第22章 空ける時間
予定表に、空白がない。
レティシアはそれを見て、小さく息を吐いた。
「明後日の午後は?」
「ヴァレンティス家で西街道についての協議がございます」
リディアが答える。
「その次の日」
「午前は講義、午後は陛下への報告が」
「その次」
「クロイツェル家との会合がございます」
「……その次」
「午前でしたら」
「空いてる?」
「剣術の訓練がございます」
「空いてないじゃない」
「はい」
リディアは平然としている。
レティシアは予定表を机に置いた。
「いつからこんなことになったのかしら」
「以前からでございます」
「そうだった?」
「はい」
「最近、増えてない?」
「増えております」
「どっちなのよ」
「以前からお忙しく、最近さらに増えました」
「……そう」
それなら仕方ない。
最近はヴァレンティス家へ来る日も増えた。
魔物の目撃。
街道の警備。
商人からの陳情。
それに伴う追加の支出。
一つ一つなら、それほど大きな問題ではない。
けれど、それがいくつも重なると話は変わる。
「お父様は?」
「すでにお待ちでございます」
「行きましょう」
「はい」
レティシアは予定表を閉じた。
◇
「西街道の追加予算については、陛下も必要性を認められた」
ヴァレンティス家の当主は、机の上に置かれた書類へ視線を落としていた。
「では、問題ないのでは?」
レティシアが言う。
「今回についてはな」
「今回?」
「兵を増やす。街道の護衛を強化する。魔物が増えている以上、必要な対応だ」
「はい」
「だが、それが一度なら問題はない」
父が一枚、書類をめくる。
「二度、三度と続いた時、同じ方法でいいとは限らん」
「予算の問題?」
「それもある」
さらに一枚。
「兵を動かす権限。予算を追加する権限。街道の通行を制限する権限。必要だからといって、その全てを一か所で決め続けていいわけではない」
「陛下を信用していないの?」
「違う」
答えはすぐに返ってきた。
「陛下を信用することと、陛下お一人に任せることは同じではない」
以前にも聞いた言葉だった。
レティシアは少し考える。
「でも、魔物は待ってくれないわ」
「ああ」
「全部を話し合ってから決めていたら、遅くなることもあるでしょう?」
「ある」
「じゃあ陛下の判断は間違ってない」
「そうだ」
「……なら、ヴァレンティスも間違ってない?」
「ああ」
レティシアは眉を寄せた。
「面倒ね」
「政治とはそういうものだ」
どこかで聞いたような答えだった。
「どちらかが間違っていれば簡単なのに」
「そうだな」
父は否定しなかった。
レティシアは書類を見る。
皇帝の対応が遅いとは思わない。
むしろ早い。
だから街道はまだ使えている。
商人も通れる。
魔物が出れば兵が向かう。
怪我人が出れば、セリシアが治療に向かうこともある。
国は動いている。
今のところ、大きな問題にはなっていない。
だからこそ。
「問題になってから考えるんじゃ、遅いのね」
父が顔を上げた。
「そうだ」
「今は大丈夫でも?」
「ああ」
「大丈夫なうちに考える?」
「それが我々の役目だ」
レティシアは頷いた。
少しだけ、分かった気がした。
◇
会議が終わっても、仕事は終わらなかった。
「こちらはクロイツェル家からです」
使用人が新しい書類を置く。
「また?」
「西街道の通行制限に関する法的な確認とのことです」
レティシアは書類を受け取った。
細かい文字が並んでいる。
読む。
一枚めくる。
また読む。
「……細かい」
「クロイツェル家でございますので」
リディアが答えた。
「知ってるわ」
通行を制限する範囲。
期間。
商人への告知。
例外として通行を認める場合。
緊急時の権限。
必要なことなのは分かる。
分かるのだが。
「これ全部読むの?」
「お読みになられるのでしょう?」
「読むけど」
レティシアは次の頁をめくった。
余白に、小さな文字が書き込まれている。
本文より少し細い字。
ここは前項と重複。
こちらは条件を明確にした方がいい。
この表現では解釈が二つに分かれる。
見覚えがあった。
「……クラウス」
「はい?」
「これ、クラウスの字よね」
リディアが書類を覗き込む。
「そのようでございますね」
「なんでクラウスが?」
「クロイツェル家の方でございますので」
「それは知ってる」
最近、法務院へ出入りしているとも聞いている。
勉強のためだと言っていた。
その結果がこれなのだろう。
「本当に細かい人」
「そうでございますね」
また一枚めくる。
そこにも書き込みがある。
さらに一枚。
またあった。
「……全部見たのかしら」
「そのようですね」
「暇なの?」
「レティシア様」
「分かってるわよ。暇じゃないことくらい」
むしろ忙しいはずだ。
それでも、一つ一つ確認したのだろう。
レティシアは最後の頁まで読んだ。
「どうされますか?」
「直した方がいいところは直すわ」
「すべて?」
「必要なところだけ」
「承知いたしました」
書類を閉じる。
