第9話 出立の朝
出立の朝、王宮の石はいつもより冷たかった。
まだ夜の色を残した空の下、中庭には馬が並んでいた。
吐く息は白く、革具の金具が小さく鳴る。
荷は最小限に絞られ、箱には王家の紋章を大きく入れないよう布がかけられていた。
アステルは旅衣をまとっていた。
深い灰色の外套。厚い革靴。
手袋をきっちりとはめ、腰には短剣を帯びている。
髪も飾りを減らし、風で乱れにくいよう後ろでまとめている。
鏡の前に立った時、いつもの女王候補とは少し違って見えた。
王冠へ向かう者ではなく、道へ出る者。
「お寒くはありませんか」
ミレイが外套の襟を直す。
「少し」
「少しなら大丈夫です。
寒すぎる時は、言ってください」
「あなたも来るのよ」
「ええ。ですから、我慢なさると怒ります」
アステルは笑った。
部屋を出る前、机の上に置かれた白い絹の手袋を見た。
リディアからの贈り物。
荷の底に入れるつもりだったが、最後に迷った。
リディアなら。
おとなしく王宮に残り、調査を待ったのだろうと思われた。
結局、持っていくことにした。
王宮の手。泥を知らない手。
その象徴を置いていくには、まだ早い気がした。
中庭には、見送りの者たちが集まっていた。
マグナス、オルフェ、ユーリス卿。
リディア、貴族たち。
政務官、王宮侍女、騎士。
ガラードはすでに馬上にいた。
鎧ではなく旅装だが、背筋はいつも通りまっすぐだった。
「遅れましたか」
アステルが尋ねると、彼は首を振った。
「出立には間に合っています」
「褒めていないわね」
「殿下、旅先では時間通りが最大の褒め言葉です」
マグナスが近づいてきた。
「アステル」
「はい」
「見てこい」
短い言葉だった。
けれどその中に、昨夜の会話がすべて入っていた。
民を物語にするな。
倒れるな。王宮の外を見てこい。
「行ってまいります」
オルフェは星盤の紐を確認した。
「夜、迷った時だけでなく、迷っていないと思う時にも見なさい」
「それは、いつも見ろという意味では」
「そうとも言います」
ユーリス卿は帳簿の束を記録官に渡しながら、アステルに言った。
「数字だけを信じすぎず、感動だけにも寄りかからず」
「難しい注文ですね」
「女王候補ですから」
リディアは最後に進み出た。
「アステル殿下。どうかご無事で」
「ありがとう」
「星の導きが、あなたを正しい場所へ連れていきますように」
主だった者達の挨拶が終わると、神殿長オルフェの声が中庭に響いた。
周囲の貴族達にも唱和を促した。
「星は道を示す。歩み、違えぬよう」
「星は道を示す。歩み、違えぬよう」
(正しい場所……)
王宮に残る者にとって、それは戻ってくる場所を意味しているのかもしれない。
アステルはそう思った。
馬に乗る時、少し手間取った。
王宮の訓練場では乗馬も学んでいたが、旅装と荷をつけた馬は勝手が違う。
ガラードが手を貸そうとしたが、アステルは少しむっとして首を振った。
「自分でやるわ」
革靴が鐙を探し、外套が少し引っかかる。
それでも何とか馬上に収まると、ガラードが小さく頷いた。
「まずまずですな」
「それは褒め言葉?」
「旅の初日としては」
城門へ向かう道が開かれた。
王宮の石畳を、馬の蹄が鳴らす。
いつも歩いていた回廊とは違う音だった。
高く、乾いて、外へ向かう音。
城門の前で、アステルは一度だけ振り返った。
白灰色の王宮が、朝の光を受けて立っている。
尖塔の上には、まだ薄い星がひとつ残っていた。
百代の女王の名を抱えた石の城。
彼女を育て、守り、閉じこめてきた場所。
嫌いではない。
けれど、そこだけでは足りない。
門が開く。
重い木と鉄の音が、朝の空気を震わせた。
王都の街が見えた。
パン屋の煙。市場へ向かう荷車。
水を運ぶ子ども。石畳の隙間に残る夜の湿り気。
王宮から見下ろすだけでは分からなかった匂いが、次々と流れ込んでくる。
焼けた粉、馬糞、濡れた藁、朝の魚、煮込みの湯気。
アステルは少し目を見開いた。
「王宮の外は、こんな匂いがするのね」
「一部です」
ガラードが言った。
「すぐにもっと騒がしくなります」
街の人々は、使節団に気づくと道を開けた。
大きな紋章は隠していても、護衛の姿でただの旅人でないことは分かる。
一行に頭を下げる者、見上げる者、何かを囁く者。
アステルは、その顔を一つずつ見ようとした。
だが多すぎた。
民、と一語で呼んできた人々には、顔があり、匂いがあり、朝の用事があった。
忙しく働いている民の表情を一つ一つ追えるものではなかった。
東門に着く頃には、空はすっかり明るくなっていた。
門の外には街道が続いている。
王宮の地図で何度も見た線。けれど実際の道は、線ではなかった。
轍があり、泥があり、草があり、石があり、風があった。
アステルはぎゅっと、手綱を握り直した。
「行きましょう」
馬が一歩、王都の外へ出た。
その瞬間、アステルは自分の進路が、紙の上ではなく足元にあるのだと初めて知った。




