第2章 はじめての城下町
「約束、覚えてる?」
朝食を終えたばかりのアネクシアに、セリシアは突然そう尋ねた。
「約束?」
「忘れたの?」
見る見るうちに姉の顔が曇っていく。
まずい。
この顔には見覚えがある。
「待って。考えるから」
「……うん」
セリシアは待った。
本当に待った。
隣に座り、頬杖をついて、じっとこちらを見ている。
近い。
「お姉ちゃん、近い」
「待ってるの」
「離れてても待てるでしょ」
「待てるけど、ここがいいの」
どうやら動くつもりはないらしい。
アネクシアは諦めて記憶を探った。
約束。
セリシアとの約束なら、いくつかある。
本を読んだら元の場所へ戻す。
廊下を走らない。
食事を残さない。
勝手に書庫の奥へ入らない。
最後の一つについては、約束というより禁止令だった気もする。
もっと昔。
まだ、この世界の言葉すら満足に分からなかった頃。
誰かの指を握った記憶がある。
「あ」
思い出した。
「街?」
セリシアの顔が輝いた。
「正解!」
「ほんとに行くの?」
「もちろん。そのために今日は予定を空けたんだから」
言われてみれば、今日は朝から姉の格好がいつもと違う。
華美なドレスではない。
白を基調としているのは変わらないが、装飾は少なく、長い髪も簡単にまとめられている。
「お父様には?」
「許可をもらったわ」
「ちゃんともらった?」
「……」
「お姉ちゃん?」
「許可はもらったわ」
なぜ一瞬黙った。
「どうやって?」
「昨日、お父様に『明日アネクシアと街へ行ってきます』って」
「それ許可じゃなくて報告じゃない?」
「反対されなかったもの」
「なんて言ってたの?」
「頭を抱えてた」
「それ反対してない?」
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのだろう。
アネクシアは、この世界に生まれてから何度目か分からない疑問を抱いた。
もしかすると姉は、自分が思っていたより自由人なのではないだろうか。
◇
皇宮の外へ出るのは初めてではない。
けれど、城下町を自分の足で歩くのは初めてだった。
「……すごい」
思わず声が出た。
石造りの建物。
通りを行き交う馬車。
軒先に並べられた野菜や果物。
肉を焼く匂い。
聞いたことのない楽器の音。
あちこちから飛んでくる客引きの声。
窓から眺めていた景色とは、まるで違った。
「どう?」
隣を歩くセリシアが、得意げに尋ねる。
「うるさい」
「最初の感想がそれ?」
「でも、好き」
「でしょう?」
人が多い。
音が多い。
匂いも多い。
整然としている皇宮とは正反対だった。
誰かが笑い、誰かが怒鳴り、誰かが値段を交渉している。
子どもたちが路地を走り抜けていった。
その後を犬が追いかける。
危ない。
そう思った直後、子どもの一人が転んだ。
「あ」
泣くかと思った。
けれど少年は立ち上がると、膝についた土を払い、そのまま友達を追いかけていった。
「元気ね」
「うん」
アネクシアは少しだけ笑った。
生きている。
そんな当たり前のことを思った。
前の世界にも街はあった。
もっと高い建物があり、もっと速い乗り物があり、夜になっても明るかった。
けれど。
こうして人の間を歩いてみれば、意外なほど変わらない。
パンを買う人がいる。
仕事へ向かう人がいる。
子どもを叱る母親がいる。
店先で世間話をする老人がいる。
世界が違っても、人は生活をするらしい。
「アネクシア?」
「なに?」
「ぼーっとしてた」
「ちょっと見てた」
「何を?」
「みんな」
セリシアは周囲を見回した。
「面白い?」
「うん」
「本より?」
「今日はこっち」
「今日は、なのね」
姉が笑った。
◇
「これ食べたい」
アネクシアが足を止めた。
「どれ?」
「あれ」
指差した先では、小さな屋台から湯気が上がっていた。
丸い生地のようなものを鉄板で焼いている。
甘い匂いがする。
「ああ。それね」
「知ってる?」
「もちろん」
「おいしい?」
「食べてみる?」
「食べる」
即答した。
「ふふっ」
「なに?」
「アネクシア、そういうところはちゃんと子どもね」
「……」
精神年齢二十八歳で甘いものを食べたがって何が悪い。
前世でも甘いものは食べた。
むしろ大人には大人の甘味が必要なのだ。
仕事帰りのコンビニスイーツがどれほど人間を救うか、この世界の姉は知らない。
「二つください」
セリシアが店主へ声をかける。
男は顔を上げ――固まった。
「……え?」
まずい。
アネクシアにも分かった。
姉は服装こそ簡素にしている。
だが、顔を隠していない。
「せ、聖女様!?」
大声だった。
周囲が静かになった。
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「変装は?」
「してるわよ?」
「どこが?」
「いつもの服じゃないでしょう?」
駄目だ、この人。
数秒後。
「聖女様だ!」
「本当だ!」
「第三皇女殿下もいるぞ!」
騒ぎになった。
「セリシア様!」
「握手してください!」
「うちの子を見てください!」
「聖女様、こっち向いて!」
「第三皇女殿下、小さい!」
最後のは何なのだ。
知っている。
自分でも知っている。
