1世紀 3
中田は自分の手足を見下ろそうとしたが、視界は勝手に前方の、一人の男の後ろ姿を追いかけ始めた。
宿主の足は迷いなく進み、やがて人々が幾重にも取り囲み、熱心に耳を傾けている一角へとたどり着いた。人だかりの隙間から、静かで、しかし不思議と鼓膜の奥にまで染み渡るような通る声が聞こえてくる。
中田は声の主をこの目で確かめようと必死に視線を動かそうとした。しかし、宿主の体は人混みの端、中途半端に遮られた位置でピタリと動きを止めてしまった。前の人間の肩や頭が邪魔をして、声の主の姿は見えない。
(クソ、あと少し右を向いてくれれば……!)
もどかしさに歯噛みしながらも、中田の耳は否応なしにその声を拾い上げた。
「……ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもに襲われた。強盗どもはその人の衣服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。たまたま、一人の祭司がその道を下ってきたが、その人を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人もその場所にやってきたが、彼を見て反対側を通り過ぎて行った……」
(この話……どこかで聞いたことがあるぞ)
どうやらそこでは、宗教的な知識に長けた「偉い人」と、もう一人の「偉い人」が対論を交わしているようだった。質問を投げかけている側の男は、明らかに少しムキになっており、相手を言葉でやり込め、罠に嵌めようとしている意図がその声音から透けて見えた。対する声の主は、穏やかに、しかし一切の隙を与えることなく、物語を紡いでいく。
「……しかし、旅をしていた一人のサマリア人がその人のところに来ると、見て哀れに思った。近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。……さて、これら三人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか?」
律法学者のような男が、苦渋に満ちた声で「その人を哀れんだ者です」と答えるのが聞こえた。
「では、あなたも行って同じようにしなさい」
問答が終わり、人々が感嘆の声を漏らしながら、ざわざわと動き出す。
すると、中田を乗せた宿主の体が、再び意志を持ったかのように勝手に歩き出した。人混みをかき分け、神聖な衣服を身にまとった先ほどの「問いかけた側の男」――おそらくは律法学者か、あるいは神殿の関係者であろう男――の前へと迷いなく進んでいく。
そして、中田の喉が、彼自身の意図とは全く無関係に、朗々とした言葉を紡ぎ出した。
「イエス様」
その口から出た呼び名に、中田の心臓は文字通り凍りついた。
(イエス……!? まさか、あの、イエス・キリストか!?)
白髪の人物が最後に言いかけた「イエ……」という名前のパズルが、一瞬で頭の中で噛み合った。 しかし中田の脳裏に強烈な衝撃があった
(だったら俺はイエスキリストの弟子ってことか)
と中田は思った




