第19章 三人の道
「兄上、それ三冊目ですか?」
テオドールの声に、ユリウスは書類から目を上げなかった。
「四冊目だ」
「聞かなければよかった」
「お前の分もあるぞ」
「もっと聞かなければよかった」
クロイツェル家の一室。
少し前までなら三人で盤上遊戯を広げていた机の上には、今日は書類と本が積まれていた。
ユリウスの前には領内の記録。
クラウスの前には法務院から借りてきた判例集。
そしてテオドールの前にも、残念ながら何冊かの本がある。
「クラウス」
「なんでしょう」
「代わってくれ」
「嫌です」
「まだ何も言ってないだろ」
「兄上の書類でしょう」
「違う。俺の本だ」
「もっと嫌です」
「兄弟って助け合うものじゃないの?」
「必要な時には」
「今だよ」
「必要性が認められません」
「兄上。弟が冷たい」
「自分で読め」
「兄上も冷たい」
三人いるのに、誰も助けてくれない。
テオドールは諦めて本を開いた。
「前はもっと楽しかったのになあ」
「前とは?」
「アネクシア殿下が来た時とか」
ユリウスの手が少し止まった。
「ああ」
「盤上遊戯して、お菓子食べて、クラウスが難しい話して」
「最後は今も変わらないだろう」
「最近は難しい話しかしてないじゃん」
「それはお前が勉強を嫌がるからだ」
「嫌がってるんじゃない。適度な距離を保ってるんだよ」
「それを嫌がると言う」
テオドールは机に突っ伏した。
「アネクシア殿下、遊びに来ないかな」
「昨日、連絡があった」
ユリウスが言った。
テオドールがすぐに顔を上げる。
「ほんと?」
「皆で時間を合わせて遊びたいそうだ」
「行く」
「まだ日程は決まっていない」
「決まったら行く」
「その前に、それを終わらせろ」
「じゃあ今日中に終わらせる」
「最初からそうしろ」
テオドールが急に本を読み始める。
クラウスはその様子を見て、小さく笑った。
「随分と分かりやすいですね」
「お前も来るだろ?」
「予定が合えば」
「なんだよそれ。来いよ」
「法務院の予定がありますので」
「最近そればっかりだな」
「勉強です」
「レティシア殿下みたいなこと言い始めた」
クラウスの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが。
「……あれ?」
テオドールが顔を上げた。
「何がです?」
「今、止まったよな」
「何がでしょう」
「レティシア殿下って言ったら」
「止まっていません」
「止まった」
「止まってない」
「兄上」
「巻き込むな」
「クラウスが怪しい」
「お前はもう少し本を読め」
「絶対なんかある」
クラウスは無視して判例集へ視線を戻した。
昨日、ヴァレンティス家へ行った。
父から預かった書類を届けるため。
それだけだ。
書庫でレティシアと話したのも偶然だった。
彼女が大量の本を読んでいたから、少し話した。
ただ、それだけ。
「クラウス」
「なんですか」
「同じところずっと読んでるぞ」
ユリウスに言われ、クラウスはページへ目を落とした。
確かに、先ほどから一行も進んでいなかった。
「……少し考え事を」
「レティシア殿下の?」
「違います」
「まだ何も言ってない」
「今言ったでしょう」
テオドールが笑った。
「やっぱり怪しい」
「うるさい」
「クラウスがうるさいって言った!」
「お前がうるさいからだ」
「兄上、聞いた?」
「聞いている」
「珍しくない?」
「珍しいな」
「兄上まで」
ユリウスはようやく書類から顔を上げた。
弟をしばらく見る。
「何かあったのか?」
「何もありません」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
その代わり、テオドールが聞いた。
「レティシア殿下、元気だった?」
「元気でしたよ」
「何してた?」
「勉強です」
「何の?」
「街道警備や税について」
「楽しいの、それ?」
「私に聞かないでください」
「クラウスは楽しいんだろ?」
「興味はあります」
「二人とも変だなあ」
「レティシア殿下まで変人にするな」
また。
今度は二人とも気づいた。
ユリウスが眉を上げる。
テオドールがにやりと笑った。
「ほら」
「……何がです」
「別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「ありません」
クラウスは判例集を閉じた。
「少し休憩します」
「逃げた」
「休憩です」
◇
廊下へ出ると、家の中は静かだった。
以前なら、ここをアネクシアが走っていたこともある。
その後ろをエマが追いかけていた。
最近は、それもない。
皆が少しずつ忙しくなっている。
自分もそうだ。
法務院へ行くことが増えた。
父の仕事を見ることも増えた。
まだ何になるのか決めてはいない。
それでも、知らなければならないことは増えていく。
「クラウス様」
使用人に呼び止められた。
「何でしょう」
「先ほど、皇宮からこちらが」
一通の封書を渡される。
アネクシアからの日程についてだろうか。
そう思って開いた。
違った。
『昨日はありがとう』
最初の一文を読んで、誰からなのか分かった。
レティシアだった。
昨日の書庫でのこと。
それから、父アルベルトから届けられた書類について、ヴァレンティス側から確認したいことがあるらしい。
後半はきちんとした用件だった。
だが最後に、小さな文字が一行だけ付け足されていた。
『今度は、あなたが何を勉強しているのか教えて』
クラウスはそこを二度読んだ。
「……」
「クラウス様?」
「いえ。ありがとうございます」
手紙を畳む。
部屋へ戻ろうとして――やめた。
自室へ向かう。
◇
「逃げたな」
テオドールが言った。
「逃げたな」
ユリウスも言った。
二人は残された机を見た。
クラウスの判例集が置かれたままになっている。
「兄上」
「なんだ」
「絶対なんかあったよね」
「本人が話すまで放っておけ」
「気にならない?」
「気にはなる」
「じゃあ聞こうよ」
「嫌だ」
「なんで?」
「面白いからだ」
テオドールは目を丸くした。
「兄上、そういうところあるよね」
「何がだ」
「いや、別に」
ユリウスは再び書類を手に取った。
「お前も続きをやれ」
「はーい」
しばらく、紙をめくる音だけが続いた。
やがてテオドールが口を開く。
「俺たち、これからずっとこんな感じなのかな」
「こんな感じとは?」
「兄上は家の仕事。クラウスは法務院。俺もなんかやって」
「何かは決めろ」
「そのうち決めるよ」
テオドールは頬杖をついた。
「みんなで遊ぶ時間、減るのかなって」
ユリウスは答えなかった。
少しして、書類を一枚めくる。
「減るだろうな」
「やっぱり?」
「我々だけではない。セリシア殿下も、レティシア殿下も。いずれアネクシア殿下も、それぞれ役目を持つ」
「つまんないな」
「そういうものだ」
「兄上は平気?」
ユリウスは少し考えた。
「平気かどうかで決まることではない」
「またそれ」
「だが」
ユリウスは書類を置いた。
「なくなるわけではない」
「何が?」
「時間だ」
テオドールを見る。
「減るなら、作ればいい」
「……兄上、たまにいいこと言うね」
「たまに、は余計だ」
「じゃあアネクシア殿下から連絡来たら絶対行こう」
「ああ」
「クラウスも連れてく」
「あいつは言わなくても来るだろう」
「レティシア殿下がいるし?」
「それは知らん」
二人は顔を見合わせた。
少しして、テオドールが笑った。
ユリウスも、ほんの少しだけ笑う。
それぞれが違う道を歩き始めていた。
けれど、その道はまだ近くにある。
離れたなら、また集まればいい。




