表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/6

第1話:招待状は死者の香り


「ねえ、莉子。本当に死んだと思っていたの?」

鏡の中の私が、私ではない誰かのように笑った。

神宮寺邸の鏡台の前で、私はファンデーションを塗り重ねる。白く、濁りのない陶器のような肌。私が「神宮寺沙羅」として生き始めて、今日でちょうど三度目の春が来る。

窓の外では、あの夜、私の手で崖から突き落としたはずの沙羅が、庭園の影で静かに佇んでいる——そんな錯覚に、毎晩のように見舞われる。

「お嬢様、蓮様がお待ちです」

ドア越しに響いた使用人・かなえの声には、いつも感情がない。まるで、人形の世話をする機械のように冷徹だ。彼女は沙羅の死を疑っている。それどころか、屋敷の人間すべてが、私という「侵入者」の影を嗅ぎつけているような気がする。

「すぐに行くわ」

私は作り笑いを浮かべて立ち上がる。蓮は私の正体を知っている。彼だけが知っている。彼だけが、私のこの腐りかけた魂を、沙羅の香水の匂いで隠し、沙羅の愛したドレスで包んでくれている。

蓮は、私の破滅を望んでいるのか。それとも、この壊れた玩具を最後まで遊ぶつもりなのか。

屋敷の広間へ降りると、蓮は冷え切った紅茶の前に座っていた。

彼が私を愛おしげに見つめることはない。ただ、値踏みするように、獲物の動向を探るような眼差しを向けるだけ。

「沙羅、今日はいい天気だ。……庭に、白い百合が咲いたよ」

彼は、沙羅が好きだった百合の花の話をする。それは、私が「沙羅」として振る舞う上で避けて通れない、踏み絵のような会話だ。

「ええ、とても綺麗ね。沙羅も……私も、百合は大好きよ」

私は慎重に言葉を選ぶ。

蓮は、私の言葉の端々に、「偽物」の綻びを探している。

「そうだな。……ところで、今朝、ポストに一通の手紙が届いていた」

蓮の指先が、テーブルの上に置かれた一通の封筒を叩く。

それは、真っ白な封筒。そして、そこから漂う香りは、かつて沙羅が崖から落ちる瞬間に纏っていた、あの特別な香水の匂いだった。

心臓が跳ね上がる。私は震えを抑えるために、指を硬く組んだ。

「開封するのか?」

蓮が問いかける。彼の瞳には、狂気と期待が混ざり合っている。

私はゆっくりと手を伸ばした。封を切ると、中からは一枚の古い写真と、走り書きのメモが入っていた。

写真には、崖の淵で私に突き飛ばされる直前の、沙羅の笑顔が収められていた。

そしてメモには、こう書かれている。

『私の名前を返す準備はできた? 泥棒猫さん。』

窓の外で、雷鳴が轟いた。

死んだはずの彼女からの招待状。偽りの聖女の城が、今、静かに音を立てて崩れようとしている。

「……蓮、これは何かの悪戯よ」

私は強引に微笑んだ。その瞬間、窓ガラスが何かに叩かれるような乾いた音を立てた。

外を見ても誰もいない。しかし、そこに確かに「何か」がいる気配がした。

「さあ、沙羅。扉を開けに行こうか。君の過去が、迎えに来たようだ」

蓮は立ち上がり、私を置いて広間の大扉へと歩き出す。

私は、足元が崩れ落ちるような恐怖を感じながら、その後を追った。

扉を開けたその先には、雨に濡れた庭園に立つ、見知らぬ少女の影があった。

あの夜、崖から消えたはずの——本物の私が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