第0章 転生
明日が来ないなんて、考えたこともなかった。
柊渚、二十八歳。
どこにでもいる会社員だった。
朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、夕飯を食べて、風呂に入って、寝る。
休みの日には少し遅くまで眠るし、気が向けば買い物にも行く。面倒なことは後回しにするし、いつかやろうと思ったまま放置していることだっていくつもある。
特別な人生ではない。
だからこそ、それが明日も続くのだと思っていた。
今度の休みに買いに行こう。
あの人にも、そろそろ連絡しないと。
仕事で使うあれも調べておかなきゃ。
冷蔵庫の中、何か残っていたっけ。
そんな、どうでもいいことばかり考えていた。
人生の最後に考えるようなことではない。
けれど仕方がない。
だって渚は知らなかったのだから。
今日が、自分の人生の最後の日になるなんて。
それはあまりにも突然だった。
何が起きたのか。
どうしてそうなったのか。
理解する時間さえ、ほとんどなかった。
ただ、自分の身体から急速に力が抜けていくことだけは分かった。
――え?
最初に浮かんだのは、そんな間の抜けた疑問だった。
痛いとか、怖いとか。
そういう感情すら、少し遅れてやってきた。
視界が暗くなる。
音が遠くなる。
そこでようやく渚は、自分に起きていることを理解した。
――死ぬの?
嫌だ。
そう思った。
死にたくない。
当たり前だ。
二十八年しか生きていない。
まだやりたいことだって――。
そこで、別の思いが浮かんだ。
違う。
それだけじゃない。
まだ、終わってない。
明日の予定がある。
今度会おうと言った人がいる。
言おうと思って、まだ言っていないことがある。
借りたままのものだってあった気がする。
仕事だって途中だ。
部屋だって散らかっている。
何一つ、終わらせる準備なんてしていない。
だって明日があると思っていたから。
誰にも別れを言っていない。
ありがとうも。
ごめんも。
何も。
――待って。
ほんの少しでいい。
あと一日。
いや、一時間でもいい。
誰かに何かを伝える時間を――。
願いが届くことはなかった。
柊渚の二十八年は、そこで途切れた。
◇
次に感じたのは、光だった。
眩しい。
渚は反射的に目を閉じようとした。
閉じた。
もう一度、開く。
ぼやけた光が見える。
――何?
思考がうまくまとまらない。
頭に靄がかかったようだった。
身体を起こそうとする。
動かない。
いや、少しは動いている。
けれど、自分の身体ではないみたいに力が入らない。
「――――」
声が聞こえた。
知らない声。
知らない言葉。
何を言っているのか分からない。
誰?
そう尋ねようとした。
「あぅ……」
出てきたのは、意味のない音だった。
渚は固まった。
もう一度。
「ぁ……う」
同じだった。
言葉にならない。
手を動かそうとする。
視界の端に、小さなものが入った。
手。
あまりにも小さな手。
指を握る。
開く。
自分の意思通りに動く。
――嘘でしょ。
そこで意識が途切れた。
◇
目を覚まして、眠る。
また目を覚まして、眠る。
それを何度繰り返したのか分からない。
考えることすら難しい時間が続いた。
けれど、少しずつ分かってきた。
どうやら自分は赤ん坊らしい。
そして、もっと信じられないことに。
自分は確かに柊渚だった。
二十八年間の記憶がある。
仕事のことも。
住んでいた部屋のことも。
知っていた人たちのことも。
そして――死んだときのことも。
夢ではない。
少なくとも、そう思えるほどには鮮明だった。
では、ここはどこなのか。
分からない。
病院ではない。
天井は高く、部屋は広い。
自分を世話している人間の服装も、渚の知っているものとはまるで違った。
何より、誰一人として日本語を話さない。
最初は何も分からなかった言葉も、毎日聞いているうちに少しずつ意味を持ちはじめた。
赤ん坊の脳が言葉を覚えているのか。
それとも、別の理由があるのか。
渚には分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
ここは、自分が生きていた世界ではない。
そして自分は――。
生まれ直したらしい。
その事実を理解したとき、不思議と喜びはなかった。
怖くもなかった。
ただ。
――なんで?