その瞬間、別の紙が机から落ちた。
「あ」
拾い上げる。
小さな紙だった。
書類とは関係ない。
『先日の本ですが、もし読み終わっていなければ急がなくて構いません』
それだけ。
名前もない。
けれど、誰の字かは分かった。
「……」
「どうされました?」
「何でもない」
紙を元に戻す。
「そうでございますか」
「何?」
「何も申し上げておりません」
「なら見ないで」
「見ておりません」
「絶対見てた」
「侍女でございますので」
「それ、エマの真似?」
「まさか」
少しだけ笑っている。
「リディア」
「はい」
「今度、クラウスに会う予定あった?」
「ございます」
「いつ?」
「三日後の会合で」
「そう」
レティシアはもう一度、小さな紙を見た。
「本、返さないと」
「まだお読みになられていないのでは?」
「……読むわよ」
「お時間は?」
「作る」
答えてから、自分で少し驚いた。
リディアも何も言わなかった。
◇
王城へ戻ったのは、夕方だった。
「レティシアお姉様!」
廊下の向こうから声がした。
アネクシアだった。
「走らないの」
「走ってないよ」
「走ってたでしょう」
「ちょっとだけ」
「それを走ったって言うの」
アネクシアが目の前で止まる。
「今日ね、お父様と遊んだ!」
「陛下と?」
「うん。お茶して、庭歩いて、盤上遊戯した」
「そう」
「私が勝った!」
「それはよかったわね」
「お父様、弱かった」
「初めてだったんじゃない?」
「そうだけど」
アネクシアは楽しそうに話している。
父とお茶をした。
庭を歩いた。
遊んだ。
仕事の話も少し聞いた。
楽しそうだった。
いいな。
ほんの一瞬、そう思った。
自分も最近、父とは話している。
今日だってヴァレンティス家で、父と同じ国のことを考えていた。
けれど、それとは違う。
「レティシアお姉様?」
「何?」
「どうしたの?」
「何でもないわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
アネクシアの頬を軽くつつく。
「よかったわね」
「うん!」
それも本心だった。
アネクシアが嬉しそうなら、自分も嬉しい。
羨ましいと思ったことまで、なくなるわけではないけれど。
「それでね」
「まだあるの?」
「次はみんなでやる」
「盤上遊戯を?」
「うん。お父様も来るって」
「陛下も?」
「約束した」
レティシアは少し驚いた。
「セリシアお姉様も来るよ」
「予定は?」
「これから合わせる」
「そう」
「レティシアお姉様もね」
「私は――」
予定が。
そう言いかけて、止まった。
朝に見た予定表を思い出す。
空白がない。
講義。
ヴァレンティス家。
会合。
勉強。
剣術。
どれも必要なものだ。
けれど。
父は今日、時間を作った。
「いつ?」
「まだ決まってない」
「じゃあ、決まったら教えて」
「来れる?」
「ええ」
「ほんと?」
「空けるわ」
アネクシアの顔が明るくなる。
「絶対?」
「絶対」
「やった!」
抱きつかれた。
「ちょっと、アネクシア」
「レティシアお姉様も来る!」
「分かったから離れなさい」
「やだ」
「もう」
そう言いながら、無理に離そうとはしなかった。
◇
部屋へ戻ると、リディアが予定表を開いた。
「さて」
「何?」
「どこを空けましょうか」
「……聞いてたの?」
「侍女でございますので」
「便利ね、それ」
「大変便利でございます」
レティシアは予定表を覗き込んだ。
本当に空いていない。
「ここは?」
「講義がございます」
「前日に移せない?」
「教師へ確認いたします」
「こっちは?」
「ヴァレンティス家へ」
「午前だけじゃ駄目?」
「当主様次第かと」
「聞いてみる」
「剣術は?」
「一日くらい休んでも死なないわ」
「では、そのように」
一つずつ見ていく。
動かせない予定もある。
動かせる予定もある。
自分でなければならないもの。
別の日でもいいもの。
思っていたより、分けることができた。
「……なんだ」
「はい?」
「空けられるじゃない」
「そのようですね」
予定がなくなったわけではない。
仕事も勉強も減っていない。
明日になれば、また増えるかもしれない。
それでも。
「ここ」
レティシアは予定表の一か所を指差した。
「空けておいて」
「承知いたしました」
リディアが印をつける。
予定表に、小さな空白ができた。
「それから」
「はい」
「今日の夜」
「何かございましたか?」
レティシアは机の上に置いた本を見る。
「本を読むわ」
「クラウス様の?」
「借りた本よ」
「左様でございますか」
「何よ」
「何も」
「笑ってるでしょう」
「気のせいでございます」
「リディア」
「お茶をご用意いたしますね」
逃げた。
最近、侍女というものは皆こうなのだろうか。
レティシアは椅子に座り、本を開いた。
予定は埋まっている。
やることも、まだたくさんある。
それでも、少しくらいなら。
自分で空けることができるらしい。




