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第三皇女の約束  作者: トカゲ


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第1章 小さな皇女

アネクシア・アウレリスが、自分の足で歩けるようになった頃。


 彼女には、一つの問題があった。


「アネクシア!」


 聞き慣れた声が廊下の向こうから響く。


 まずい。


 そう思ったときには、もう遅かった。


 開け放たれた扉の向こうから、淡い金色の髪が見える。


「いた!」


 見つかった。


 アネクシアは咄嗟に侍女の後ろへ隠れた。


 小さな身体では、その程度の抵抗しかできない。


「あら?」


 セリシア・アウレリスは足を止めた。


「どうして隠れるの?」


「……べつに」


「別に、で隠れる人はいないわ」


 もっともである。


 しかし、アネクシアにも事情があった。


 姉は優しい。


 それは間違いない。


 自分がこの世界で最初に信頼した人間を一人挙げろと言われれば、迷わずセリシアを選ぶ。


 だが――。


「今日は何を持ってきたの?」


「よくぞ聞いてくれました」


 嫌な予感がする。


 セリシアが後ろに控えていた侍女へ目配せした。


 差し出されたのは、小さな箱だった。


「じゃーん!」


 箱が開く。


 中に入っていたのは白い布だった。


 いや、服だ。


 細かな刺繍が施され、ところどころに小さなリボンまで付いている。


 どう見ても幼児用のドレスだった。


「……やだ」


「まだ何も言ってないでしょう?」


「きるんでしょ」


「賢い!」


「やだ」


「どうして!?」


 本気で驚かないでほしい。


 前世で二十八歳まで生きた記憶を持つ身としては、こういうものを着せられて喜ぶには少々抵抗がある。


 もちろん、今の身体に似合わないとは思わない。


 鏡を見れば、自分が幼い少女であることくらい理解している。


 問題はそこではない。


 中身が二十八歳なのだ。


「絶対に似合うのに……」


 セリシアが悲しそうな顔をした。


 ずるい。


 この姉は、自分がその顔に弱いことを知っている。


「……いっかいだけ」


「本当!?」


 復活が早い。


 アネクシアは小さくため息をついた。


 侍女たちが笑っている。


 どうやら最近、自分はこういう扱いをされるようになってきたらしい。


 生まれたばかりの頃に感じていた、腫れ物に触れるような空気は少しずつ薄れている。


 完全になくなったわけではない。


 けれど少なくとも、この部屋では。


 セリシアがいる間だけは。


 自分はただの幼い第三皇女でいられた。


     ◇


「似合う!」


「……そう」


「すごく似合う!」


「二回いわなくていい」


「三回でも言えるわ」


「いわなくていい」


 鏡の前で、アネクシアは諦めた顔をしていた。


 白を基調にした小さなドレス。


 袖にも裾にも余計な――本人に言わせれば余計な――装飾が付いている。


 隣ではセリシアが満足そうに頷いていた。


「お父様にも見せましょう」


「え」


「きっと喜ぶわ」


「まって」


「善は急げよ」


「ぜったい意味ちがう」


 小さな手を掴まれた。


 この身体では抵抗しても勝てない。


 というより、身体が成長してもセリシアに勝てる気はあまりしなかった。


 姉は見た目こそ華奢な少女だが、時折信じられないほど力が強い。


 これも魔法なのだろうか。


 その疑問を考えているうちに、廊下へ連れ出された。


 皇宮は広い。


 未だにアネクシアは全容を把握できていない。


 前世で働いていた会社の建物より広いのは間違いない。


 比較対象として正しいのかは分からないが。


「そういえば」


 歩きながら、セリシアが振り返った。


「アネクシア、また本を読んでいたでしょう?」


「うん」


「何を読んでいたの?」


「この国のこと」


「……面白い?」


「まあまあ」


「まあまあ……」


 セリシアが微妙な顔をする。


「絵本もあるのよ?」


「知ってる」


「お人形も」


「知ってる」


「積み木も」


「それは好き」


「そこなの?」


 積み木に罪はない。


 むしろ構造物を自由に作れるので、アネクシアは結構気に入っていた。


 絵本も嫌いではないが、この世界について知るなら歴史書や地理書の方が役に立つ。


 なぜ自分がここにいるのか。


 その答えはいまだに分からない。


 ならばせめて、自分がいる場所くらいは知っておきたかった。


「難しい本ばかり読んでいると、また先生が困るわよ」


「なんで?」


「質問が多いから」


「わからないから聞いてるだけ」


「それを先生が困るまで聞くのが問題なの」


 理不尽である。


 分からないことを質問しろと言ったのは教師の方だ。


 だから質問した。


 答えを聞いて、そこから新しく分からないことが生まれたので、また質問した。


 それを何度か繰り返しただけだ。


 なぜか最後には「今日はここまでにしましょう」と授業を打ち切られた。


 大人というものは難しい。


 前世でもそう思っていたが、自分が幼児になってみると余計にそう思う。


「でも」