それだけだった。
死んだはずなのに。
どうして、また生きているのだろう。
答えてくれる者はいなかった。
◇
新しい世界にも、日常はあった。
渚――いや、この世界の赤ん坊にも食事の時間があり、眠る時間があり、世話をする人間がいた。
そして、名前もあった。
「アネクシア」
その言葉だけは、何度も聞いた。
「アネクシア様」
「皇女殿下」
やがて言葉を理解できるようになり、その意味を知った。
アネクシア。
それが自分の新しい名前。
アネクシア・アウレリス。
この国を治める皇帝の娘。
第三皇女。
――皇女。
意味を理解した日の渚は、しばらく天井を眺めていた。
転生しただけでも十分おかしい。
そのうえ皇女。
前の人生では会社員だったのに。
人生とは、ずいぶん極端なものらしい。
もちろん、赤ん坊のアネクシアに政治が分かるはずもない。
父親が皇帝だろうと、空腹になれば泣く。
眠ければ寝る。
自分で歩くことすらできない。
ただ、周囲の大人たちの態度から、自分が普通の赤ん坊ではないことだけは理解できた。
皇女だから。
最初はそう思っていた。
けれど、どうやらそれだけでもないらしい。
「……もう一度お願いします」
ある日、見知らぬ男がアネクシアの身体に手をかざしていた。
淡い光が、小さな身体を包む。
魔法。
そんなものまであるのか。
初めて見たときは驚いた。
今では、驚くことにも少し疲れている。
男は何かを確認すると、わずかに眉を寄せた。
「やはり……多いですね」
「問題が?」
「いいえ。ただ、この年齢としては少々……」
それ以上の会話は聞き取れなかった。
誰かがアネクシアを抱き上げ、別の部屋へ連れていったからだ。
本人にも意味は分からない。
魔力が多い。
それがどれほど珍しいことなのかも。
だから、すぐに忘れた。
その程度のことだった。
◇
母親には、あまり会わなかった。
幼いアネクシアにも、母が病弱なのだということは分かった。
自分を産んでから、ずっと体調が戻らないらしい。
代わりに、頻繁に会いに来る少女がいた。
アネクシアよりずっと年上。
それでも大人と呼ぶにはまだ幼い少女。
明るい髪を揺らしながら、彼女は今日も部屋へ入ってきた。
「アネクシア!」
侍女が何かを言うより早く、少女は真っ直ぐこちらへやってくる。
「今日も可愛いわね」
抱き上げられる。
もう慣れた。
この人が自分の姉だということも知っている。
セリシア・アウレリス。
第一皇女。
そして、アネクシアの姉。
「姫様、もう少し丁寧に……」
「ちゃんと抱いてるもの」
「昨日もそう仰っていました」
「昨日もちゃんと抱いてたでしょう?」
周囲が慌てている。
アネクシアは姉の腕の中から、その様子を眺めた。
この世界に生まれてから、ずっと感じていたことがある。
周囲の人間は優しい。
世話もしてくれる。
けれど、ときどき妙な視線を向けられる。
恐れているような。
困っているような。
何かを測るような。
まだ言葉を完全に理解できないアネクシアには、その理由までは分からない。
ただ、姉だけは違った。
いつだって同じだった。
何も気にせず部屋へ来る。
抱き上げる。
笑う。
「早く大きくならないかしら」
セリシアが言った。
「そうしたら、一緒に街へ行きましょうね」
アネクシアは姉を見上げた。
「美味しいものもいっぱいあるのよ。お父様には内緒で食べに行きましょう」
「姫様」
「冗談よ」
どう考えても冗談ではない顔で、セリシアは笑った。
その笑顔を見ながら、アネクシアは思う。
明日の約束。
前にも、たくさんあった。
けれど、その明日は来なかった。
今度はどうだろう。
この人と街へ行く日は、本当に来るのだろうか。
分からない。
自分がどうして生まれ直したのかさえ分からないのだから。
それでも。
アネクシアは小さな手を伸ばした。
セリシアの指を握る。
「あら?」
姉が目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「約束ね、アネクシア」
約束。
その言葉を、今度は失いたくなかった。
柊渚の人生は、突然終わった。
何一つ準備できないまま。
誰にも別れを告げられないまま。
どうして二度目が与えられたのかは分からない。
いつかまた、突然終わるのかもしれない。
それでもいい。
終わるそのときに、前と同じことだけは思いたくなかった。
だから。
今度は、ちゃんと生きよう。
それが、アネクシア・アウレリスとして生きることになった柊渚が、この世界で初めて自分自身にした約束だった。




