第2話:沈黙の庭師と、剥がれゆく仮面
広間の重厚な扉が開かれた。
庭園の暗闇に、雨粒が銀色の線となって降り注いでいる。蓮が手にした燭台が、暗闇を切り裂くように揺れた。
「……誰も、いないわ」
私は自分の声が、異常なほど上ずっていることに気づいた。
足元の芝生には、泥濘の中に新しい足跡が一つだけ刻まれている。しかし、周囲には風に揺れる百合の花があるだけだ。
「そうか。どうやら、君の『招待客』はもう少しだけ、遊びを続けたいらしい」
蓮の声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。彼は私の肩を、痛いほど強く抱き寄せた。
「怯えることはない。君が誰であれ、この屋敷の中で僕が守ってやる……君という名の、壊れた箱をね」
その言葉の裏に隠された「地獄の宣告」に、背筋が凍る。蓮は私を愛しているのではない。彼にとって、私は「沙羅」という幻想を維持するための、ただの消耗品なのだ。
翌朝、私はいつものように庭園で沙羅の私物を整理する「ふり」をしていた。
そこへ、屋敷の古株である庭師・老人、権蔵が近づいてくる。彼は長年、神宮寺家に仕えてきた寡黙な男だ。
「……お嬢様。その花壇は、沙羅様がお好きだった『カサブランカ』を植えておられますが」
権蔵の濁った瞳が、私を射抜く。
「本物の沙羅様は、カサブランカの強い香りに頭痛を起こすとおっしゃって、庭の奥へ植え替えさせておりましたよ」
私は心臓を掴まれるような衝撃を受けた。
(そんなこと、聞いていない……!)
「あ、あら。そうだったかしら? ……最近、記憶が少し曖昧で」
私は必死に微笑みを貼り付けた。
権蔵は何も言わず、剪定鋏を握りしめた。その手は、かつて崖の上で私を見た——そんな恐怖が脳裏をよぎる。
「……お大事になさってください。亡霊は、過去の綻びから入り込みますからな」
彼はそれだけ言い残し、立ち去った。
その背中を見送りながら、私は自分の部屋へ逃げ込んだ。鏡に向かって、何度も自分の顔を叩く。
完璧でなければならない。沙羅になりきるために、私の魂は摩耗していく。
その時、部屋のクローゼットの奥から、微かな「音」がした。
私は恐る恐る扉を開けた。中には、私が隠していたはずの、沙羅の——本物の沙羅が愛用していた古い銀のロケットが転がっている。
しかし、私がそこに隠した時は、確かに閉じていたはずのロケットが、今は無惨にも引きちぎられ、中に入っていたはずの写真が、赤いインクのようなもので黒く塗り潰されていた。
写真の端に、走り書きがある。
『見ていたわよ。あの夜、あなたが誰と“取引”していたのかもね』
背後でドアが閉まる音。
振り返ると、そこには誰もいない。しかし、部屋中にあの「夜の海」の匂いが充満している。
「誰……? 誰なのよ!」
私は絶叫した。
窓の外では、刑事・神宮寺響が、屋敷を見上げるように立っていた。彼は私の狂乱を、どこか冷めた目で見つめている。
私の人生は、もう誰にも止められない速度で、崩壊へと向かっている。
そして、屋敷の地下。
誰にも知られていない隠し部屋で、一人の少女が目覚める。
彼女は、自分の首に残る「焼印」を指でなぞり、ゆっくりと唇を歪ませた。
「……準備はいい? 偽物のレプリカさん」
影の中の声が、私の耳元で囁いたような気がした。




