師匠がおかしい
ルクスの街に借りた宿。その簡素なベッドの上で、セレスティアは朝の光を睨みながら、深いため息をついた。
結局、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、昨日の光景が蘇る。
崩れた岩の向こうから聞こえた、
『生きてます、師匠!』
という、ひどく場違いなほど明るい声。
血に染まった胸当て。
そして――。
「……っ」
セレスティアは枕を引き寄せ、顔を埋めた。
腕に残っている。
無事だと分かった瞬間、自分から駆け寄って抱きしめた、あの身体の感触が。
土埃と血の匂い。
背中へ回した腕。
耳元で聞こえた呼吸。
生きている。
そう確かめた瞬間、胸の奥から力が抜けた。
思い出しただけで、尖った耳が熱を持つ。
「ああ、もう……!」
枕へ顔を押しつける。
長い年月を生きてきた。
数え切れないほど魔物を斬った。
仲間の死も見た。
自分へ向けられる嘲笑や侮蔑にも、とうの昔に慣れた。
それなのに。
出会って数日しか経っていない、ひ弱で無鉄砲な人間の少年一人に、どうしてここまで心を乱されなければならない。
「……弟子だ」
誰もいない部屋で呟く。
「ただの弟子だ」
もう一度。
「保護者として責任を感じただけだ。生きていたから安堵した。それだけのことだ」
完璧な理屈だった。
少なくとも、セレスティア自身はそう思いたかった。
けれど――。
抱きしめた瞬間の、自分の鼓動だけは説明できなかった。
* * *
「今日はここまでだ」
「え?」
街外れの林。
訓練を始めて、まだ十分ほどしか経っていない。
セレスティアの持つ木の枝に木剣を叩き落とされた僕は、地面に転がったそれと師匠の顔を交互に見た。
「もう終わりですか?」
「そう言った」
「まだ十分くらいですよ?」
昨日までなら、足腰が立たなくなるまで走らされ、木剣を握れば何十回と地面を舐めさせられていた。
明らかにおかしい。
「昨日死にかけた人間が何を言っている」
セレスティアは腕を組んだ。
「傷が塞がったからといって、身体への負担まで消えたとは限らん。無理をさせて倒れられれば、私の指導能力まで疑われる」
「誰にです?」
「ギルドだ」
「師匠がそんなの気にします?」
「……うるさい」
やっぱりおかしい。
僕は首を傾げながら、落ちた木剣へ手を伸ばした。
「痛っ」
柄のささくれが、親指の付け根を掠めた。
ほんの小さな擦り傷だ。
血が滲むほどでもない。
なのに。
「見せろ」
「え?」
顔を上げると、もう目の前にセレスティアがいた。
手首を取られる。
「師匠、これくらい――」
「黙っていろ」
青い瞳が、僕の指先を睨んでいる。
その表情があまりに真剣なので、僕まで黙ってしまった。
そのとき。
チリッ。
傷口に微かな熱が走った。
見る間に赤みが引き、擦れた皮膚が元へ戻っていく。
【再生Lv1】。
「ほら」
僕は指を動かしてみせた。
「もう治りましたよ」
「…………」
「便利ですね、これ」
「……そうだな」
なぜか声が低い。
セレスティアは僕の手を離すと、露骨に眉を寄せた。
「忌々しいスキルだ」
「なんで!?」
理不尽だ。
けれど、僕自身にも分かってきたことがある。
傷が消えた直後、身体がわずかに重い。
本当に僅かな擦り傷だったから大したことはない。それでも、腹の底から何かを少し抜き取られたような感覚が残っている。
昨日、胸の傷が塞がった直後には、それどころではなく気づかなかった。
(傷を治すために、僕自身の何かを使ってる……?)
体力なのか。
魔力なのか。
あるいは、その両方なのか。
まだ分からない。
試しに何度も自分を傷つける気にもなれないので、今のところ確かめようもなかった。
ただ、一つだけ分かる。
これは、不死身になれる能力じゃない。
もし傷が深ければ、それだけ大きな負担がかかるかもしれない。そもそも一撃で死んでしまえば、再生する暇さえない。
だったら、戦い方は今までと同じだ。
攻撃を受けない。
死なない。
そのために考える。
「師匠」
「なんだ」
「もう一本だけお願いします」
セレスティアの眉が寄った。
「話を聞いていたのか?」
「身体の動かし方を確かめたいんです。昨日できたことが、偶然だったのかどうか」
「……一本だけだぞ」
「はい!」
セレスティアが木の枝を拾い直す。
空気が変わった。
来る。
一歩。
速い。
僕は反射的に木剣を構え――途中でやめた。
(武器を見るな)
昨日、嫌というほど思い知らされた。
速すぎる攻撃を、目で追ってから避けるのでは遅い。
見るべきなのは、その前。
肩。
腰。
足。
重心。
セレスティアの右肩が動く。
斬撃――。
違う。
フェイントだ。
反応しかけた身体を、無理やり止める。
次の瞬間、木の枝が一直線に僕の喉へ伸びた。
(こっち!)
