馬鹿弟子、帰還
立ち込めていた紫色の毒瘴気が、主を失ったことで少しずつ薄れていく。
僕は砕けたショートソードの柄を放り捨て、塞がれた横穴へと歩き出した。
身体が、嘘みたいに軽い。
死闘の最中に重ねたレベルアップ。そして、あの骸骨を倒した直後、《捕食成長》が見せた今までとは違う反応。
獲得したのは――【再生Lv1】。
大剣に裂かれた胸の傷は、もう跡形もない。大量に流したはずの血だけが、破れた服と硬革の胸当てに赤黒くこびりついていた。
僕はその染みを指先でなぞり、ふと足を止める。
『――同……胞……?』
死の間際、僕の血を舐めた骸骨が漏らした言葉。
どうして、あいつは僕を見てそんなことを言った?
『あなたは、人間として生きなさい』
遠い記憶の底から、母さんの声が重なる。
それより前のことを思い出そうとすると、いつものように記憶が白く霞んだ。代わりに脳裏をよぎったのは、時折夢に見る、名前も知らない街の風景。
「……なんなんだよ、僕は」
答える者はいない。
そもそも、あの骸骨自体がおかしかった。
浅い階層の魔物を怯えさせ、地上へ向かって敗走させていた元凶。僕の【鑑定】では何一つ読み取れなかった、正体不明のアンデッド。
なぜ、あんなものが初心者向けの迷宮にいたのか。
考えたところで答えは出なかった。
今は、それより――。
「師匠……」
早く、彼女と合流しないと。
崩落した岩壁に手を触れようとした、そのときだった。
ガッ……ガリッ……!
岩の向こうから音がした。
何かで削っているような、それでいて、ひどく焦ったような音。
「……師匠?」
声をかけた瞬間、音が止まった。
ほんの一拍。
「……アレン?」
岩越しに届いた声に、僕は息を呑んだ。
いつもの、氷みたいに冷たく澄んだ声じゃない。
掠れていた。
震えていた。
「はい! 生きてます、師匠! 今そっちに――」
最後まで言えなかった。
轟音。
目の前を塞いでいた分厚い岩盤が、内側へ弾け飛んだ。
思わず腕で顔を庇う。砕けた石が地面を跳ね、もうもうと粉塵が舞い上がる。
僕が生きていると分かったから、もう崩落を恐れる必要はない。
そう言わんばかりの、Sランクの剣閃だった。
やがて粉塵の向こうに、人影が浮かぶ。
「……アレン」
セレスティアだった。
純白の外套は土埃に汚れ、いつも美しく整えられている金色の髪には細かな石屑が絡みついている。
けれど、僕の目を奪ったのはそこじゃない。
彼女の手だった。
透き通るように白かったはずの両手が、泥に汚れ、指先にはいくつもの擦り傷ができている。
まさか。
剣で崩せば僕まで巻き込むかもしれないから――ずっと、素手で岩を退かしていたのか。
「師匠、その手――」
「アレンっ!」
純白の剣が地面に落ちた。
次の瞬間、身体に衝撃が来る。
「え……」
セレスティアの腕が、僕の背中に回っていた。
強い。
息が詰まりそうなほど強く、僕を抱きしめている。
「無事か……? どこか痛むところは? 怪我は――」
言葉が途中で止まった。
彼女が僕の胸元を見たからだ。
裂けた服。
砕けた胸当て。
そして、べったりとこびりついた血。
セレスティアの指が、微かに震えた。
「……血」
「師匠?」
「こんなに……」
僕の胸当てへ伸ばされた手が、触れる直前で止まる。
「一人で……あれと戦ったのか」
顔を上げたセレスティアの瞳を見て、僕は何も言えなくなった。
怖かったんだ。
この人が。
僕が死んだかもしれないと思って。
「馬鹿者……」
背中に回された腕へ、さらに力が籠もった。
「死ぬところだったんだぞ……」
耳元に落ちた声は、あまりにも小さかった。
花のような淡い香りに、土埃と汗の匂いが混じっている。背中に触れる指先は冷たいのに、押しつけられた身体からは確かな熱が伝わってきた。
こんなセレスティアを、僕は知らない。
いつも他人を遠ざけ、何を言われても興味がないように振る舞っていた人が、今は僕がここにいることを確かめるように抱きしめている。
胸の奥が、妙にくすぐったくなった。
「大丈夫ですよ、師匠」
僕はそっと、彼女の手首に触れた。
「もう、痛いところはありません」
セレスティアが顔を上げる。
「……何?」
