本当の師弟
深い森を抜け、僕たちが辺境の街ルクスの門をくぐったのは、三日目の昼下がりだった。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
石畳の大通りを馬車が行き交い、軒を連ねる店から威勢のいい呼び込みの声が飛ぶ。露店では串に刺した肉が炙られ、香辛料と脂の匂いが空腹を刺激してきた。
こんなに大勢の人間を見るのは初めてだった。
僕は物心ついた頃から母さんと旅をしていた。街へ立ち寄ることはあっても、これほど大きな場所に長く滞在した記憶はない。
「きょろきょろするな。田舎者だと一目で分かるぞ」
隣を歩くセレスティアが呆れたように言った。
街へ入ってから、彼女はずっとフードを深く被っている。
「だって、凄いですよ。あっちなんて――」
そのときだった。
「おおっ! ガルガダ様だ!」
「今日もなんてお美しい……!」
「見ろよ、あの腕! たまらねえ……!」
大通りが突然ざわめいた。
人々が左右へ分かれ、道を開けていく。
特に男たちは頬を赤らめ、熱に浮かされたような目をしていた。
「誰ですか?」
「ガルガダか。この辺りでは有名な女戦士だ」
「へえ……」
周囲の反応を見る限り、とんでもない美人らしい。
僕も人垣の向こうへ目を向け――固まった。
「…………え?」
歩いてきたのは、僕より頭二つどころではなく大きな女性だった。
分厚い鉄鎧の上からでも分かる、丸太のような腕。
緑褐色の肌。
横へ広がった大きな鼻。
分厚い唇。
そして下顎から上へ反り返った、立派な二本の牙。
どう見ても――。
(オーク……だよな?)
絵本で見たことがある。
間違いない。
オークだ。
「はぁ……美しい」
「一度でいいから、あの腕に抱き締められてえ……」
「馬鹿野郎、お前なんかがガルガダ様に相手にされるかよ」
周囲の男たちは本気だった。
冗談で言っている顔ではない。
ガルガダが軽く髪をかき上げただけで、「おおっ!」と歓声まで上がった。
「…………」
僕はもう一度ガルガダを見る。
太い腕。
牙。
大きな鼻。
そして、熱狂する男たちを見る。
もう一度ガルガダを見る。
「…………そうなの?」
「何がだ」
セレスティアが怪訝そうに僕を見る。
「いや……なんでもないです」
「変な奴だな」
分からない。
やっぱり分からない。
母さんと旅をしていた頃から薄々感じてはいた。
でも、ここまで大勢の人間を一度に見ると嫌でも理解してしまう。
僕と、この世界の人たちでは――美しいと感じるものが、完全に違う。
「行くぞ」
「あ、はい」
歩き出したセレスティアを追う。
ところが、さっきまでとは別の意味で周囲がざわつき始めた。
「……おい」
「あれ……」
「エルフじゃない?」
声が小さくなる。
僕たちの周囲だけ、人が避けていく。
「うわ……気味悪い」
「なんで真昼間から歩いてるんだよ」
「見ちゃ駄目」
母親が子供の顔を自分の胸へ押しつける。
「どうして?」
「いいから。あんなもの見たら夜にうなされるわよ」
あんなもの。
一瞬、誰のことを言っているのか分からなかった。
風が吹いた。
セレスティアのフードがわずかに浮き、隙間から金色の髪と長く尖った耳が覗く。
「ひっ……!」
近くを歩いていた女性が本気で悲鳴を上げた。
露店の主人まで顔をしかめる。
「おい、あんた。商品に近づかないでくれよ」
「……買うつもりはない」
「だったらさっさと行ってくれ。客が逃げる」
セレスティアは何も言わなかった。
フードを直し、そのまま歩く。
「…………」
僕の方が腹が立った。
どうして?
こんなに綺麗なのに。
いや。
たとえこの人たちにとって綺麗じゃなかったとしても。
何もしていない人間に、どうしてそんなことを言える?