「逃げるわよ、アネクシア!」
「だから変装!」
手を掴まれた。
二人は走った。
護衛たちも慌てて後を追う。
城下町に、二人の皇女を追いかける人の波ができた。
◇
「はぁ……はぁ……」
ようやく人混みから抜け出した頃には、アネクシアは完全に息を切らしていた。
「楽しかったわね」
「どこが!?」
「街」
「最後しか覚えてない!」
「大丈夫。お菓子は守ったわ」
セリシアが包みを掲げた。
いつの間に。
「……食べる」
「はい」
二人は小さな広場の端に座った。
護衛たちは少し離れた場所にいる。
たぶん怒っている。
後で姉が怒られるのだろう。
アネクシアは渡された菓子を一口かじった。
「……おいしい」
「でしょう?」
外側は少し香ばしく、中は柔らかい。
蜂蜜に似た甘さが広がった。
走り回った後だから余計においしく感じる。
「また来たい」
「もちろん」
「次は変装して」
「してたんだけどなぁ」
「顔」
「あ」
今気づいたのか。
アネクシアは呆れながら、もう一口食べた。
そのとき。
広場の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「だから高すぎるって言ってるだろ!」
一人の男が商人に食ってかかっている。
「こっちだって好きで上げてるんじゃない! 運ぶだけで金がかかるんだ!」
「先月より上がってるじゃねえか!」
「街道の通行料が変わったんだよ!」
周囲の人間は気にした様子もない。
珍しい喧嘩ではないのだろう。
アネクシアは菓子を食べながら、その会話を聞いていた。
「通行料?」
小さく呟く。
「どうしたの?」
「なんで上がったの?」
「さあ」
セリシアは少し考える。
「新しい決まりができたのかもしれないわね」
「誰が決めるの?」
「そういうことなら、ヴァレンティス家ね」
「ふーん」
アネクシアはもう一度、商人を見る。
荷車には野菜が積まれていた。
「通るのにお金が増えたら、運ぶものも高くなるよね」
「そうね」
「じゃあ、遠くから持ってくるものほど困らない?」
セリシアが瞬きをした。
「……そうなるわね」
「近くで作ればいいのに」
「全部を?」
「全部じゃなくて」
アネクシアは考える。
「近くで作れるものは近くで作って、作れないものだけ遠くから持ってくるとか」
「でも、どこで何が作れるか分からないでしょう?」
「調べればいいじゃん」
「誰が?」
「国が」
セリシアが黙った。
アネクシアは菓子を食べ続ける。
「どこで何がいっぱい作れて、どこで足りないか集めて……」
前世で見た物流の仕組み。
スーパーの商品。
産地。
在庫。
そんなものが頭の中で混ざる。
「足りないところに運べばいいんじゃない?」
「……アネクシア」
「なに?」
「それ、誰かに話した?」
「いまお姉ちゃんに」
「そうじゃなくて」
セリシアは少し困ったように笑った。
「お父様にも話してみたら?」
「なんで?」
「きっと面白がるから」
「また質問増えるよ?」
「それは先生が困るだけだから大丈夫」
「ひどい」
二人で笑った。
アネクシアにとっては、それだけの話だった。
街で聞いた不満に、思いついたことを答えただけ。
国を変えようなどとは考えていない。
ましてや政治に関わろうなどと。
そんなつもりは、少しもなかった。
◇
皇宮へ戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。
門をくぐると、見覚えのある人物が立っている。
皇帝だった。
腕を組んでいる。
笑っていない。
「あ」
セリシアが止まった。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「逃げる?」
「……今日は無理そうね」
「皇帝から逃げる皇女ってどうなの?」
「アネクシア」
「なに?」
「あなたも皇女よ」
「知ってる」
父親がゆっくり近づいてくる。
「セリシア」
「はい、お父様」
「話がある」
「はい」
「長い話だ」
「……はい」
姉の声が小さくなった。
アネクシアはそっと距離を取ろうとした。
「アネクシア」
「はい」
「お前もだ」
「なんで!?」
「城下で騒ぎを起こした第三皇女が何を言う」
「起こしたのお姉ちゃん!」
「アネクシア!?」
裏切ったような顔をされた。
事実である。
三人の後ろで、護衛たちが必死に笑いを堪えていた。
◇
その夜。
皇帝の机の上に、一枚の報告書が置かれた。
城下町における物価の変動。
街道通行料の改定。
地方ごとの生産量。
そして、輸送にかかる費用。
娘から聞いた話をきっかけに、皇帝が部下へ命じたものだった。
まだ、それだけだった。
幼い第三皇女が街で疑問を口にした。
父親が、少し調べてみようと思った。
ただ、それだけ。
けれど数日後。
その報告書を目にした一人の官吏が、別の資料を作った。
さらに別の者が数字を付け加えた。
やがて、小さな疑問は皇宮の会議へ持ち込まれる。
そしてそこで。
ヴァレンティス家の一人が、初めてこう尋ねることになる。
「これは――どなたの発案ですか?」
第三皇女。
その答えを聞いた男は、何も言わなかった。
ただ。
机の上の資料を、もう一度最初から読み直した。




