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第三皇女の約束  作者: トカゲ


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第31章 逃げるもの

 夜になっても、クロイツェル家の一室から明かりは消えなかった。


 机の上には、地図が三枚。


 その周囲には、集められる限り集めた報告書が積まれている。


 クラウスはその一枚を取り、日付を確認した。


「三日前。北西部」


 地図に印を置く。


 次の一枚。


「五日前。西部」


 もう一つ。


「これは?」


 レティシアが別の紙を差し出した。


「目撃だけよ。討伐はしていない」


 クラウスが受け取る。


 農村近くで、小型の魔物が数頭。


 人間には近づかず、そのまま森を抜けていった。


「入れましょう」


「これも?」


「移動したという記録なら」


 印が増える。


 最初は四つだった。


 昼には、それが七つまで増えた。


 そして今、地図の上には大小さまざまな印が散らばっている。


「……多いな」


 ユリウスが言った。


「多いですね」


「お前が素直に認めると余計に怖いんだけど」


 テオドールが椅子の背にもたれた。


 誰も笑わなかった。


「それで?」


 レティシアが地図を見る。


「本当に逃げているの?」


「まだ断定はできません」


「まだ?」


「はい」


「いつになったら断定できるのよ」


「できるだけの情報が集まれば」


「集まらなかったら?」


「断定しません」


「……あなた、本当にそういうところよね」


「何か問題が?」


「ないわ」


 レティシアはため息をついた。


「ないから困るの」


「?」


「クラウス。続けろ」


 ユリウスに促され、クラウスは地図へ戻った。


「魔物の移動方向だけを見ると、規則性はありません」


 指が北部の印へ向かう。


「これは南へ」


 次。


「これは東」


 次。


「こちらは北東」


「ばらばらだな」


「はい」


 テオドールが腕を組んだ。


「じゃあ、やっぱり関係ないんじゃないのか?」


「そう考えていました」


「過去形?」


 クラウスは別の地図を広げた。


「今日、東街道で確認された群れです」


「東へ移動していたやつね」


 レティシアが言う。


「はい」


 クラウスは、その発見地点から西へ指を滑らせた。


「群れがどこへ向かったかではなく、どこから来たかを考える」


 指が止まる。


「次に、北街道」


 今度は逆方向へ。


「西部」


 また。


「南部」


 四人が地図を見る。


 線は一つの場所には集まらなかった。


 だが。


「……近くなったな」


 ユリウスが言った。


「はい」


 クラウスは頷いた。


「少なくとも、無関係と判断するには近すぎます」


 レティシアが眉を寄せる。


「王都周辺?」


「正確には、もう少し広い範囲です」


「何がある?」


 テオドールが聞く。


「村、森、街道、川」


「それはどこにでもある」


「はい」


「魔力が溜まりやすい場所とか?」


「確認しましたが、特別な記録はありません」


「遺跡」


「ありません」


「大規模な魔物の巣」


「確認されていません」


「じゃあ何なんだよ」


 クラウスは答えなかった。


 答えられなかった。


 地図の上には、何もない。


 少なくとも、人間が知る限りでは。


「……陛下にもう一度報告するわ」


 レティシアが言った。


「私も行きます」


 クラウスが立ち上がる。


「俺たちもだ」


 ユリウスも続いた。


 テオドールだけが地図を見ていた。


「兄上」


「どうした?」


「いや」


 少しだけ考えてから、首を振る。


「何でもない」


「言え」


 ユリウスに言われ、テオドールは頭を掻いた。


「大したことじゃないって」


「それを決めるのは聞いてからだ」


「……魔物ってさ」


 三人を見る。


「何もないところから逃げるのか?」


 誰も答えなかった。


     ◇


 報告を聞いた皇帝は、しばらく地図を見ていた。


「範囲は?」


「まだ絞り込めません」


 クラウスが答える。


「王都を中心とした地域と考えることもできますが、確証はありません」


「魔物の種類は」


「複数です」


「同じ種の移動ではない?」


「はい」


「縄張り争いは?」


「それだけでは説明できません」


「天候」


「大きな変化はありません」


「餌」


「同様です」


 皇帝は黙った。


 分からない。


 その言葉が、今日だけで何度使われただろう。


「被害は?」


 今度はレティシアが答える。


「現時点では軽微です。街道の封鎖と迂回による影響は出ていますが、人的被害はほとんどありません」


「対応できているか」


「はい」


 即答だった。


「なら、対応は続ける」


 皇帝が地図から顔を上げた。


「ただし段階を一つ上げる」


 室内の空気が変わった。


「各街道の警備を増やせ。王都周辺の村にも連絡。避難場所を確認させろ」


「避難を?」


「まださせない」


 皇帝は首を振った。


「何も起きていない村から住民を動かせば、別の混乱が起きる。だが、何かあった時に動けるようにはしておく」


「はい」


「討伐隊にも伝えろ。魔物を見つけても、必要がなければ追うな」


 ユリウスが頷く。


