第37章 慟哭・後編
城壁が崩れた。
その音は。
王都のどこにいても聞こえた。
◇
「東壁の一部が崩落!」
「範囲は!」
「東門より南へおよそ――」
「数字は後でいい!」
皇帝が遮った。
「人は!」
「兵士に負傷者多数! 避難民への被害は確認中です!」
「通れる道は!」
「東は使えません!」
「なら西へ回せ!」
「すでにレティシア殿下が!」
「そうか」
一つ。
答えが減る。
次。
「北東部!」
「魔物の群れが市街へ!」
「誘導できるか!」
「試みています!」
「無理なら倒せ! ただし追うな!」
「はい!」
次。
「火災!」
「場所は!」
「東三区!」
「消火隊を!」
「向かっています!」
次。
次。
次。
報告が途切れない。
皇帝は地図を見る。
まだ。
西がある。
南がある。
王城も立っている。
軍も動いている。
避難も続いている。
「まだだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
「まだ、動ける」
◇
「こちらです!」
レティシアが腕を振る。
「荷車は止めないで! 歩ける人は左! 怪我人と子供は右!」
「殿下、南から物資が!」
「そのまま西へ! 王城へ入れないで!」
「しかし備蓄が――」
「今必要なのは城じゃない! 避難先!」
「はい!」
荷車が走る。
人が走る。
泣き声。
怒鳴り声。
馬の声。
遠くで何かが壊れる音。
「レティシア殿下!」
「何!」
「西街道で混乱が!」
「何があったの!」
「避難民が集中しています!」
「誘導を分けて!」
「人手が!」
「ヴァレンティスから来た人たちは!」
「物資輸送へ!」
「半分こっちに回して!」
「では物資が!」
「荷物は待てる!」
レティシアは叫んだ。
「人は待てない!」
「――はい!」
伝令が走る。
レティシアは次の報告へ手を伸ばした。
指が震えていた。
「……止まって」
自分の手に言う。
「今じゃないでしょ」
握る。
開く。
もう一度。
紙を受け取る。
「次」
◇
「開けろ!」
ユリウスの声で、王城の倉庫が開かれた。
「水と布を優先! 食料は必要な分だけ!」
「はい!」
「中庭を負傷者の収容場所に!」
「治癒術師が足りません!」
「城内にいる者を集めろ!」
「セリシア殿下が戻られれば――」
「それまでを我々が持たせる」
ユリウスは即答した。
「聖女殿下が戻るまで、負傷者に待てと言うつもりか?」
「……いえ!」
「なら動け!」
「はい!」
人が散る。
「兄上!」
振り返る。
テオドールだった。
泥だらけ。
頬に血がついている。
「怪我は」
「俺のじゃない」
「東は?」
「ひどい」
いつもの軽さがない。
「でも、まだ抜けられる道はある。東から南へ一本。狭いけど使える」
「案内できるか」
「そのために戻った」
「休め」
「嫌だね」
「命令だ」
「じゃあ聞かなかったことにする」
「テオドール」
「兄上」
弟が笑った。
いつものように。
少しだけ。
「今、俺よりあの道を知ってる奴いないよ」
ユリウスは黙った。
「……必ず戻れ」
「了解」
テオドールが背を向ける。
「それと」
「何?」
「クラウスを見たら、城へ戻れと伝えろ」
「陛下から?」
「私からだ」
「了解」
走っていく。
ユリウスはその背中を見送った。
すぐに。
「次!」
仕事へ戻った。
◇
「水を!」
「こちらへ!」
地下避難区画にも、負傷者が増えていた。
エマはアネクシアの手を握ったまま、周囲を見る。
「殿下」
「……うん」
「少し移動いたします」
「どこに?」
「ここより奥へ」
