第35章 邂逅
警戒を知らせる鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
王都の空に、低い音が響く。
「エマ?」
アネクシアは窓から振り返った。
さっきまで空を埋めていた鳥たちは、もうほとんど見えない。
代わりに。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえてくる。
「殿下」
エマはすぐに扉へ向かった。
「こちらへ」
「何があったの?」
「まだ分かりません」
「また?」
「はい」
扉を開く。
廊下を兵士が走っていた。
「何があったのですか」
「王都東部で魔物を確認! 複数の群れが接近しています!」
「こっちに来てるの?」
アネクシアが聞く。
兵士は一瞬だけ迷った。
「いえ」
「え?」
「王都へ向かっているわけではありません。北と南へ分かれて移動しています」
「じゃあ、なんで鐘が?」
「数が多すぎます」
兵士は答えた。
「確認できているだけでも、昨日までとは比較になりません」
また別の兵士が走っていく。
エマはアネクシアの肩へ手を添えた。
「殿下。参りましょう」
「どこに?」
「安全な場所へ」
「お父様は?」
「お仕事中でございます」
「レティシアお姉様は?」
「同じく」
「じゃあ――」
「殿下」
いつもより少しだけ強い声だった。
「今は、皆様がご自身のお仕事をなさっております」
アネクシアは黙った。
「殿下にも、お願いしたいことがございます」
「私にも?」
「はい」
エマは微笑んだ。
「私と一緒にいてください」
「……それがお仕事?」
「今だけは」
「分かった」
アネクシアは頷いた。
「ちゃんといる」
「ありがとうございます」
二人は歩き出した。
◇
「東部の村から避難を開始!」
「北東部もです!」
「街道は?」
「西は確保! 南もまだ使えます!」
「王都へ入れるな!」
皇帝の声が飛ぶ。
「避難民は西側へ誘導しろ! 魔物の移動方向と交差させるな!」
「はい!」
会議室には、次々と報告が入ってくる。
地図の上。
印はもう数える意味を失っていた。
「数は?」
ユリウスが聞く。
「分かりません!」
「種類は!」
「複数! 大型も確認されています!」
「交戦は?」
「一部で!」
「必要な場合だけにしろ!」
皇帝が言う。
「追うな! 逃げるものは逃がせ!」
「陛下!」
別の伝令。
「東部第三村、避難開始しました!」
「護衛は?」
「ついております!」
「よし!」
対応できている。
まだ。
人は動いている。
命令は届いている。
道もある。
「お父様!」
レティシアが入ってきた。
「西部の倉庫、開放準備できたわ!」
「食料は?」
「三日分を先に出せる。それ以上も必要なら順次!」
「避難民を優先しろ!」
「分かってる!」
レティシアは机へ近づく。
「クラウスは?」
「外だ」
「外?」
◇
「違う」
クラウスは城壁の上から東を見ていた。
「何が?」
隣にいたユリウスが聞く。
遠く。
森から何かが出てくる。
魔物。
一頭ではない。
群れ。
そのさらに向こうにも。
「増えすぎています」
「分かっている」
「違います」
「何が違う」
「昨日までと」
クラウスは地図を見る。
「この速度ではありません」
昨夜。
今朝。
昼。
そして今。
「原因の移動が速くなった?」
「その可能性もあります」
「他には」
「距離です」
「距離?」
「近づいたことで、影響を受ける範囲が広がった」
ユリウスの表情が変わる。
「つまり」
「原因そのものが急に速くなったのではなく」
クラウスは東を見る。
「近づきすぎた」
風が吹いた。
その時。
森の上から。
何かが飛び出した。
「……飛竜?」
兵士の一人が呟く。
一頭。
さらに一頭。
空へ。
王都とは逆方向へ飛んでいく。
「飛竜まで逃げるのか」
ユリウスが低く言った。
クラウスは答えなかった。
「報告を」
「何と?」
「分かりません」
クラウスは初めて。
その言葉を口にすることを躊躇った。
それでも。
「飛竜を含む大型種まで逃走を開始した、と」
◇
「大型種まで?」
レティシアの声が小さくなる。
「はい」
報告を受けた皇帝は、しばらく何も言わなかった。
そして。
「王都東部を閉鎖する」
顔を上げる。
「住民を西へ。東門は避難が終わり次第閉じろ」
「はい!」
「城下の住民にも避難準備を」
「王都全体ですか?」
「準備だけだ」
「はい!」
「軍を東へ寄せる。ただし退路は残せ」
「承知しました!」
「セリシアは!」
「帰路についております!」
「現在地は!」
「あと半日ほどです!」
皇帝の手が止まった。
「……半日」
遠い。
近くはない。
だが。
戻れない距離でもない。
「急がせますか?」
「いや」
皇帝は首を振った。
「無理はさせるな」
「しかし」
「途中で事故を起こしたら意味がない」
伝令を見る。
「状況だけ伝えろ。こちらも持たせる」
「はい!」
持たせる。
その言葉を。
誰も疑わなかった。
◇
「急ぎましょう」
セリシアが言った。
「駄目です」
マリアが答えた。
「でも」
「陛下からも無理はするなとのことです」
「分かってるわ」
「分かっている方は、先ほどから三度も同じことをおっしゃいません」
「三度?」
