴァレンティス家の当主がレティシアへ声をかけた。
「先日の資料、ご覧になりましたか」
「物資調査の?」
「ええ」
「読みました」
「どう思われました?」
「面白いと思います。ですが、行政側が集める情報の範囲は決めるべきです」
「ほう」
「情報を持つことも力でしょう?」
当主が少し笑った。
「よく学ばれておりますな」
「当然です」
レティシアも笑った。
「私はヴァレンティス家の娘ですから」
「頼もしい限りです」
二人は歩く。
「それにしても」
当主が続けた。
「あれを第三皇女殿下が思いつかれたとは」
「アネクシアは昔から変なところを見る子なんです」
「まだあのお歳でしょう?」
「だから、たまたまですよ」
「それでも大したものです。第一皇女殿下は聖女として既に名高い。そして第三皇女殿下にも、どうやら違う才がおありらしい」
レティシアは微笑んだ。
「二人とも、自慢の姉妹です」
「殿下も負けてはいられませんな」
「ええ」
何気ない会話だった。
当主にも悪意はない。
レティシアにも不満はない。
セリシアは自慢の姉だ。
アネクシアは可愛い妹だ。
本当に、そう思っている。
ただ。
馬車へ乗り込んでから。
レティシアは窓の外を眺めた。
皇宮が少しずつ遠ざかっていく。
――私だって。
そこまで考えて、やめた。
何を馬鹿なことを。
今日はそんなことを考える日ではない。
次に会ったら、アネクシアに何か甘いものでも持っていこう。
きっと喜ぶ。
セリシア姉様の分も必要だろう。
そう考えると、自然に笑みが戻った。
この頃の三人は、仲の良い姉妹だった。
セリシアはレティシアを信じていた。
レティシアはアネクシアを可愛がっていた。
アネクシアは二人の姉が好きだった。
フィオナとの最後の約束を破るつもりなど。
三人の誰にも、なかった。




