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第三皇女の約束  作者: トカゲ


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第34章 前兆

 朝になっても、地図の上の線は消えなかった。


 クラウスは昨夜から何度目か分からない確認を終え、椅子へ背を預けた。


「やっぱり?」


 向かいに座るレティシアが聞く。


「はい」


「間違いではなく?」


「そうであってほしかったのですが」


「あなたがそう言うなら、たぶん違うわね」


 机には二枚の地図が並んでいる。


 昨日。


 今日。


 魔物が逃げ始めたと考えられる場所。


 その範囲が、少しずつずれていた。


 ばらばらに見えていた異変。


 だが、時間を分けて並べると違って見える。


「こっちに来てる?」


 レティシアの指が王都を示した。


「正確には分かりません」


「またそれ?」


「まだ二日分です」


「じゃあ、明日になれば分かる?」


「分かることが増える可能性はあります」


「便利な答えね」


「正確な答えです」


「そういうところよ」


 レティシアは息を吐いた。


 けれど、目は地図から離れない。


「仮に」


「はい」


「本当に何かが動いているとして」


 一つの印を指す。


「どれくらいでここまで来る?」


 クラウスは答えなかった。


 代わりに、昨日と今日の位置を測る。


「クラウス?」


「分かりません」


「……でしょうね」


「速度が一定とは限りません。そもそも、これが一つの原因によるものかも確定していない」


「でも、一番悪い場合は?」


 クラウスが顔を上げた。


「殿下」


「備えるなら必要でしょ」


 その言葉に。


 クラウスは少しだけ目を細めた。


「三日」


 レティシアの表情が止まる。


「早ければ」


「……三日」


「ただし、かなり粗い推定です」


「遅ければ?」


「分かりません」


「一週間かもしれない」


「はい」


「一か月かもしれない」


「可能性はあります」


「来ないかもしれない」


「それも」


 レティシアは頷いた。


「なら、三日で考えましょう」


「殿下?」


「何も来なかったら笑えばいいわ」


 立ち上がる。


「来てから後悔するより、その方がいい」


     ◇


 皇帝は報告を最後まで聞いた。


「三日か」


「最短の場合です」


 クラウスが答える。


「確度は?」


「低いです」


「何が近づいている」


「分かりません」


「規模は」


「分かりません」


「目的は」


「そもそも意思のある存在なのかも分かりません」


 皇帝は黙った。


 分からないことばかりだった。


 だが。


 一つだけ。


 昨日までとは違う。


 異変が起きている。


 ではなく。


 異変を起こしている何かが、移動しているかもしれない。


「警戒をもう一段上げる」


 誰も異論を挟まなかった。


「王都周辺の村は、避難の準備だけではなく、いつでも動ける状態にしろ」


「はい」


「街道は?」


 レティシアが答える。


「西と南を優先して確保します。北と東が使えなくなっても、王都への物資は維持できます」


「備蓄は」


「必要量を確認済みです。買い占めはさせません」


「よし」


「軍は王都周辺へ?」


 ユリウスが聞く。


 皇帝は少し考えた。


「全部は動かすな」


「理由を伺っても?」


「何が起きるか分からない。王都だけに集めて、別の場所が空になる方が危険だ」


「承知しました」


「各地の戦力を残した上で、動かせる分だけ待機させろ」


「はい」


「それから」


 皇帝が顔を上げた。


「セリシアを戻す」


 今度は。


 誰もすぐには答えなかった。


 レティシアが父を見る。


「お父様」


「昨日とは状況が違う」


「……はい」


「グランヴェルへ使者を。婚約披露については延期を申し入れる」


「承知いたしました」


「レオンハルト殿下にも詫びを」


「必要ないと思います」


 レティシアが言った。


 皇帝が娘を見る。


「昨日の返答を見る限り、向こうも分かっているはずです」


「それでもだ」


「……はい」


 皇帝は一度、目を閉じた。


「何もなければ、それでいい」