「みんなは?」
「順番に移動します」
「怪我してる人も?」
「はい」
アネクシアは立とうとした。
膝から力が抜ける。
「殿下!」
「だいじょうぶ……」
「大丈夫ではございません」
「でも」
「今だけは言うことを聞いてください」
「……はい」
エマが身体を支える。
髪は。
黒いまま。
変わっていない。
けれど。
瞳。
黒かったはずの瞳に。
紫が混じっている。
もう。
一瞬ではない。
揺れるたび。
紫が。
残る。
「エマ」
「はい」
「私、変?」
足が止まりかけた。
「どうしてです?」
「みんな見てる」
周囲。
使用人たち。
負傷した兵士。
子供。
視線が集まっている。
皇族に生まれながら。
黒髪の少女。
忌み子と呼ばれたこともある少女。
その髪は。
今も。
黒い。
ただ。
目だけが。
違う。
「少し」
エマが答えた。
「瞳の色が変わっております」
「何色?」
「紫色です」
「……あの人みたい?」
エマは一瞬だけ迷った。
「少し似ております」
「そっか」
アネクシアは。
自分の目には触れられず。
困ったように笑った。
「変なの」
「そうでしょうか」
「変じゃない?」
「瞳の色が変わった程度でございます」
「程度?」
「はい」
「結構すごくない?」
「殿下が殿下であることに、変わりはございませんので」
「…………」
アネクシアは少しだけ笑った。
「やっぱりエマだ」
「侍女でございますので」
「それ便利だね」
「便利でございます」
その時。
また。
胸の奥が震えた。
「――っ」
「殿下?」
近い。
さっきより。
ずっと。
「来る」
「何がです?」
「……分かんない」
でも。
来る。
こちらへ。
自分へ。
「エマ」
「はい」
「手」
強く握る。
「離しません」
今度は。
約束とは言わなかった。
◇
「クラウス!」
呼ばれて振り返る。
「テオドール兄上」
「いた!」
「どうしてここに?」
「その台詞そのまま返すよ」
市街。
煙。
逃げる人々。
兵士。
その間を。
二人は走る。
「陛下から帰城命令出てるだろ!」
「戻っている途中です!」
「途中で何してた!」
「避難路が魔物と交差していました!」
「それで?」
「変えました!」
「なら終わり!」
テオドールがクラウスの肩を掴む。
「戻れ!」
「兄上は!」
「南への道を開ける!」
「危険です!」
「知ってる!」
「なら!」
「俺の仕事だ!」
クラウスが黙る。
「お前はお前の仕事しろ!」
「……はい」
「よし!」
テオドールが走り出す。
「兄上!」
「何!」
「必ず戻ってください!」
テオドールが振り返った。
「ユリウス兄上にも言われた!」
笑う。
「人気者はつらいね!」
そして。
走っていった。
◇
魔物の流れは。
さらに増えた。
東。
北東。
南東。
種類も。
大きさも。
関係ない。
捕食するもの。
されるもの。
本来なら同じ場所にいないもの。
全部が。
同じ何かから逃げている。
そして。
逃げ道の先に。
王都があった。
◇
女は歩いていた。
壁はもう近い。
崩れている。
魔物が通ったのだろう。
人間が戦っている。
火もある。
「…………」
自分が原因だ。
女は。
ようやく。
そこまで考えた。
自分が近づく。
弱いものが逃げる。
その先に人間がいる。
人間が巻き込まれる。
単純だった。
「……そうか」
理解した。
なら。
離れればいい。
一瞬。
そう考えた。
足が止まる。
「…………」
少女は。
この先にいる。
未来で何度も見た。
長い間探した。
ようやく見つけた。
離れる。
理由はある。
人間が死ぬ。
