才能は無い、諦める才能も
肺が破れそうだった。
喉の奥から血の味がせり上がってくる。泥だらけの足は鉛のように重く、一歩踏み出すたびに膝が笑った。
「遅い。それでは死ぬぞ」
鋭い声と同時に、石が飛んできた。
「っ!」
咄嗟に身体を捻る。
石は肩を掠めたものの、足がもつれて派手に転んだ。口の中にじゃりっと土の味が広がる。
「……ごほっ、げほっ……!」
「そこまでだ。休憩にする」
冷淡な声が降ってきた。
僕は抵抗する気力もなく、そのまま仰向けに倒れた。視界の端で、金糸のような髪が朝日を受けて輝いている。
セレスティアは、まだ僕を正式な弟子とは認めていない。
昨日、ダートラットを倒したあと、彼女が出した条件は一つだけだった。
『ここから一番近い街まで三日。その間に、死なない程度の基礎くらいは叩き込んでやる。……それだけだ』
そうして始まった訓練は、控えめに言って地獄だった。
森を走る。木の枝を剣に見立てて振る。セレスティアが投げてくる石を避ける。
どれもまともにできない。
足はすぐにもつれ、剣の軌道はぶれ、飛んでくる石は十回に九回は避けられなかった。
「……本当に才能がないな、お前」
水筒を差し出しながら、セレスティアが呆れたように言った。
容赦がない。
でも、反論もできない。
「身体能力も低い。剣筋も悪い。何より致命的なのは、攻撃を避けるときの無駄な動きが多すぎることだ。相手を怖がるあまり、必要以上に身体が反応している」
「……はい」
「昨日も言ったが、お前はハンターに向いていない」
「はい」
「……そこで素直に認めるのか」
「だって、本当のことなので」
セレスティアが妙な顔をした。
僕は水筒の水を一気に飲み、口元の泥を拭って立ち上がった。
足が震えている。
昨日噛まれた肩もまだ痛い。
それでも、地面に落とした木の枝を拾う。
「もう一回、お願いします」
「…………」
「セレスティア?」
「お前は、私の話を聞いていたのか?」
「聞いてました」
「才能がないと言ったんだぞ」
「はい」
「ハンターに向いていないとも言った」
「はい」
「なら、なぜ立つ」
答えは簡単だった。
「才能がないからです」
セレスティアが黙った。
「才能がある人より多くやらないと追いつけないでしょう?」
「…………」
「だから、もう一回お願いします」
セレスティアはしばらく僕を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……馬鹿が」
そう言いながらも、彼女は訓練を終わらせなかった。
僕には才能がない。
それは間違いない。
でも、セレスティアは一つだけ知らない。
僕は昨日より、ほんの少しだけ強くなっている。
ダートラットを倒してレベルが上がった。
筋力も敏捷も上がった。
昨日できなかったことが、今日はほんの少しだけできる。
たったそれだけ。
でも僕にとっては、それで十分だった。
努力したから強くなった、なんて綺麗な話じゃない。
魔物を倒した。
経験値を得た。
レベルが上がった。
だから強くなった。
それでいい。
才能がないなら、強くなるまで繰り返せばいい。
「……よし」
セレスティアが立ち上がった。
「基礎ばかりでも仕方がない。次は実戦だ」
「はい!」
彼女が森の奥へ視線を向ける。
カサッ。
茂みが揺れた。
中から現れたのは、丸々としたウサギに似た魔物だった。
ただし、普通のウサギとは決定的に違う。
額から一本の鋭い角が伸びている。
赤い目が、僕を捉えた。
【鑑定】。
【ホーンラビット】
【Lv:2】
見える。
昨日までなら、それだけで少し嬉しかったかもしれない。
自分と同程度か、それ以下の相手しか【鑑定】できない。
つまり、少なくとも今の僕は、この魔物と同じ場所まで来たということだ。
「ホーンラビット。レベル2。魔物としては最弱の部類だ」
セレスティアが告げる。
「だが勘違いするな。角が腹に入れば、お前程度なら簡単に死ぬ」
「……はい」
短剣を抜く。
「昨日みたいな戦い方はするな」
セレスティアの声が低くなる。
「真正面から受けるな。相手を見ろ。そして覚えておけ」
昨日から何度も言われた言葉。
「魔物を殺すことより、自分が生き残ることを考えろ」
「はい」
短剣を構える。
手が震えている。
怖くないわけじゃない。
昨日、肩へ牙が食い込んだ感触をまだ覚えている。
それでも目は逸らさない。
「キュウッ!」
ホーンラビットが地面を蹴った。
速い。
一直線に、角が僕の腹へ迫る。
昨日の僕なら、短剣で受けようとしていた。
あるいは相打ち覚悟で飛び込んでいた。
でも、今日は違う。
――殺すことより、生き残れ。
ギリギリまで見る。
まだ。
まだ。
今だ。
「っ!」
半歩。
それだけだった。
右足を引き、身体をずらす。
鋭い角が服を掠めた。
怖い。
でも――避けた。
「相手を見ろ!」
セレスティアの声。
「はい!」
通り過ぎたホーンラビットが着地する。
すぐに振り返ろうとする。
その瞬間。
首筋が見えた。
僕は踏み込んだ。
「はあっ!」
短剣を振る。
浅い。