僕の胸元をもう一度見る。
血はある。
傷だけが、ない。
彼女の眉が寄った。
「どういうことだ。これだけ出血して、なぜ傷がない」
「新しいスキルを手に入れたんです」
「スキル?」
「はい。奥にいた骸骨を倒したときに、【再生Lv1】を」
セレスティアの表情が変わった。
「……待て」
僕の肩を掴み、身体を離す。
今度の目は、Sランクハンターのそれだった。
「奥にいたのは、どんな魔物だ」
「骸骨の剣士です。でも、【鑑定】しても何も見えませんでした」
「何も?」
「名前も、レベルも、ステータスも。全部です」
「……鑑定不能」
呟いたセレスティアの声から、先ほどまでの動揺が消えていく。
代わりに浮かんだのは、僕の知らない緊張だった。
「それを、お前が一人で倒したのか?」
「はい」
「この傷を負いながら?」
「まあ……死ぬかと思いましたけど」
「馬鹿者!」
いきなり額を小突かれた。
「痛っ」
「痛くないと言ったばかりだろうが!」
「今のは師匠がやったんでしょう!?」
思わず言い返すと、セレスティアの口元がほんの少し緩んだ。
それを見て、僕も笑ってしまう。
「でも、本当に師匠のおかげですよ」
「……私?」
「教えてもらったことを思い出したから、勝てました」
セレスティアが僕を見る。
「ありがとうございました、師匠」
その瞬間。
彼女の視線が、僕からわずかに逸れた。
そして、ようやく気づいたらしい。
自分がさっきまで、僕にしがみつくように抱きついていたことに。
頬に、じわりと赤みが広がっていく。
尖った耳の先まで染まったところで、セレスティアは勢いよく僕から離れた。
「……っ」
無言で外套の埃を払う。
一度。
二度。
必要のないところまで三度払ってから、彼女は地面に落とした剣を拾った。
「……当然だ」
「何がです?」
「私が直々に教えたのだから、それくらいできてもらわなければ困る」
背中を向けたまま、いつもより少しだけ早口で続ける。
「それに、弟子が初日で死んだとなれば私の指導能力が疑われる。私はただ、その……指導者としてだな」
「はい」
「お前個人を特別に心配していたわけではない」
「はい」
「……本当に分かっているのか?」
振り返ったセレスティアと目が合った。
僕は頷く。
「心配してくれて、ありがとうございます。師匠」
「…………」
彼女が固まった。
『帰ってきたら……好きなだけ師匠と呼べ』
岩壁の向こうで交わされていた、僕の知らない約束。
だから僕には、どうしてその一言で彼女がこんな顔をしたのか分からない。
しばらくして、セレスティアはまた僕に背を向けた。
「……馬鹿弟子」
小さな声だった。
「無茶をしおって」
そして、ほんの少し間を置く。
「……生き残ったことだけは、褒めてやる」
その横顔は見えない。
けれど、金色の髪から覗く耳だけは、まだ赤かった。
僕の背中にも、さっきまでそこにあった腕の感触が残っている。
なぜだろう。
傷は全部治ったはずなのに、胸の奥だけが妙に熱かった。
「……あ」
「なんだ」
「ショートソード、壊れました」
「見れば分かる」
「また借金、増えますよね?」
セレスティアが黙った。
やがて深く、深く息を吐く。
「……お前は本当に、そういうところだけは期待を裏切らんな」
呆れた声。
ようやく、いつものセレスティアが少しだけ戻ってきた。
僕たちは並んで出口へ向かう。
けれど数歩進んだところで、セレスティアが立ち止まった。
「アレン」
「はい?」
「さっきの話だ」
振り返った彼女の表情から、照れは消えていた。
「鑑定できなかった骸骨について、地上に戻ったら最初から全部話せ」
「……分かりました」
「一つも省くな」
その声に何かを感じて、僕も頷いた。
ただ――。
ひとつだけ、まだ言っていないことがある。
あの骸骨が僕の血を舐めたこと。
そして。
『――同……胞……?』
そう、僕を呼んだことを。
なぜかそれだけは、まだ口にしてはいけない気がした。
理由なんて分からない。
ただ、胸の奥に残った微かな熱とは別の場所で、冷たい何かが静かに蠢いていた。
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