それだけだ。
女にとって。
今までなら。
それで終わる話だった。
「…………」
足を。
後ろへ。
動かそうとする。
動かなかった。
「……なぜ?」
自分に聞く。
答えはない。
代わりに。
少女の気配が。
また。
強くなった。
女は顔を上げる。
「…………」
そして。
前へ進んだ。
◇
「陛下!」
クラウスが会議室へ飛び込んだ。
「戻りました!」
「状況は!」
「原因は東! 距離はもう――」
言葉が止まる。
分からない。
だが。
「王都近郊です!」
「確かか!」
「逃走の発生地点が、ほぼ王都東部まで来ています!」
皇帝が地図を見る。
「正体は」
「まだ!」
「魔物か」
「分かりません!」
「人か」
「分かりません!」
「自然現象か」
「それも!」
皇帝は目を閉じた。
一瞬だけ。
「なら」
開く。
「分かることだけで動く」
「はい」
「東から来る」
「はい」
「生き物が逃げる」
「はい」
「近づいている」
「はい」
「十分だ」
皇帝が立ち上がる。
「王都西部の避難を開始」
「陛下」
「城もだ」
クラウスが顔を上げた。
「王城を放棄するのですか」
「必要なら」
「しかし」
「城は建て直せる」
皇帝は言った。
「人は戻らない」
クラウスは。
深く頭を下げた。
「承知しました」
◇
「王城も避難?」
レティシアは報告を聞いた。
「はい!」
「お父様は?」
「指揮を続けておられます!」
「ユリウスは!」
「城内避難を!」
「クラウスは!」
「帰城しました!」
「テオドールは!」
「南東部です!」
「……分かった」
一つずつ。
確認する。
「殿下も城へ!」
「まだ」
「しかし!」
「この人たちを出してから!」
目の前。
避難民の列。
もう。
長くはない。
「あと少し!」
レティシアが声を上げる。
「西門まで止まらないで! 道は空いてる!」
人々が進む。
一人。
一人。
また一人。
最後尾。
老夫婦。
兵士に支えられながら歩いていく。
「殿下!」
「分かった!」
レティシアが振り返る。
その時。
東から。
轟音。
空気が震えた。
「……何?」
煙の向こう。
大きな影。
一つではない。
「殿下!」
「走って!」
レティシアも走る。
王城へ。
◇
南東。
「こっちだ!」
テオドールが叫ぶ。
「走れ!」
細い道。
人々が抜けていく。
予定していた避難路ではない。
けれど。
使える。
「次!」
「もうすぐ最後です!」
「よし!」
子供。
母親。
老人。
兵士。
「テオドール様!」
「何!」
「魔物です!」
後ろ。
来る。
「数は!」
「三!」
「倒せる?」
「大型が一!」
「なら誘導!」
剣を抜く。
「こっちへ来させるな!」
兵士たちが並ぶ。
「テオドール様は下がって!」
「嫌だね!」
「またですか!」
「今日それ何回目?」
笑う。
まだ。
笑えた。
「終わったら数えよう!」
◇
王城地下。
灯りが。
一つ。
消えた。
「きゃっ」
子供の声。
「大丈夫!」
エマが言う。
「まだ灯りはございます!」
もう一つ。
消える。
「エマ」
「はい」
「これ、私?」
「……何がです?」
「分かんない」
アネクシアは胸を押さえる。
魔力。
溢れている。
止め方が分からない。
「いつもみたいにできない」
「いつも?」
「魔法」
習った。
流す。
止める。
形にする。
何度も。
失敗して。
できるようになった。
なのに。
「言うこと聞かない」
「殿下」
「私のなのに」
涙が落ちる。
「私の魔力なのに」
違う。
そんな感覚が。
一瞬だけ。
頭をよぎった。
――違う?
「…………」
誰の?