半歩。
それだけ横へずれた。
木の枝が首筋を掠める。
反撃できる。
一瞬そう思った。
でも、踏み込まない。
骸骨との戦いなら、その欲が死につながった。
僕は距離を取る。
生き残る。
それだけを優先した。
「……ほう」
木の枝が止まった。
「え?」
セレスティアが僕を見ている。
さっきまでとは違う目だった。
「今のフェイント、分かったのか?」
「いえ。分かったっていうか……師匠の肩と足を見てたら、なんとなく」
「…………」
セレスティアが黙る。
僕は急に不安になった。
「駄目でした?」
「いや」
短い返事。
「悪くない」
「本当ですか!?」
思わず声が弾む。
「ただし、今の動きで調子に乗れば明日には死ぬ」
「そこまで言います!?」
「事実だ」
いつもの師匠だ。
そう思って僕は笑った。
だから気づかなかった。
僕を見るセレスティアの瞳が、ほんの少しだけ揺れていたことに。
――強くなっている。
昨日までなら、確実にフェイントへ引っかかっていた。
速さが増しただけではない。
自分より遥かに強い敵を前にして、どうすれば生き残れるか。
それを考える癖が、身体に刻まれ始めている。
このまま成長すれば。
いずれ、自分がいなくても迷宮へ潜れるようになるだろう。
一人で魔物を倒し。
一人で傷を治し。
一人で――。
「……」
木の枝を握る指に、わずかに力が入った。
喜ばしいことだ。
師としては、それを望んでいたはずなのに。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚がある。
「師匠?」
アレンがこちらを見ていた。
「どうかしました?」
「……何でもない」
セレスティアは視線を逸らした。
昨日まで、守らなければ死んでしまいそうだった少年。
その少年が、少しずつ自分の手を必要としなくなっていく。
それを想像しただけで。
胸の奥が、ひどく落ち着かない。
「……今日の訓練は終わりだ」
「えっ、やっぱり終わるんですか?」
「終わりだ。ギルドへ行くぞ」
「師匠?」
セレスティアは答えず、歩き出した。
少し速すぎる足取りで。
* * *
午後のハンターギルドは、昨日の騒動が嘘だったように、いつもの喧騒を取り戻していた。
酒の匂い。
依頼を取り合うハンターたちの声。
カウンターでは職員が忙しそうに書類を捌いている。
僕たちが素材の買い取り窓口へ向かおうとしたときだった。
「あっ、アレンさん!」
「はい?」
受付嬢が小走りで近づいてくる。
僕?
思わず自分を指差した。
「ちょうどよかったです。先ほどからアレンさんを待っている方がいまして」
「僕を?」
昨日登録したばかりのFランクだ。
待たれる覚えなんてない。
「はい。ぜひアレンさんと一緒に依頼を受けたい、と」
「依頼を……?」
誰だろう。
そう尋ねようとした瞬間。
「……誰だ」
隣から声がした。
低い。
僕はセレスティアを見る。
表情はいつもと変わらない。
変わらない、はずなのだが。
なぜか受付嬢が半歩下がった。
「え、ええと……あちらでお待ちの方です」
「誰だと聞いている」
「女性ハンターの方です」
ぴくり。
金色の髪の間から覗く長い耳が動いた。
「……女?」
「はい」
セレスティアの眉が、ほんのわずかに寄る。
僕たちは受付嬢が示した方向へ視線を向けた。
ギルドの奥。
円卓に、一人のハンターが座っている。
こちらの視線に気づいたのだろう。
その人物は椅子から立ち上がると――僕を見て、ぱっと笑った。
そして大きく手を振る。
「アレン! こっち、こっち!」
「……え?」
僕は目を瞬いた。
名前まで知られている。
隣を見る。
セレスティアは無言だった。
ただ。
さっきまで腕を組んでいたはずの彼女の右手が、いつの間にか純白の剣の柄に置かれていた。
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