「セレスティア」
「何だ」
「……いつも、こうなんですか?」
ほんの一瞬。
彼女の足が止まった。
でも、すぐに歩き出す。
「気にするな」
それだけだった。
その言い方が、余計に胸へ引っかかった。
日が傾き始めた頃、セレスティアは大通りから外れた宿屋の前で足を止めた。
「ここなら空いているだろう」
古びてはいるが、普通の宿に見える。
扉を開けた。
「いらっしゃ――」
カウンターの店主がこちらを見る。
そして、セレスティアがフードを取った瞬間。
顔が引きつった。
「……エルフかよ」
「部屋を二つ。それと湯を使いたい」
「悪いが、他を当たってくれ」
即答だった。
「金なら払う」
セレスティアが革袋を出す。
だが、店主は首を横に振った。
「金の問題じゃねえ。あんたを泊めたなんて知られたら、他の客が来なくなる」
「…………」
「分かるだろ。うちも商売なんだ」
セレスティアは何も言わない。
「そっちの坊主だけなら泊めてやる。だが、あんたは駄目だ」
僕の中で何かが切れた。
「なんだよ、それ」
「あ?」
「セレスティアが何をしたんだよ!」
「アレン」
「金だって払うって言ってるじゃないか! なのに――」
「やめろ」
肩を掴まれた。
振り返る。
セレスティアは怒っていなかった。
悲しそうでもなかった。
ただ――慣れていた。
それが一番嫌だった。
「……邪魔したな」
彼女は店主へそれだけ告げ、僕の腕を引いた。
「待ってください!」
「行くぞ」
宿を出る。
夕暮れの裏路地を、しばらく無言で歩いた。
大通りから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
やがてセレスティアが立ち止まった。
「アレン」
「……はい」
革袋を取り出し、中から銀貨を何枚か僕の手へ載せる。
「持っていけ」
「え?」
「約束通り、街まで連れてきた」
嫌な予感がした。
「ここで終わりだ」
「……何が?」
「私とお前の旅がだ」
セレスティアが僕から一歩離れる。
「その金があれば、しばらくは暮らせる。仕事を探すなり、孤児院を頼るなり好きにしろ」
「待ってください」
「お前は人間だ」
淡々とした声だった。
「宿にも泊まれる。仕事にも就ける。普通に生きられる」
「僕はハンターになるって――」
「やめておけ」
「なんで!」
「向いていないからだ」
言葉が胸に刺さる。
「三日見た。それでも結論は変わらん。お前に戦いの才能はない」
「でも――」
「それに」
セレスティアがフードを深く被る。
「私といる必要もない」
「……え?」
「見ただろう」
その声だけが、ほんの少し低くなった。
「私と歩けば、お前まで同じ目で見られる」
「そんなの――」
「今はいい。だが、いずれ嫌になる」
妙に静かな声だった。
「醜いエルフと一緒にいるだけで笑われる。宿を断られる。店から追い出される。お前自身までまともに扱われなくなるかもしれん」
セレスティアは背を向けた。
「お前にそんな人生を選ぶ理由はない」
歩き出す。
僕は、その背中を見た。
森の中では、あれほど大きく見えた背中。
ブラックウルフを一瞬で倒した人。
僕なんかよりずっと強い人。
なのに今は。
どうしてか、ひどく一人ぼっちに見えた。
気づいたときには走っていた。
「セレスティア!」
外套の裾を掴む。
彼女の足が止まった。
「……離せ」
「嫌です」
「アレン」
「嫌です!」
セレスティアが振り返る。
青い瞳が僕を見た。
「何度言わせる。私といれば、お前まで――」
「関係ない!」
声が路地に響いた。
セレスティアが黙る。
「みんながセレスティアをどう思うかなんて、僕には関係ない」
「…………」
「僕には綺麗に見える」
セレスティアの瞳が揺れた。
「初めて会ったときから、ずっとそうです」
「……また、それか」
「また言います」
「やめろ」
「嫌です」
「なぜだ!」
初めてだった。
セレスティアが、感情を露わにして声を荒らげたのは。
「この世界の誰も私をそんなふうには見ない! 気味が悪い、醜い、化け物だと――それが普通なんだ!」
「僕は違う!」
言い返した。
「僕は、セレスティアを綺麗だと思う!」
沈黙。
自分の声が路地に残響する。
「他の人が何を美しいと思うかなんて、僕には変えられません」
それでも。
「僕が何を綺麗だと思うかは、僕が決めます」
セレスティアの目が見開かれた。
「僕にはセレスティアが一番綺麗に見える。それだけです」
「…………」
「それに僕は、普通に生きたいんじゃない」
母さんの顔が浮かんだ。
何もできなかった自分を思い出す。
「強くなりたい」
外套を握る手に力を込めた。
「もう二度と、大切な人が死ぬのを見ているだけなのは嫌なんです」
「アレン……」
「僕には才能がない。分かってます」
三日間、嫌というほど思い知らされた。
「でも、諦めません」
セレスティアを見る。
「だから――僕を弟子にしてください」
しばらく、何の音もしなかった。
大通りの喧騒だけが遠くから聞こえる。
やがて。
「……お前は」
セレスティアが小さく呟いた。
「本当に、頭がおかしい」
「それ、何回目ですか」
「数えていない」
「じゃあ、弟子にしてくれますか?」
「…………」
「セレスティア?」
「うるさい」
彼女は顔を背けた。
フードから覗いた長い耳が、夕日に照らされている。
赤い。
夕日のせいだろうか。
「……一つだけ条件がある」
「条件?」
セレスティアが僕を見る。
「私が教える以上、中途半端は許さん」
空気が変わった。
森で何度も見た、あの鋭い目。
「泣こうが吐こうが、弱音を吐こうが関係ない。私が一人で魔物を狩れると判断するまで、徹底的に鍛える」
「はい」
「死ぬほど厳しいぞ」
「死なない程度でお願いします」
「善処はする」
「そこは約束してくださいよ」
ほんの少し。
セレスティアの口元が緩んだ。
「……アレン」
「はい」
「今日から、お前は私の弟子だ」
胸の奥が熱くなった。
「はい!」
「声が大きい」
「はい、師匠!」
「もっと大きくなっている!」
思わず笑った。
セレスティア――いや。
師匠も、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
世界中から醜いと蔑まれてきたエルフと、世界で一番弱い少年。
こうして僕たちは、本当の師弟になった。
ただ、このときの僕はまだ知らなかった。
僕が「師匠」と呼び始めたこの人が、この街でどんな存在として知られているのかを。
そして翌日。
僕はハンターギルドで、その答えを知ることになる。
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