刃が首を裂いたが、致命傷には届かない。
「キィィッ!」
ホーンラビットが暴れ、角を振り回す。
「うわっ!」
慌てて後ろへ飛ぶ。
角が鼻先を掠めた。
危なかった。
一撃で決めようとした。
また焦った。
「追うな!」
セレスティアの声が飛ぶ。
足を止める。
ホーンラビットも距離を取った。
首から血を流しながら、こちらを睨んでいる。
落ち着け。
倒すことだけ考えるな。
生き残れ。
もう一度来る。
だったら。
待てばいい。
「キュアアッ!」
再び突進。
今度は、さっきよりよく見えた。
半歩ずれる。
角が通過する。
そして。
「そこだ!」
短剣を突き出した。
刃が首へ深く入る。
「ギィッ――!」
血が噴き出した。
ホーンラビットは勢いのまま数メートル転がり、二度、三度と痙攣して――動かなくなった。
「ハァ……ハァ……」
荒い息を吐きながら、短剣を下ろす。
手は震えている。
怖かった。
でも。
肩を噛まれていない。
血まみれにもなっていない。
僕は自分の身体を見た。
「……倒せた」
昨日とは違う。
力任せじゃない。
教えられたことを使って、自分の力で倒した。
「……二撃か」
背後からセレスティアが歩いてきた。
「一撃目は浅すぎる。あそこで焦って追撃していたら角を食らっていた」
「はい」
「回避もギリギリすぎる。足運びもまだ無駄が多い」
「はい」
「だが」
少しだけ間があった。
「昨日の見苦しい取っ組み合いよりはマシだ」
たぶん、褒められた。
ほんの少しだけ嬉しくなった。
そのときだった。
『ホーンラビットを討伐しました』
『経験値が一定値に達しました』
『レベルが上昇しました』
頭の中に、無機質な声が響く。
来た。
胸が高鳴った。
レベルアップ。
でも、僕が待っているのはその次だ。
『【捕食成長】が発動します』
『討伐対象から能力抽出を開始します』
思わず拳を握った。
ホーンラビットは何を持っている?
あの速さなら、脚力に関係する能力だろうか。
それとも――。
『能力抽出――失敗』
「…………え?」
間の抜けた声が出た。
「どうした」
「え? あ、いや……」
慌てて自分を【鑑定】する。
名前:アレン
Lv:3
職業:なし
筋力:5
魔力:2
敏捷:7
スキル:【鑑定Lv1】【捕食成長Lv1】【夜目Lv1】
称号:【迷い子】
増えていない。
「……失敗するんだ」
思わず呟いた。
昨日はダートラットを倒した直後に【夜目】を手に入れた。
だから僕は、魔物を倒せば必ず何かを獲得できるのだと思い込んでいた。
違った。
【捕食成長】は、必ず能力を奪えるわけじゃない。
正直、がっかりした。
ものすごくがっかりした。
何でも手に入る夢のような能力だと思っていたからだ。
でも。
ステータスを見ていて、気づいた。
Lv3。
筋力5。
敏捷7。
昨日の僕とは違う。
スキルは手に入らなかった。
それでも経験値は手に入った。
レベルも上がった。
僕は確実に強くなっている。
「…………」
不思議だった。
さっきまでの落胆が、急にどうでもよくなった。
一匹倒して駄目だった。
だったら。
「もう一匹倒せばいい」
「……何?」
セレスティアが怪訝そうに僕を見る。
僕は立ち上がった。
「セレスティア」
「何だ」
「街まで、あと何匹くらい魔物がいますか?」
「そんなもの知るか」
「じゃあ、魔物が多い道ってあります?」
セレスティアの眉がぴくりと動いた。
「……あるにはある」
「そっちから行きましょう」
「お前は何を言っているんだ」
「もっと戦いたいです」
「つい昨日、魔物に殺されかけた奴の台詞とは思えんな」
「でも」
短剣を握る。
昨日より少しだけ、重くない。
「一匹倒せば強くなれる。だったら、十匹倒します」
セレスティアが黙る。
「十匹で足りないなら、百匹倒します」
「…………」
「僕には才能がないから」
自分で言って、少し笑った。
「才能がある人より、たくさんやらないと」
セレスティアは何も言わなかった。
ただ、じっと僕を見ている。
やがて大きなため息をついた。
「……本物の馬鹿だな、お前は」
「よく言われます」
「誰にだ」
「今、セレスティアに」
「……口まで回るようになったか」
彼女は呆れたように背を向けた。
「ついてこい」
「え?」
「安全な街道は使わん。獣道を抜ける」
「……! はい!」
「勘違いするな。死にそうになったら即座に街へ連れていく」
「分かりました」
歩き出したセレスティアを追いかける。
その背中を見ながら、僕はまだ知らなかった。
セレスティアが、このとき初めて僕への評価をほんの少しだけ変えていたことを。
――才能はない。
身体能力も低い。
戦いの勘も悪い。
だが。
倒れても立つ。
失敗しても、もう一度やろうとする。
一匹で駄目なら十匹。
十匹で駄目なら百匹。
セレスティアは、この日初めて気づいた。
自分が拾った少年には、確かに才能がない。
――だが、諦める才能も、どうやらないらしい。
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