 セリシアが少しだけ声を落とした。


「お父様は喜んでいたわ」


「ほんと?」


「ええ。アネクシアはこの国に興味を持ってくれているんだな、って」


「自分の国なんだから、知りたいでしょ」


 アネクシアは何気なく答えた。


 セリシアが足を止めた。


「お姉ちゃん?」


「……ううん」


 すぐに、いつもの笑顔に戻る。


「そうね。あなたの国だものね」


 意味が分からず、アネクシアは首を傾げた。


     ◇


 この国には、三つの大きな家がある。


 それをアネクシアが知ったのは、文字を覚えて間もない頃だった。


 アウレリス家。


 皇帝を戴き、国を治める家。


 アネクシア自身が生まれた家でもある。


 ヴァレンティス家。


 国の決まりを作り、民の意見を国政へ届けることを担う家。


 そして――。


 クロイツェル家。


 定められた法を守り、それが正しく扱われているかを見届ける家。


 三つの家は、それぞれ異なる役割を持ちながら、一つの国を支えている。


 少なくとも、教師はそう説明した。


 それを聞いたアネクシアが最初に思ったことは、


 ――三権分立みたい。


 だった。


 もちろん、前世で知っていた制度と全く同じではない。


 皇帝がいる時点で違うし、三つの役割をそれぞれ一つの家が担っているというのも、渚が知っている日本とは大きく異なる。


 それでも考え方そのものは理解しやすかった。


 一つの場所に全部の力を集めない。


 互いに役割を分け、互いを見る。


 そういう仕組みなのだろう。


 だからアネクシアは、三家というものを特別不思議には思わなかった。


 少なくとも、この頃は。


     ◇


 皇帝の執務室へ向かう途中。


 廊下の先から数人の大人が歩いてきた。


 先頭の男を見て、セリシアの歩調がわずかに変わった。


 ほんの少し。


 知らなければ気づかない程度の変化だった。


 男たちは二人の皇女を認めると、道を譲った。


「第一皇女殿下。第三皇女殿下」


 深々と頭を下げる。


 胸元には、アネクシアにも見覚えのある紋章があった。


 クロイツェル家。


 つい最近、教師に教えられたばかりだ。


 セリシアも足を止めた。


「ごきげんよう」


 さっきまでアネクシアの服ではしゃいでいた少女と同一人物とは思えないほど、整った声だった。


 アネクシアも真似をする。


「ごきげんよう」


 男は微笑んだ。


「第三皇女殿下も、ずいぶん大きくなられましたな」


「うん」


 答えてから、これでよかったのだろうかと思う。


 男は気にした様子もなく、もう一度頭を下げた。


「それでは、失礼いたします」


 すれ違う。


 数人の足音が遠ざかっていく。


 アネクシアは振り返った。


「クロイツェルの人?」


「ええ」


「なんでここにいるの?」


 セリシアは少し考えてから答えた。


「お父様とお話があったのよ」


「ふーん」


 それなら不思議ではない。


 国を支える三家なのだから、皇宮で顔を合わせることくらい当然あるだろう。


「あ」


 窓の外を見て、アネクシアは声を上げた。


 ちょうど一台の馬車が中庭を抜けていくところだった。


 側面には、クロイツェルとは別の紋章。


 こちらも覚えたばかりだ。


「ヴァレンティス?」


「正解」


「今日、みんないるんだ」


「そうみたいね」


 セリシアはそれだけ言った。


 だが、窓の外へ向けられた視線が、ほんの一瞬だけ馬車を追った。


 アネクシアは気づかなかった。


「それより早く行きましょう」


「なんで?」


「お父様が逃げるかもしれないから」


「皇帝って逃げるの?」


「私たちからは逃げるわ」


「だめじゃん」


 再び姉に手を引かれる。


 アネクシアの関心は、あっという間に父親へ移った。


     ◇


 その日の夕方。


 皇宮を出たヴァレンティス家の馬車が、一度屋敷へ戻った。


 日が沈み、人通りが少なくなった頃。


 同じ屋敷の裏門から、一台の小さな馬車が出ていった。


 家紋はない。


 目立った装飾もない。


 御者を除けば、誰が乗っているのかも外からは分からなかった。


 馬車は皇宮とは反対の方向へ進む。


 やがて大通りを外れ、静かな区画へ入った。


 その先にある大きな屋敷。


 門にも、壁にも。


 昼間アネクシアが見たものと同じ紋章が刻まれている。


 クロイツェル家。


 門が開く。


 馬車が中へ消える。


 そして再び、何事もなかったかのように閉じられた。


 このところ、ヴァレンティス家とクロイツェル家の間では、こうした人の往来が少しずつ増えていた。


 それ自体は、罪ではない。


 二つの家が話し合うことを禁じる法などない。


 国を支える者同士が意見を交わすことも、決して珍しいことではなかった。


 だから、まだ誰も問題にはしなかった。


 第三皇女アネクシアも知らない。


 第一皇女セリシアも、そのすべてを知っているわけではない。


 そして二つの家に出入りする者たちでさえ、この先に何が待っているのかを知る者はいなかった。


 この頃はまだ。


 ほんの少し、話す機会が増えただけだった。


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