第17章 皇帝のお仕事
書類が、一枚増えた。
皇帝はそれを見て、しばらく黙っていた。
「……減らんな」
朝から何度目か分からない言葉だった。
机の上には、すでにいくつもの報告書が積まれている。
街道の警備。
魔物の目撃情報。
商人からの陳情。
地方から届いた穀物価格の報告。
その一つ一つは、国を揺るがすような大問題ではない。
街道が完全に使えなくなったわけではない。
作物がまったく採れなかったわけでもない。
魔物が町を襲ったわけでもない。
だからこそ、厄介だった。
「西街道の護衛は?」
「増員しております。ただ、商人側からは護衛費の負担について要望が」
「東は」
「昨日、魔物が一体討伐されました。負傷者が三名。セリシア殿下が治療にあたられています」
「三人か」
「はい。命に別状はないとのことです」
「そうか」
それだけは、良い知らせだった。
皇帝は次の書類を手に取った。
今度はヴァレンティス家からだった。
街道警備に関する追加予算。
その決定過程と、今後の負担について。
内容を読み終え、机へ置く。
「間違ってはいないな」
側近が少しだけ視線を上げた。
「ヴァレンティス家の意見が、でしょうか」
「ああ。支出が増え続ければ、どこかで見直す必要がある。何に使ったのかを示せというのも当然だ」
だが、今すぐ警備を減らせるかと言われれば、それも難しい。
魔物が出る。
護衛が必要になる。
護衛を増やせば金がかかる。
その金は、どこかから持ってこなければならない。
「簡単なら、とっくに終わっている」
皇帝は椅子の背にもたれた。
「クロイツェル家からは?」
「追加措置について回答が届いております」
別の書類が差し出される。
目を通す。
こちらもまた、間違ってはいなかった。
皇帝の判断で動かせる範囲。
既存の法で認められている範囲。
それを超える場合に必要となる手続き。
「……アルベルトらしい」
融通が利かない。
だからこそ、任せられる。
皇帝が困っているからという理由で法が曲がるようでは、クロイツェル家が存在する意味がない。
それは分かっている。
分かっているが。
「陛下」
「なんだ」
「昼食を」
皇帝は窓を見た。
太陽は、とっくに一番高い場所を過ぎていた。
「……もうそんな時間か」
「かなり前から、そのような時間でございます」
「先に西街道を――」
「昼食を」
「分かった」
皇帝は渋々書類を置いた。
◇
遅い昼食は、一人だった。
少し前までは、時間が合えば娘たちの誰かがいた。
セリシアは今日も城にいない。
レティシアはヴァレンティス家へ行っている。
「アネクシアは?」
給仕をしていた侍従が答える。
「本日はお部屋で過ごされているかと」
「勉強か?」
「午前で終えられたと聞いております」
「では、何をしている」
「そこまでは……」
皇帝は少し考えた。
最近、アネクシアとまともに話をしたのはいつだっただろう。
食卓では顔を合わせている。
先日も、物の値段について随分と質問された。
だが、それは父親として娘と過ごしたと言えるのだろうか。
「最近、あの子も静かだな」
侍従は答えに困ったようだった。
「……いえ」
「なんだ」
「アネクシア殿下が静かだと伺ったことはございません」
「それもそうか」
少し笑った。
ならば大丈夫だろう。
午後から時間ができれば、顔を見に行けばいい。
そう思っていた。
◇
時間は、できなかった。
午後には商人組合の代表が来た。
その後は街道警備についての報告。
さらに地方から使者が到着し、今年の収穫について説明を受けた。
日が傾く頃には、ヴァレンティス家から新しい書簡まで届いた。
「……増えているではないか」
「何がでしょう」
「朝より書類が」
「陛下がお読みになっている間にも、国は動いておりますので」
「たまには止まってくれてもいいのだが」
「それは困ります」
「冗談だ」
新しい書簡を開く。
今後も同様の支出が続く場合、皇帝個人の判断で処理を続けるべきではない。
そういう内容だった。
皇帝は最後まで読んだ。
机の上に置く。
すぐには返事を書かなかった。
「どう思う」
側近は少し考えてから答えた。
「ヴァレンティス家としては、当然の懸念かと」
「私もそう思う」
皇帝は指で机を軽く叩いた。
「だが、判断を一つ増やすたびに確認先まで増やしていては、現場が待てん」
魔物は会議を待ってくれない。
怪我人も、荷を積んだ馬車も待ってはくれない。
だから皇帝が判断する。
だが、その判断が増えれば増えるほど、ヴァレンティス家は気にする。
一人の人間に、多くの決定が集まっていることを。
「……どちらも間違ってはいないのが、一番面倒だな」
皇帝は呟いた。
側近は何も答えなかった。
答えがないことくらい、皇帝にも分かっていた。
だからまた、次の書類を手に取った。
◇
執務室を出た頃には、城は静かになっていた。
窓の外は暗い。
廊下を歩いていると、前から見慣れた侍女がやってきた。
「陛下」
「エマか」
エマが一礼する。
「今までアネクシアと?」
「はい。先ほどお休みになられました」
「今日は何をしていた」
「午後からは盤上遊戯を。その後は本を読まれておりました」
「そうか」
少なくとも退屈はしなかったらしい。
それならよかった。
そう思ったところで、エマが続けた。
「それと、一つお願いをされまして」
「アネクシアから?」
「はい」
皇帝は足を止めた。
「皆様と遊べる日を探してほしい、と」
「……皆?」
「セリシア様、レティシア様。クロイツェル家の皆様も」
なるほど。
皇帝は少し笑った。
あの子らしい。
「私も入っているのか?」
「そこまでは伺っておりません」
「入っていないのか」
「ご自身でお確かめくださいませ」
「冷たいな」
「侍女でございますので」
何の理由にもなっていない。
だが、アネクシアが気に入っている理由は少し分かる。
「では、私の予定も空けておいてくれ」
エマが一瞬だけ目を瞬いた。
「陛下のご予定を、私がでしょうか」
「私の側近にも伝えておく。皆が集まれる日が見つかったら、その日は空ける」
「承知いたしました」
エマが一礼する。
「いつ頃をご希望でしょう」
「そうだな……」
明日は無理だ。
明後日も会議がある。
その次の日は、地方から使者が来る。
セリシアの予定も分からない。
レティシアも最近はヴァレンティス家へ通っている。
皇帝は少し考えてから、笑った。
「なるべく早く、だな」
「承知いたしました」
エマが去っていく。
皇帝はその背を見送ってから、娘の部屋がある方へ目を向けた。
もう眠っているのなら、起こす必要はない。
明日、話せばいい。
皇帝は自室へ向かって歩き出した。
明日もまた、仕事は山ほどある。
それでも、家族と過ごす一日くらいは作れるだろう。
その程度の時間なら、どこかにある。




