第33章 備える
伝令が王城へ戻ったのは、夜が明ける少し前だった。
「魔物は、逃げている」
その報告を聞いても、クラウスはすぐには答えなかった。
机の上には、昨夜から広げたままの地図がある。
ユリウスも眠っていない。
レティシアは一度ヴァレンティス家へ戻ったが、すでに城へ戻ってきていた。
「テオドールが実際に見たのね?」
「はい。複数種の魔物が同時に街道を横断。人間には目もくれず、そのまま東へ移動したとのことです」
「討伐隊は?」
「交戦しておりません」
「被害は?」
「ありません」
レティシアが小さく息を吐いた。
被害はない。
それはいい報告だった。
少なくとも、今は。
「クラウス」
ユリウスが弟を見る。
「これで断定できるか?」
「少なくとも、一部については」
クラウスは地図へ視線を戻した。
「魔物は何かから離れようとしています」
「何か」
「それが何なのかは、まだ分かりません」
レティシアが椅子に座る。
「じゃあ次は、それを探すのね」
「はい」
「どうやって?」
「逃げた場所を調べます」
クラウスは一つの印を指した。
「東街道の群れが最も分かりやすい。テオドール兄上には、夜が明け次第、森の奥を調べてもらいます」
「危なくない?」
「危険があると判断した場合は、すぐに戻るよう伝えます」
「何か分からないのに?」
「何か分からないからです」
レティシアは少しだけ黙った。
「……それもそうね」
立ち上がる。
「私はお父様のところへ行くわ」
「殿下」
「街道の封鎖が増えてる。昨日の時点では問題なかったけど、このまま続けば物資が止まる」
レティシアは扉へ向かった。
「避難することになってから準備したんじゃ遅いでしょ?」
クラウスは一度だけ彼女を見た。
「はい」
「何?」
「いえ」
「何よ」
「同じことを考えていました」
「そう」
レティシアは少し笑った。
「なら、そっちは任せるわ」
◇
朝。
王城の会議室には、いつもより多くの人間が集まっていた。
「街道の状況から」
レティシアが地図を指す。
「現時点で王都への物資が止まる可能性は低いです。ただ、北と東が同時に長期間封鎖された場合、食料の一部に影響が出ます」
「備蓄は?」
皇帝が聞く。
「確認しました。すぐに問題になる量ではありません」
「なら買い集める必要はないな」
「はい」
レティシアは頷いた。
「急に集めれば、かえって値段が上がります」
「その通りだ」
「ただし、各地の倉庫には在庫の確認をさせます。輸送路も代替を二つ用意します」
「任せる」
次にユリウスが口を開いた。
「避難についてですが、王都周辺の村から順に、避難場所と経路の確認を始めています」
「住民には?」
「魔物の活動が増えているため、念のため確認していると伝えています」
「混乱は?」
「今のところありません」
「続けろ」
皇帝はそれだけ言った。
何かが起きている。
だが。
まだ、何が起きているのかは分からない。
分からないからといって、何もしない理由にはならない。
分からないものを、分かったことにする理由にもならない。
「討伐隊は?」
「待機を増やしています」
「追わせるな」
「はい」
「魔物が逃げているなら、無理に刺激する必要はない。人間へ向かってきた場合だけ対処しろ」
指示が一つずつ決まっていく。
街道。
村。
食料。
警備。
情報。
できることから。
まだ起きていないことのために。
「陛下」
扉の近くにいた兵士が声を上げた。
「グランヴェルへ向かった使者より、早馬が戻りました」
「入れろ」
扉が開く。
旅装の兵士が入り、膝をついた。
「報告いたします。セリシア殿下への伝達、完了しております」
レティシアが顔を上げた。
「お姉様は?」
「本日中に国境を越える予定でしたが、出発を遅らせております」
「戻ると?」
「いえ」
兵士は首を振った。
「殿下より、陛下へお言葉を預かっております」
「言え」
「『必要であれば、すぐに戻ります』と」
皇帝は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
「……そうか」
「はい」
「グランヴェル側には?」
「事情を説明しております。レオンハルト殿下からも、帰国が必要となった場合は予定を変更するとのお言葉をいただきました」
「分かった」
皇帝は地図を見る。
「今はまだ戻さない」
レティシアは何も言わなかった。