「移動先より、移動元を確認させますか」


「ああ」


「承知しました」


「それから」


 皇帝が一度言葉を切った。


「グランヴェルへの使者は?」


「すでに出ています」


「いつ届く」


「順調なら、明日の朝には」


「セリシアは?」


「今夜は街道沿いの宿場に滞在する予定です。明日には国境を越えるかと」


 皇帝がわずかに眉を寄せた。


「使者をもう一人出せ」


「陛下?」


「別の道を使わせろ」


 レティシアが父を見る。


「呼び戻すの?」


「まだだ」


 答えは昼と同じだった。


 だが、その後に言葉が続いた。


「状況を伝える。こちらからの連絡をいつでも受けられるようにしておけ、と」


「……分かりました」


「グランヴェルにも事情を伝えろ。必要になれば、セリシアをすぐに帰国させてもらう」


 婚約披露。


 国同士の予定。


 昨日までなら、それを途中で変える理由はなかった。


 今もまだ、変えるほどではない。


 だが。


 変える準備は必要になった。


「お父様」


 レティシアが言った。


「私、ヴァレンティスへ戻るわ。街道と物資の情報を集める」


「ああ」


「王都の備蓄も確認する。封鎖が増えたら、値段だけじゃ済まなくなる」


「頼む」


 レティシアが頷いた。


 クラウスも口を開く。


「私は記録を続けます」


「頼む」


「俺は?」


 テオドールが聞いた。


 皇帝は少し考える。


「現場へ行け」


「どこへ?」


「東街道だ。警備隊と討伐隊の間を繋いでくれ。報告を待っているだけでは遅い」


 テオドールの顔から、いつもの軽さが消えた。


「分かりました」


「ユリウス」


「はい」


「ここに残れ。情報をまとめる」


「承知しました」


 それぞれが動き始める。


 誰かが命じなくても。


 自分がするべきことを理解して。


 部屋を出ようとしたレティシアが、足を止めた。


「クラウス」


「はい」


「何か分かったら」


「すぐに知らせます」


 言い終わる前に返ってきた。


「……そう」


「殿下も」


「分かってる」


 二人はそれだけ交わし、別々の方向へ歩き出した。


     ◇


 夜が深くなった頃。


 東街道に出たテオドールは、馬上から森を見ていた。


「静かだな」


 隣にいた警備隊長が言う。


「はい」


「静かすぎる、ってやつか?」


「いえ」


 隊長は首を振った。


「本当に静かなだけです」


「……そうか」


 少し恥ずかしくなって、テオドールは前を向いた。


 街道には松明が並んでいる。


 封鎖された道。


 待機する兵士。


 少し離れたところには討伐隊もいる。


 準備はできている。


「昼間の群れは?」


「追っていません。陛下の指示通りです」


「どっちへ行った?」


「東へ。そのまま森へ入ったようです」


「戻ってきてない?」


「確認されていません」


「他は?」


「今のところ」


 テオドールは息を吐いた。


 何も起きていない。


 それなら、それが一番いい。


「今日は暇で終わるかもな」


「そう願いたいものです」


「暇だったら怒られるかな」


「誰にです?」


「兄貴」


「どちらの?」


「両方」


 隊長が少し笑った。


 テオドールも笑う。


 その時だった。


 森の奥で、音がした。


 二人とも顔を上げる。


「……今のは?」


「分かりません」


 兵士たちも森を見る。


 剣に手をかける者がいた。


「待て」


 テオドールが止めた。


 まだ何も見えていない。


 音だけだ。


 枝が折れる。


 一つ。


 また一つ。


 近づいてくる。


「構えろ」


 隊長の声が低くなる。


 兵士たちが動く。


 街道を塞ぐように並ぶ。


 森の暗闇。


 その奥から。


 一頭の魔物が飛び出した。


「――!」


 誰かが剣を抜く。


 だが。


「待て!」


 テオドールが叫んだ。


 魔物はこちらを見なかった。


 兵士にも。


 馬にも。


 人間にも。


 何の反応も示さず。


 ただ街道を横切った。


 全速力で。


 反対側の森へ消えていく。


「……なんだ、今の」


 誰も答えない。


 再び音がした。


 今度は一つではない。


 いくつも。


 いくつも。


「隊長」


「全員、道を開けろ!」


 兵士たちが左右へ下がる。


 直後。


 森から魔物が飛び出した。


 一頭。


 三頭。


 七頭。


 種類が違う。


 大きさも違う。


 普段なら同じ場所にいるはずのない魔物たちが、互いに争うこともなく街道を横切っていく。


 人間など、最初から存在していないかのように。


 ただ走る。


「……逃げてる」


 誰かが呟いた。


 テオドールは答えなかった。


 魔物が出てきた森を見る。


 暗い。


 何も見えない。


 何もいない。


 少なくとも、ここからは。


「伝令!」


「はい!」


「城へ!」


 テオドールは叫んだ。


「クラウスに伝えろ!」


 伝令の兵士が馬へ走る。


「魔物は――」


 そこで、一瞬だけ言葉に詰まった。


 何から。


 それだけは、まだ分からない。


「魔物は、逃げている!」


 馬が走り出す。


 蹄の音が遠ざかっていく。


 その向こうで。


 また、森が鳴った。


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