「四度目です」
「…………」
馬車の向かい。
レオンハルトが窓の外を見ていた。
「止めた方がいい」
突然言う。
「何を?」
「馬車だ」
「どうして?」
「見ろ」
セリシアが外を見る。
道の脇。
森から。
鹿が出てきた。
一頭。
二頭。
次々と。
馬車を気にすることもなく、道を横切っていく。
「……また」
御者が馬を止める。
今度は鳥。
空を埋めるほどの群れが、頭上を通過していく。
マリアが窓を開けた。
「方角は?」
「西だな」
レオンハルトが答える。
「王都は?」
「ここからなら、東」
三人とも黙った。
逃げている。
王都の方角から。
「セリシア」
「戻ります」
「分かってる」
「今すぐ」
「だから待て」
レオンハルトが馬車を降りた。
「何をするんですか」
「馬を替える」
「え?」
「この先に宿場がある。馬車より騎馬の方が早い」
「でも」
「急ぐんだろ?」
セリシアが彼を見る。
「無茶はしない」
レオンハルトが先に言った。
「君もだ」
「……分かりました」
マリアがため息をついた。
「お二人とも、私の仕事を増やさないでくださいませ」
◇
王城。
「ここ?」
アネクシアは地下へ続く階段を見た。
「はい」
エマが答える。
避難用の区画。
普段は使わない場所だった。
すでに何人かの使用人や子供たちが集められている。
「エマも一緒?」
「もちろんです」
「ずっと?」
「殿下がお望みなら」
「望む」
「では、ずっと」
アネクシアは少し安心した。
階段を降りようとする。
その時。
「…………?」
足が止まった。
「殿下?」
「待って」
「どうされました?」
分からない。
何か。
変だった。
胸の奥。
いや。
もっと深いところ。
自分の中に。
知らないはずの何かが触れた。
「……なに、これ」
「殿下?」
熱くない。
痛くもない。
なのに。
心臓が強く鳴った。
一度。
二度。
「アネクシア殿下?」
エマが近づく。
「大丈夫?」
「分かんない」
息を吸う。
普通にできる。
苦しくない。
でも。
何かがいる。
そんな気がした。
「……誰?」
「え?」
アネクシアは階段ではなく。
上を見た。
東。
壁の向こう。
ずっと遠く。
そこに。
何かが。
「殿下」
エマが手を取る。
「まずは下へ」
「……うん」
一歩。
階段を降りる。
その瞬間。
頭の中で。
何かが弾けた。
◇
炎。
◇
「――っ!」
アネクシアは目を開いた。
「殿下!」
エマが身体を支える。
「今……」
「どうされました?」
「火」
「火?」
周囲を見る。
ない。
どこにも。
炎なんてない。
地下への階段。
石の壁。
エマ。
全部いつも通り。
「……なんでもない」
「本当に?」
「うん」
でも。
見た。
ほんの一瞬。
赤い空。
崩れた何か。
炎。
知らない景色。
そして。
誰かが。
こちらを見ていた。
◇
東。
王都から離れた森。
女が足を止めた。
「…………」
近い。
もう。
間違えない。
未来の中で見たもの。
何度も。
何度も。
自分の前に現れた存在。
そこにいる。
「……見える」
まだ姿は見えない。
だが。
分かる。
あの少女だ。
女は再び歩き始めた。
その一歩で。
森の奥から、巨大な魔物が飛び出した。
女を見た。
動きを止める。
一瞬。
次の瞬間。
咆哮。
恐怖。
魔物は背を向けた。
木々を薙ぎ倒しながら走る。
王都の方角へ。
女はそれを見送った。
「…………」
少し考える。
少女がいる。
その方向へ。
魔物も走っていった。
邪魔になるかもしれない。
そう思った。
だから。
一歩。
踏み出した。
◇
王都東部。
「来るぞ!」
兵士が叫んだ。
「大型種!」
「数は!」
「分からない!」
「門を閉めろ!」
「避難民がまだいる!」
「西へ回せ!」
「間に合わない!」
地面が揺れる。
森が動く。
いや。
森ではない。
木々の間から。
巨大な影が。
一つ。
二つ。
その後ろ。
さらに。
無数の魔物。
逃げてくる。
王都へ向かって。
「全員構えろ!」
剣。
槍。
弓。
魔法。
兵士たちが並ぶ。
その背後では。
まだ人々が走っている。
逃げる場所を求めて。
誰も。
何も間違えていなかった。
ただ。
間に合わなかった。
◇
女は森を抜けた。
遠くに。
高い壁が見えた。
その向こう。
あの気配。
「…………」
近い。
未来より。
ずっと小さい。
ずっと弱い。
けれど。
間違いない。
女は初めて。
ほんの少しだけ。
歩みを速めた。
◇
「殿下!」
地下へ向かっていたアネクシアが、また足を止めた。
「……近い」
「何がです?」
答えられない。
知らない。
会ったこともない。
なのに。
分かる。
向こうも。
こちらを見ている。
そんな気がした。
「誰……?」
◇
女は王都を見た。
壁。
人間。
逃げる魔物。
騒がしい。
だが。
どうでもいい。
その奥。
少女だけを見る。
未来で。
何度も見た。
銀色の髪。
紫の瞳。
今は。
まだ。
その姿ではない。
それでも。
同じだった。
「……いた」
そして。
アネクシアも。
まだ見えない何かを見つめていた。
二人の間には。
まだ。
王都の壁があった。
無数の人間がいた。
逃げる魔物がいた。
距離もあった。
それでも。
二人は。
初めて。
互いの存在を知った。