その瞬間。
また。
景色。
◇
女が。
歩いている。
◇
「……見える」
「殿下?」
「歩いてる」
「誰がです?」
「女の人」
エマが息を止める。
「どこです?」
「分かんない」
でも。
アネクシアには。
見えた。
銀。
紫。
そして。
自分の瞳にも。
灯り始めた。
同じ紫。
「こっちに来る」
◇
女も。
少女を見ていた。
今。
未来ではなく。
現在を。
「…………」
少女が泣いている。
誰かの手を握っている。
怖がっている。
自分を。
女は。
足を止めた。
「……怖い?」
なぜ。
そう思ったのか。
分からなかった。
少女の感情など。
未来では見えなかった。
今なら。
少しだけ。
分かる。
自分が近づくたび。
少女の中の力が揺れる。
「…………」
離れるべきか。
また。
考える。
だが。
その時。
背後から。
咆哮。
女は振り返った。
巨大な魔物。
逃げ道を失い。
狂ったように。
王都へ向かっている。
「邪魔」
女が。
手を上げた。
◇
光った。
◇
王都東部。
「伏せろ!」
兵士が叫んだ。
次の瞬間。
巨大な魔物が。
消えた。
◇
「……え?」
クラウスが窓の外を見る。
東。
一瞬だけ。
空が。
白く染まった。
「今のは……」
遅れて。
音が来た。
◇
轟音。
◇
王城が揺れた。
窓が割れる。
壁に亀裂が走る。
「伏せろ!」
皇帝が叫ぶ。
「お父様!」
扉の向こう。
レティシアの声。
「レティシア!」
扉が開く。
「無事か!」
「はい!」
「外は!」
「避難は続いてる!」
「西へ行け!」
「お父様も!」
「私はまだだ!」
「なら私も!」
「レティシア!」
「仕事がある!」
皇帝が。
一瞬。
言葉を失った。
そして。
「……分かった」
それしか。
言えなかった。
◇
地下。
「エマ!」
「ここです!」
暗い。
灯りが。
ほとんど消えた。
「手!」
「握っています!」
「怖い!」
「はい!」
「エマ!」
「ここにおります!」
また揺れる。
天井から。
小さな石が落ちる。
悲鳴。
「移動します!」
エマが叫ぶ。
「皆様、奥へ!」
人々が動く。
アネクシアも。
一歩。
進む。
その時。
誰かの泣き声。
振り返る。
子供。
転んでいる。
「待って!」
「殿下!」
アネクシアが戻る。
手を伸ばす。
「大丈夫?」
子供を立たせる。
「お母さんは?」
「あっち……」
「行こ」
手を取る。
その瞬間。
また。
強い魔力。
「――っ!」
「殿下!」
床へ膝をつく。
瞳の紫が。
さらに濃くなる。
「アネクシア殿下!」
遠くから。
声。
「お姉様……?」
違う。
セリシアではない。
レティシア。
「アネクシア!」
階段から。
レティシアが降りてくる。
「お姉様!」
アネクシアの顔が。
少しだけ。
明るくなった。
「よかった……」
レティシアが駆け寄る。
その途中。
アネクシアの瞳を見た。
足が止まる。
「……アネクシア?」
「変になっちゃった」
笑おうとする。
「でもエマが、私のままだって」
「…………」
「お姉様?」
レティシアは。
何も言わず。
妹を抱きしめた。
「わっ」
「……そうよ」
強く。
「あなたはアネクシアよ」
「苦しいよ」
「我慢して」
「えぇ……」
その声を聞いて。
レティシアは。
少しだけ笑った。
◇
外では。
人が逃げている。
兵士が戦っている。
テオドールが道を守っている。
ユリウスが城を空にしようとしている。
クラウスが原因を追っている。
皇帝が命令を出している。
マリアが負傷者を支えている。
レオンハルトが片目で馬を走らせている。
セリシアが。
帰ってくる。
みんなが。
できることをしていた。
だから。
多くの人が。
生きていた。
◇
それでも。
◇
王都の東。
女が。
崩れた城壁を越えた。
◇
その瞬間。
王都に残っていた魔物たちが。
一斉に。
鳴いた。
◇
咆哮。
悲鳴。
羽音。
地響き。
ありとあらゆる音が。
一つになる。
◇
「何……?」
アネクシアが顔を上げる。
◇
女も。
王城を見た。
◇
近い。
◇
もう。
壁はなかった。
◇
セリシアは。
遠くに王城を見た。
「見えた!」
煙の向こう。
傷ついた城壁。
逃げる人々。
燃える街。
それでも。
まだ立っている。
「アネクシア……!」
馬を走らせる。
もっと速く。
もっと。
◇
帰らなければ。
◇
妹のところへ。