「国内の対応はできている。人的被害もほとんどない。セリシアを呼び戻す必要が生じた時に、すぐ動けるならそれでいい」
「はい」
「ただし連絡は絶やすな」
「承知いたしました」
兵士が下がる。
レティシアは、閉じた扉を少しだけ見つめた。
必要であれば、すぐに戻る。
いかにも姉らしい言葉だった。
「レティシア」
「はい」
「続けよう」
「……はい」
会議は続いた。
◇
昼前。
東街道。
「何もないな」
テオドールが森の中で呟いた。
「今のところは」
警備隊長が答える。
昨夜、魔物たちが飛び出してきた場所。
そこから森へ入り、すでにかなり歩いている。
討伐隊も同行していた。
剣を抜く必要は、まだ一度もない。
それどころか。
「本当に何もいないな」
鳥の声すら少ない。
魔物だけではない。
小さな獣の姿もない。
「痕跡は?」
「あります」
討伐隊の一人が地面を指した。
「こちらへ来ています」
「街道の方へ?」
「はい」
複数の足跡。
森の奥から。
街道へ。
テオドールは、その逆を見る。
「じゃあ、こっちから来たんだよな」
「そうなります」
「行けるか?」
「もう少しなら」
「無理はするなよ」
「承知しています」
「俺が言うのも変だけどな」
誰も笑わなかった。
さらに進む。
しばらくして、討伐隊の一人が止まった。
「……ここです」
「何が?」
「昨日までなら、この辺りに巣があったはずです」
「何の?」
「小型の魔物です。討伐対象ではありません」
見る。
確かに、痕跡はあった。
だが。
空だった。
「全部逃げた?」
「おそらく」
「何から?」
「分かりません」
また、その言葉だった。
テオドールは周囲を見る。
木。
草。
土。
何も変わらない。
焼けてもいない。
壊れてもいない。
争った跡もない。
何か巨大な魔物が通った形跡もない。
「……何もないじゃないか」
誰も答えなかった。
◇
午後。
クロイツェル家。
「何もなかった?」
クラウスが聞いた。
「正確には、何も見つからなかった」
戻ってきたテオドールが椅子へ沈み込む。
「巣は空。獣もいない。鳥も少ない。でも、荒らされた跡も戦った跡もなし」
「魔力の異常は?」
「討伐隊が確認した範囲ではなし」
「臭い」
「特に」
「地面」
「普通」
「植物」
「普通」
「水」
「兄上」
「普通だよ」
テオドールは机へ突っ伏した。
「何かあったら報告するって言ったけど、何もないって報告するの難しいな」
「重要な情報です」
「そうか?」
「はい」
クラウスは記録する。
巣。
空。
争った痕跡なし。
魔力異常なし。
環境変化なし。
「つまり」
レティシアが言った。
「魔物は何かに襲われて逃げたわけじゃない?」
「少なくとも、確認した場所では」
「じゃあ、何を見て逃げたの?」
「見たとも限りません」
「感じた?」
「可能性はあります」
テオドールが顔だけ上げる。
「何を?」
「それが分かれば苦労しません」
「知ってた」
クラウスは昨日の地図を出した。
その横に、今日の地図を置く。
「何してるの?」
レティシアが覗き込む。
「昨日までの報告と、今日の報告を分けています」
「それは見れば分かるわ」
「では?」
「何を見てるのか聞いてるの」
「逃げ始めた場所です」
クラウスは印を指す。
昨日。
そして今日。
一つずつ確認する。
「昨日の時点では、ここから離れています」
指を動かす。
「今日はこちら」
「近い?」
「はい」
「何に?」
クラウスは答えない。
定規を取る。
いくつかの地点を測る。
別の報告書を見る。
もう一度測る。
「クラウス?」
「少し待ってください」
「また?」
「お願いします」
レティシアは黙った。
テオドールも起き上がる。
ユリウスが弟の手元を見る。
一枚目の地図。
二枚目。
昨日。
今日。
クラウスの指が止まった。
「……兄上」
「なんだ」
「昨日と今日で、逃げ始める場所が違います」
「魔物が移動しているんだから当然じゃないのか?」
「いいえ」
クラウスは首を振る。
「魔物ではなく」
地図の上。
何も描かれていない場所へ指を置く。
「逃げる原因の方です」
レティシアの表情が変わった。
「それって」
「仮説です」
クラウスはすぐに言った。
「まだ、そう見えるだけです」
「でも」
「はい」
昨日の印。
今日の印。
少しずつ。
位置が変わっている。
クラウスの指が、その間をゆっくりとなぞった。
「……動いている?」