 静かな声だった。


「何もなければ、改めて日を決めればいい」


 誰も反対しなかった。


     ◇


「戻る?」


 セリシアは手紙から顔を上げた。


「はい」


 マリアが答える。


「陛下より、すぐに帰国するようにとのことです」


 宿場の一室。


 荷物はまだ完全には解かれていない。


 本来なら、今日。


 国境を越える予定だった。


「状況は?」


「昨日より悪化しています」


「被害は?」


「まだ大きくはありません」


 セリシアは手紙へ視線を戻した。


 魔物の異常移動。


 複数の街道。


 避難準備。


 そして。


 原因と思われる何かが移動している可能性。


「……何か」


「はい」


「何かって、何?」


「分かりません」


 マリアはそれ以上言わなかった。


「レオンハルト様には?」


「すでにお伝えしています」


「そう」


 セリシアは立ち上がった。


「なら、戻りましょう」


「はい」


 迷いはなかった。


 マリアが荷物をまとめ始める。


「どれくらいで戻れる?」


「急げば、今日中には」


「分かったわ」


「ただし」


 マリアが振り返る。


「無茶はなさらないでください」


「しないわよ」


「本当に?」


「……たぶん」


「殿下」


「分かった。しません」


 セリシアは少し笑った。


「ちゃんと帰るわ」


 その時。


 扉が叩かれた。


「失礼します」


 入ってきたのは、宿の者だった。


「グランヴェルより、レオンハルト殿下がお見えです」


「え?」


 セリシアが瞬く。


     ◇


「戻るんだって?」


 レオンハルトは、部屋へ入るなり聞いた。


「ええ」


「俺も行く」


「駄目です」


「即答か」


「当然です」


「理由は?」


「これは私たちの国の問題です」


「君は俺の婚約者だ」


「それは理由になりません」


「なる」


「なりません」


 レオンハルトは少しだけ困った顔をした。


「じゃあ、別の理由にする」


「何ですか」


「グランヴェルの王弟として、隣国の異変を確認する」


「もっと駄目です」


「なぜ?」


「余計に駄目です」


 マリアは黙って荷物をまとめている。


 止める気はないらしい。


「セリシア」


 レオンハルトの声が少し変わった。


「一人で何とかしようとしてないか?」


「していません」


「本当に?」


「……本当です」


「なら、俺がいてもいいだろ」


「どうしてそうなるんですか」


「一人で何とかしないなら、誰かが一緒にいてもいい」


「理屈がおかしいです」


「そうか?」


「そうです」


 セリシアはため息をついた。


「危険かもしれないんですよ」


「知ってる」


「何がいるかも分からない」


「それも聞いた」


「だったら」


「だから行く」


 レオンハルトは笑わなかった。


「君が戻らなきゃいけない程度のことが起きてるなら、グランヴェルにも無関係じゃない」


「…………」


「それに」


「それに?」


「婚約披露は延期になった」


「そうですね」


「予定が空いた」


 セリシアが目を丸くした。


 マリアの手が一瞬だけ止まった。


「……そんな理由で?」


「時間は空くものじゃなくて、作るものなんだろ?」


「誰から聞いたんですか、それ」


「手紙」


 セリシアはしばらく彼を見た。


 やがて。


「危なくなったら帰ってください」


「君もな」


「私は帰る場所がそっちです」


「じゃあ一緒に帰ろう」


「もう」


 セリシアは、少しだけ笑った。


「勝手なんですから」


     ◇


 昼。


 アネクシアは自室の窓から外を見ていた。


「兵士さん、多くない?」


「少し増えておりますね」


 エマが答える。


「何かあったの?」


「魔物の活動が増えているそうです」


「また?」


「はい」


 最近、その話をよく聞く。


 街道。


 討伐隊。


 村。


 お父様も忙しい。


 レティシアも。


 クロイツェル家のみんなも。


「セリシアお姉様、大丈夫かな」


「ご連絡は届いているかと」


「帰ってくる?」


「そのように伺っております」


 アネクシアが振り返った。


「ほんと?」


「はい」


「いつ?」


「早ければ、本日中に」


