105.理性の限界
今夜はアーノルドの歓迎会も兼ねて少し豪華な夕食を用意してもらった。その後、談話室に移動してカフェタイムをとっている。
「ところでお義母様はどこに?」
当然の疑問だ。前回訪れた時の屋敷の主人はシルヴィアの母であった。普通であればまだ引き継ぎを行なっている頃だ。
「私がここに到着した瞬間に王都の父の元に帰って行きました。無理やり引き留めて、屋敷の使用人たちの紹介だけしてもらいましたけどね。」
この屋敷は旅の途中で1日立ち寄っただけであり、ほぼ初めましての使用人ばかりだ。誰に何を聞けばいいかすらわからない。母、さすがの鬼畜ぶりである。
「それで大丈夫なの?いろいろと……。」
「母曰く、『3年間でアトリエをあそこまでに成長させたのだから大丈夫!』とのことでした。それに公爵家にいた頃のレッスンの中に領地経営のことも組み込まれていたそうです。」
「ヴィアはその内容ちゃんと覚えているの?」
「……いえ、全く。でもレッスンが始まった時から成績は良かったみたいなのでまあ何とかなるでしょう。」
呑気なシルヴィアに対してアーノルドは珍しく不安そうな表情を浮かべている。白魔術師としてのシルヴィアには絶大の信頼を置いているアーノルドであるが、領地経営に関してはその実力は未知数である。
「実はまだこの領地のことを学んでいる段階なので、領地経営の事までは考えれてないんです。資料にも目を通してみたのですが、実際に歩いてみないとわからないことも多いので。領内をあちこち回ってみたり、昼間畑仕事をしていたのもこの領地の気候でどのような作物が育つのか試してみようかと思いまして。」
シルヴィアはにこりと微笑みながら答える。
「とにかく浄化の旅の報奨金で資金は潤沢にありますし、今まで放置していた分きちんと整備していきましょう。」
シルヴィアはやる気まんまんである。
「アトリエの方にはその資金回さなくていいの?」
「はい。アトリエ単独でもかなりの利益を出しているので、それを好きに使ってもらってます。あっちはビアンカに任せておけば大丈夫でしょう。」
シルヴィアは遠い目をして答える。浄化の旅でシルヴィア不在の間にさらなる大成長を遂げていたアトリエに対し、少し複雑な気持ちを抱いているのだ。三人でわいわい楽しくアトリエを経営していた頃を懐かしく思う。
「まあ……私はヴィアと一緒にいられれば何でもいいんだけど。」
今まで真剣な表情で質問を続けていたアーノルドだが、急に甘い笑顔を浮かべて談話室の雰囲気をガラリと変える。向かい合わせで座っていた二人だが、アーノルドがシルヴィアの隣に移動してぴたりと隣に寄り沿う。
「へ?」
気がつけば談話室内に控えていた使用人たちが1人もいなくなっている。先ほどアーノルドが会話中に不自然に手を上げた事を思い出す。あれは使用人を下げる合図だったのかとシルヴィアは今更気がついた。さすが公爵家令息……使用人の扱いが上手すぎる。
「1日1回の約束、だよね?」
じりじりと後ろに下がるシルヴィアに、アーノルドもさらにぐいぐいと距離を縮めてくる。そして極上の微笑みを浮かべている。
「お、覚えてたんですね?」
「もちろん。」
アーノルドは首をこてりと傾ける。暗に、シルヴィアは覚えていないのか?と問われている。
「目を閉じてもらえますか?」
アーノルドは少しだけ目を見開き、その後すぐに瞼を閉じた。
「ふふっ、いいよ。」
シルヴィアは肩で大きく息をして自分も目を瞑り、えいっと勢いよくアーノルドに飛び込んだ。上手く唇を合わせる事ができた。よし任務完了!と唇を離そうとしたところ、がしりと後頭部を掴まれて離れられなくなってしまう。
「んっ……。」
思わず息が漏れた口元にさらに深い口付けが落とされる。シルヴィアは前世では普通に大人であった。口付けの一つや二つ、三つや四つはした事がある。それでもこれは訳が違う。推しと同じ顔で推しと同じ声で、暴力的ともいえる色気にあてられて、本当にもう腰が砕けそうだ。もうこれ以上はムリーーーーーー!と突き飛ばす勢いでアーノルドを押し返した。しかし二人の間にできた距離はシルヴィアの腕一本分だけだ。
「長過ぎるし、深すぎます!」
シルヴィアは真っ赤な顔でアーノルドを睨め付ける。
「あはは、ごめんね。久しぶりだから止められなくて。」
アーノルドは片手を口元に当てて笑っている。
「ーーーーーっ。おやすみなさい!!」
何かまだ言い返そうとしたが、一刻も早く距離を取りたくてシルヴィアは談話室から出て行ってしまった。
「ふぅ、危なかった……。」
手をどかしたアーノルドの顔は赤く染まっている。
「ヴィアのペースに合わせてあげたかったけど、そろそろ俺の理性が限界かもしれないな。」
アーノルドは大きく息を吐きながらソファの背に倒れ込み、両手で顔を覆ったのだった。




