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第三皇女の約束  作者: トカゲ


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第18章 当然のこと

レティシアは、同じ文章をもう一度読んだ。


 街道警備に必要となった追加の費用。


 商人たちが負担している護衛費。


 それに伴う商品の価格上昇。


 数字そのものは、それほど難しくない。


 問題は、その先だった。


「警備を減らせば、商人の負担は減るのよね」


「はい」


 向かいに座るヴァレンティス家の文官が答えた。


「ですが、魔物による被害が増える可能性があります」


「じゃあ、警備は減らせない」


「現状では、そう考えるべきでしょう」


「でも増やしたままだと、お金がかかる」


「はい」


「……難しいわね」


 レティシアは小さく息を吐いた。


 ここ数日、似たような話ばかり聞いている気がする。


 何かを良くしようとすれば、別の何かに負担がかかる。


 一つを選べば、もう一つを諦めなければならない。


「お父様は、どうするつもりなの?」


 文官がわずかに姿勢を正した。


「陛下は、現在の警備を維持するお考えのようです」


「なら、それでいいんじゃない?」


「必要な判断だとは考えております」


「じゃあ――」


「ですが」


 文官は机の上の書類を一枚取り出した。


「同様の判断が、今後も続いた場合は別です」


 レティシアは書類を見る。


「どういうこと?」


「陛下が迅速に判断されることで、救われる者はおります。今回も、対応が遅れていれば被害は増えていたでしょう」


「うん」


「ですが、『急ぐ必要があった』という理由ですべてが決められるようになれば、我々が確認する頃には、すでに決定された後ということになります」


 レティシアは黙った。


 言っていることは分かる。


 父が間違っているとも思わない。


 魔物が出たのなら、すぐに人を送るべきだ。


 怪我をした人がいるのなら、助けるべきだ。


 そのためにお金が必要なら、使わなければならない。


 けれど。


 それを全部、一人で決めていいのか。


「……お父様が信用できないの?」


「いいえ」


 文官はすぐに答えた。


「陛下を信用することと、陛下お一人に任せることは、同じではございません」


 その言葉を、レティシアはしばらく考えた。


「難しいわ」


「ですから、我々がおります」


「ヴァレンティスが?」


「はい」


 文官は笑った。


「そして、いずれはレティシア様も」


「私も……」


「そのために、今こうして学ばれているのです」


 レティシアは頷いた。


 そうだ。


 自分はヴァレンティスの娘なのだから。


 これくらい知っていなければならない。


     ◇


 昼を過ぎても、レティシアは書庫に残っていた。


 机には何冊もの本が開かれている。


 税。


 交易。


 過去の街道整備。


 読めないわけではない。


 意味も分かる。


 ただ、量が多かった。


「……疲れた」


 誰もいないのを確認してから、小さく呟いた。


「珍しいお言葉ですね」


「――っ!」


 レティシアは勢いよく振り返った。


 入口に、クラウスが立っていた。


「クラウス!」


「申し訳ありません。驚かせるつもりは」


「いつからいたの?」


「『疲れた』の少し前から」


「それなら声をかけなさい!」


「集中しておられましたので」


 クラウスは悪びれた様子もなく答えた。


「何をしに来たの?」


「父から書類を預かっております。ヴァレンティス家へ届けるようにと」


「アルベルト様から?」


「はい。ついでに、こちらの書庫で調べたいものがありまして」


 そう言ってから、クラウスは机を見る。


「随分と読まれたのですね」


「これくらい普通よ」


「普通?」


「私はヴァレンティスの娘だもの」


 レティシアは本を閉じた。


「税のことも、国の決まりも、知らない方がおかしいでしょう?」


「なるほど」


 クラウスが頷く。


 それで話は終わると思った。


「では、これは?」


「え?」


 クラウスが机の端に積まれた本を指した。


「昨年の交易記録ですね」


「そうよ」


「こちらは街道整備の記録」


