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星の進路  作者: 春凪とおる
第1章 星が示したのは麦畑だった

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第10話 王都を離れて

王都の城壁は、離れるほど大きく見えた。

近くにいる時は、ただの壁だった。


守られていることが当たり前すぎて、その高さを意識したこともない。

けれど街道を進み、何度か振り返るたび、白灰色の壁は地平の上で巨大な背中のようにそびえていた。


あの中に、自分はいた。

あの中だけを、国だと思いかけていた。


午前の道は、思ったより寒かった。

風は正面から吹き、外套の隙間を探して入り込んでくる。

馬上の姿勢は訓練で慣れているはずなのに、旅の馬は止まらない。

石畳が土道に変わると、揺れ方も変わった。


最初に疲れたのは、太腿だった。

次に腰。それから、手綱を握る指。

ガラードは横目で見ただけで言った。


「力を入れすぎです」

「入れていません」


「入ってますな」

「なぜ分かるのよ」

「馬が迷惑そうです」


アステルは馬の首を見た。

確かに、耳が少し不満げに動いている気がする。


「ごめんなさい」


素直に馬にそう言うと、背後で騎士の一人が咳払いをした。

笑いをこらえたのかもしれない。


街道沿いには、王都近郊の畑が広がっていた。

冬の畑は低く、土の色が濃い。


ところどころに麦の若葉があり、霜の名残が白く光っている。

農夫たちが遠くで鍬を持ち、こちらを見ると手を止めた。


アステルは会釈を返した。

農夫たちは戸惑ったように頭を下げた。


「殿下」

ミレイが小声で言う。


「あまり一人一人にお返しになると、道が進みません」

「でも、見ていたから」

「見ますよ。珍しい一行ですから」


王宮では、アステルが見る側だった。


帳簿を見て、地図を見て、報告を見て、民を見る。

そのつもりでいた。

だが外へ出ると、自分もまた見られる者だった。


昼前、小さな宿場で休憩を取った。

宿場は王都の出先のようでいて、まるで違った。


馬の匂い、濡れた藁。

煮込みの湯気、旅人の汗、鍋底の焦げ。

広場には荷車が並び、商人が車輪を点検し、子どもが井戸の水を汲んでいる。


アステルのために、宿の奥の部屋が用意されかけた。

だがガラードが止めた。


「短い休憩です。広間でよい」


宿の広間には、粗い木の卓が並んでいた。

アステルはそこに腰を下ろした。


椅子は王宮のものより硬く、少し傾いていた。

出されたのは、豆の煮込みと黒っぽいパン、薄い麦酒。


ミレイが心配そうに見た。


「お口に合わなければ」

「食べられるわ」


パンは固かった。

指で割ると、ぽろぽろと粉が落ちる。


噛むと酸味があり、王宮の白パンのようにすぐ溶けない。

豆の煮込みは塩気が強く、器は少し欠けていた。


けれど、ほんのりと温かかった。

胃に落ちると、身体の冷えが少しほどけた。


「おいしい」

アステルが言うと、宿の女主人が驚いた顔をした。


「殿下のお口に、こんなものが」

「こんなものではないわ。温かい食事よ」


女主人は困ったように笑い、深く頭を下げた。

その時、広間の隅で旅人たちが話しているのが聞こえた。


「東の橋はまだ直らんらしい」

「またか。水路も詰まってるって聞いたぞ」


「王都に申請したってさ」

「申請で水が流れりゃ苦労しねえよ」


笑い声が起こった。乾いた笑いだった。

アステルは手を止めた。


”申請で水が流れりゃ苦労しない”

王宮では、申請は手続きだった。


紙に書かれ、印を押され、審査され、承認されるもの。

だがここでは、紙の遅れが水の遅れになる。


「殿下」

ユーリス卿が低く言った。


「聞こえていました」

「ええ」


「今すぐ何かを約束してはなりません」

「分かっています」


分かっている。

けれど、指先が落ち着かなかった。


午後の道は、さらに土が深くなった。

ところどころ轍に水が溜まり、馬が足を取られる。


アステルの靴にも泥が跳ねた。

最初の一滴は小さかった。次の泥は外套の裾についた。

ミレイが拭こうとしたが、アステルは止めた。


「いいの」

「しかし」


「どうせまたつくでしょう」

ガラードが前方で小さく頷いた気がした。


夕方、最初の宿営地に着いた。宿場ではなく、街道沿いの巡回小屋だった。

王家の使節が使えるよう整えられているとはいえ、王宮とは比べものにならない。


石の床は冷たく、寝台は狭く、窓から風が鳴った。

アステルは外套を脱ぐと、肩の重さに初めて気づいた。


「疲れましたか」

ミレイが尋ねる。


「少し」


嘘だった。かなり疲れていた。

足は重く、腰は痛く、髪には街道の埃がついている。


きっちりとはめていた手袋を外すと、指の付け根が赤くなっていた。

白い絹の手袋なら、とても一日持たなかっただろう。

移動がこんなにも疲れるとは、アステルは思ってもみなかった。


夜、外へ出ると、空が広かった。

王宮の窓から見る空でも、星見の塔から見る空でもない。

屋根や尖塔に切り取られていない、ただ広い空。

星は冷たく、無数にあった。


アステルは旅の星盤を取り出した。

銀の点が星空を受けて淡く光る。


針は東を指していた。

その先に、麦畑がある。

水路番の子、カイがいるかもしれない。


王都から一日離れただけで、アステルは自分の身体がいかに知らなかったかを知った。

寒さも、揺れも、固いパンも、泥の跳ね方も、申請を笑う声も。


知らないものを、どう愛せばいいのか。

その問いはまだ消えない。


けれど今日、知らないものは少しだけ、匂いを持った。


アステルは東の空を見た。

星の進路は、まだ遠い。


だがもう、王宮の中には戻れないところまで来ていた。


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