第1話:招待状は死者の香り
「ねえ、莉子。本当に死んだと思っていたの?」
鏡の中の私が、私ではない誰かのように笑った。
神宮寺邸の鏡台の前で、私はファンデーションを塗り重ねる。白く、濁りのない陶器のような肌。私が「神宮寺沙羅」として生き始めて、今日でちょうど三度目の春が来る。
窓の外では、あの夜、私の手で崖から突き落としたはずの沙羅が、庭園の影で静かに佇んでいる——そんな錯覚に、毎晩のように見舞われる。
「お嬢様、蓮様がお待ちです」
ドア越しに響いた使用人・叶の声には、いつも感情がない。まるで、人形の世話をする機械のように冷徹だ。彼女は沙羅の死を疑っている。それどころか、屋敷の人間すべてが、私という「侵入者」の影を嗅ぎつけているような気がする。
「すぐに行くわ」
私は作り笑いを浮かべて立ち上がる。蓮は私の正体を知っている。彼だけが知っている。彼だけが、私のこの腐りかけた魂を、沙羅の香水の匂いで隠し、沙羅の愛したドレスで包んでくれている。
蓮は、私の破滅を望んでいるのか。それとも、この壊れた玩具を最後まで遊ぶつもりなのか。
屋敷の広間へ降りると、蓮は冷え切った紅茶の前に座っていた。
彼が私を愛おしげに見つめることはない。ただ、値踏みするように、獲物の動向を探るような眼差しを向けるだけ。
「沙羅、今日はいい天気だ。……庭に、白い百合が咲いたよ」
彼は、沙羅が好きだった百合の花の話をする。それは、私が「沙羅」として振る舞う上で避けて通れない、踏み絵のような会話だ。
「ええ、とても綺麗ね。沙羅も……私も、百合は大好きよ」
私は慎重に言葉を選ぶ。
蓮は、私の言葉の端々に、「偽物」の綻びを探している。
「そうだな。……ところで、今朝、ポストに一通の手紙が届いていた」
蓮の指先が、テーブルの上に置かれた一通の封筒を叩く。
それは、真っ白な封筒。そして、そこから漂う香りは、かつて沙羅が崖から落ちる瞬間に纏っていた、あの特別な香水の匂いだった。
心臓が跳ね上がる。私は震えを抑えるために、指を硬く組んだ。
「開封するのか?」
蓮が問いかける。彼の瞳には、狂気と期待が混ざり合っている。
私はゆっくりと手を伸ばした。封を切ると、中からは一枚の古い写真と、走り書きのメモが入っていた。
写真には、崖の淵で私に突き飛ばされる直前の、沙羅の笑顔が収められていた。
そしてメモには、こう書かれている。
『私の名前を返す準備はできた? 泥棒猫さん。』
窓の外で、雷鳴が轟いた。
死んだはずの彼女からの招待状。偽りの聖女の城が、今、静かに音を立てて崩れようとしている。
「……蓮、これは何かの悪戯よ」
私は強引に微笑んだ。その瞬間、窓ガラスが何かに叩かれるような乾いた音を立てた。
外を見ても誰もいない。しかし、そこに確かに「何か」がいる気配がした。
「さあ、沙羅。扉を開けに行こうか。君の過去が、迎えに来たようだ」
蓮は立ち上がり、私を置いて広間の大扉へと歩き出す。
私は、足元が崩れ落ちるような恐怖を感じながら、その後を追った。
扉を開けたその先には、雨に濡れた庭園に立つ、見知らぬ少女の影があった。
あの夜、崖から消えたはずの——本物の私が。