「そう」


「これは?」


「十年前の税収」


「それも当然?」


「……当然よ」


 少しだけ答えるのが遅れた。


 クラウスは本の山を見た。


「ヴァレンティス家の方々は、皆これを?」


「必要なら読むでしょうね」


「一日で?」


「一日じゃないわ。昨日からよ」


「なるほど」


「何よ」


「いえ」


 クラウスは少し考えてから言った。


「レティシア殿下は、随分と努力されているのだと思いまして」


 レティシアは瞬きをした。


「……これくらいで?」


「これくらい、とは?」


「だから……」


 言葉が続かなかった。


 これくらいは、できて当然だ。


 そう言われてきた。


 ヴァレンティスの娘なのだから。


 皇女なのだから。


 いずれ国を支える立場になるのだから。


「できなかったら困るでしょう」


「それと、努力されたことは別では?」


 クラウスは当たり前のことのように言った。


「知らなかったことを覚えたのでしょう?」


「そうだけど」


「読めなかったものを読めるようになった」


「……そうね」


「なら、それは殿下が勉強されたからではありませんか」


 レティシアは答えなかった。


 そんなことを言われたのは、初めてではない。


 褒められたことだってある。


 けれど。


 なぜか、その言葉は妙に残った。


「クラウスって、変ね」


「よく言われます」


「誰に?」


「主に兄と弟に」


「全員じゃない」


「父からは言われません」


「アルベルト様は言わないだけじゃない?」


「その可能性はありますね」


 レティシアは笑った。


 少しだけ、肩の力が抜けた。


「ありがとう」


「何がでしょう」


「……なんでもない」


「そうですか」


 クラウスはそれ以上聞かなかった。


 それが少しだけ、ありがたかった。


     ◇


 城へ戻った頃には、夕方になっていた。


「レティシアお姉ちゃん!」


 廊下の向こうから声がした。


 考えるまでもなく誰なのか分かる。


 アネクシアが走ってきた。


「廊下を走らないの」


「エマにも言われた」


「なら直しなさい」


「今度から」


「それ、前も聞いたわ」


 アネクシアが笑う。


 その顔を見ると、レティシアも自然と笑えた。


「ねえ、遊べる日、エマに探してもらってるからね」


「遊べる日?」


「みんなで」


「クロイツェルのみんなも呼ぶの?」


「うん。お父様も来るって」


「お父様も?」


「エマが言ってた」


「そう」


 最近は家族全員でゆっくり過ごすことも減っている。


 久しぶりに、何も考えず遊べるかもしれない。


「楽しみにしてるわ」


「絶対来てね」


「予定が合えばね」


「合わせてよ」


「それはエマに言いなさい」


「もう言った」


「なら大丈夫ね」


 アネクシアが満足そうに笑った。


 その時。


「レティシア」


 父の声がした。


 振り返ると、皇帝がこちらへ歩いてくるところだった。


「お父様」


「今戻ったのか?」


「はい」


「今日はヴァレンティスで?」


「勉強をしていました」


「そうか」


 父は頷いた。


「偉いな」


「……はい」


 それだけだった。


 父はアネクシアの頭を軽く撫でると、


「すまんが、まだ仕事が残っている。また夕食でな」


 そう言って歩いていった。


「お父様、今日も忙しそう」


「そうね」


「レティシアお姉ちゃんも」


「私は別に」


「でも今日もずっと勉強してたんでしょ?」


「これくらい普通よ」


 そう答えてから。


 レティシアは、少しだけ立ち止まった。


 ――それと、努力されたことは別では?


 昼間の言葉が浮かんだ。


「お姉ちゃん?」


「なんでもないわ」


 レティシアは再び歩き出した。


 父は自分を褒めてくれた。


 アネクシアも、自分が勉強していることを知っている。


 誰も、自分を見ていないわけではない。


 それなのに。


 クラウスの言葉だけが、なぜかいつまでも残っていた。


 できて当然だと思っていたことを。


 初めて、自分が頑張ったことなのかもしれないと思った。


 それはまだ、ほんの小さな変化だった。

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