「じゃあ、おかえりって言える?」


「もちろんでございます」


 アネクシアは少し安心した。


「よかった」


 窓の外。


 空は晴れている。


 雲も少ない。


 城の中では人が動いている。


 兵士が増えた。


 使者が走る。


 荷物が運ばれる。


 いつもより少しだけ慌ただしい。


 でも。


 何かが壊れているわけではない。


 みんなが。


 何かが起きても大丈夫なように、準備しているだけ。


「エマ」


「はい」


「お姉様が帰ってきたら、お茶できるかな」


「殿下のお仕事次第でしょうか」


「また忙しい?」


「おそらく」


「そっか」


 少し残念だった。


 けれど。


「じゃあ、時間作ってもらお」


「そうなさってください」


「エマもね」


「私も、ですか?」


「三人で」


「セリシア殿下のお時間を頂いて、私まで参加するのですか?」


「だめ?」


「……侍女でございますので」


「それ答えになってないよ」


「最近、殿下は手強くなられましたね」


「えへへ」


 笑う。


 いつも通り。


 その時。


 窓の外で。


 鳥の群れが飛んだ。


「あ」


 アネクシアが空を見る。


 多い。


 ずいぶんと。


 一つの群れだけではない。


 いくつもの群れが、同じ方向へ飛んでいく。


「すごいね」


「……そうですね」


 エマの返事が少し遅れた。


「渡り鳥?」


「この時期ではないと思いますが」


「じゃあ何?」


「分かりません」


 二人で空を見る。


 鳥は飛んでいく。


 次々と。


 王都から離れるように。


     ◇


 同じ頃。


 城壁の上でも、兵士たちが空を見ていた。


「……多くないか?」


「ああ」


「鳥だけじゃないぞ」


 城壁の外。


 草原を、小さな獣が走っている。


 一匹ではない。


 何十。


 何百。


 森から出て。


 王都を迂回するように。


 走っていく。


「報告しろ」


「もう行った!」


「魔物は?」


「まだ見えない!」


「警戒を上げろ!」


 鐘は鳴らない。


 まだ。


 敵は見えない。


 攻撃もない。


 誰も傷ついていない。


 ただ。


 生き物だけが。


 次々と。


 王都から離れていく。


     ◇


 クロイツェル家。


 新しい報告を受け取ったクラウスは、地図を見た。


「鳥?」


「はい」


「獣も?」


「王都東部と北部で確認されています」


「魔物ではなく?」


「普通の動物も含まれています」


 クラウスは黙った。


 昨日まで。


 異常を示していたのは、主に魔物だった。


 今日は違う。


 鳥。


 獣。


 そして。


「クラウス」


 ユリウスが呼ぶ。


「これを」


 別の報告書。


 南東。


 魔物の群れ。


 移動。


 さらに近い。


 クラウスは地図へ印を置いた。


 昨日。


 今日。


 そして今。


 線を引く。


 昨日より。


 近い。


「……速くなっている?」


「何が?」


 レティシアが聞いた。


「分かりません」


 クラウスは答えた。


 だが。


 今度の「分からない」は。


 昨日までとは少し違った。


 地図を見る。


 王都を見る。


 近づいてくる何か。


 逃げる魔物。


 逃げる獣。


 逃げる鳥。


 そして。


 まだ何も知らずに暮らしている人々。


「陛下へ報告を」


 クラウスが立ち上がる。


「今すぐです」


     ◇


 その頃。


 王都からまだ遠い場所を。


 一人の女が歩いていた。


 急いではいない。


 止まってもいない。


 ただ。


 まっすぐ。


 感じるものの方へ向かっている。


 銀色の少女。


 未来で何度も見た少女。


 自分が殺さない少女。


 近い。


 昨日より。


 ずっと。


「…………」


 女は顔を上げた。


 遠く。


 まだ見えない場所に。


 あの気配がある。


 周囲には。


 もう。


 何もいなかった。


 鳥も。


 獣も。


 魔物も。


 すべてが。


 彼女の進む先から逃げていた。


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