第8話 星図の端
出立前の最後の仕事は、星図の端を見ることだった。
ユーリス卿に連れられて、アステルは王宮書庫の最奥へ入った。
普段使う閲覧室ではない。
鍵を三つ開け、湿気を避けるための厚い扉を抜けた先に、古地図の保管庫がある。
中は乾いた革と古紙の匂いがした。
窓はなく、壁に吊られた小さな灯だけが棚を照らしている。
巻物は地域ごとに分けられ、紐には色褪せた札がついていた。
「ここに、東方辺境の古い星図があります」
ユーリス卿は梯子に上り、上段から細長い筒を下ろした。
「現行の地図とは違うのですか」
「地形は大きく変わりません。
変わるのは、人が何を重要だと思ったかです」
卓に広げられた古星図は、今の地図より粗かった。
王都は大きく描かれ、主要街道と砦は太い線で示されている。
だが東方辺境に近づくほど、線は細く、文字は少なくなった。
地図の端に、麦の模様が描かれていた。
「ここ」
アステルは指で示した。
「星読みの儀で見た畑は、このあたりかもしれません」
「おそらく」
ユーリス卿は別の薄い紙を重ねた。
現行の行政地図だった。
古い麦の模様の上に、今の村名と水路が重なる。
「星図の端ですね」
「王都から見れば」
「星から見れば?」
ユーリス卿は少し笑った。
「星図に端はありません」
その言葉は、オルフェのものに似ていた。
けれどユーリス卿の声には、紙と墨の現実が混じっている。
「殿下。王宮の地図は、王宮に都合よく作られます。 中心は必ず王都です。
道は王都へ向かう線として描かれ、税は王都へ集まる流れとして記されます」
「間違いなのですか」
「間違いではありません。
王宮が国を治めるには必要な見方です。
ただ、それだけでは足りません」
ユーリス卿は古星図の端を押さえた。
「村から見た地図では、中心は水場です。
水路、井戸、橋、粉挽き場、共同の麦倉。
王都は、税を持っていく遠い場所かもしれません」
アステルは、王宮の星図を思い出した。
百の銀冠。中央に立つ女王候補。
すべてが王座へ向かっているように見える図。
だが村の地図では、水門が中心になる。
「カイは、水路番の子でした」
「記録上は」
「水路番とは、何をするのですか」
「水を分けます」
「分ける?」
「どの畑に、いつ、どれだけ水を流すか。
雨が多ければ水を止め、少なければ流す順を決めます。
水門を直し、泥をさらい、争いを止める。
小さな役ですが、村では重要です」
「小さくありません」
アステルはすぐに言った。
ユーリス卿が彼女を見た。
「そう思われますか」
「水が止まれば、麦が枯れるのでしょう」
「ええ」
「なら、小さくありません」
そう答えながら、アステルは自分がまた知識だけで話していることに気づいた。
水が止まる、麦が枯れる。
理屈は分かる。
だが、どれほどの速さで葉が萎れるのか。
誰が最初に気づくのか、どんな匂いがするのかは知らない。
アステルは、麦の育ちがそのまま村人の生死に直結することを今更ながら怖いと感じた。
東の村と麦に思いを馳せながら保管庫を出る時、ユーリス卿がもう一枚の紙を渡した。
「これは?」
「百代目、つまり先代女王の星読み記録の写しです」
「母上の?」
アステルの声が少し低くなった。
先代女王。母。
王宮ではその二つの名は、いつも別々に扱われていた。
アステルにとって、母としての記憶は少ない。
女王としての記録は多い。
母ではなく、女王として残る。
それが王家の記録だった。
「なぜ今、これを」
「百代目の星読みには、不自然な空白があります」
アステルは黙って写しを受け取り、そっと紙を開いた。
儀式の日、星石の反応、方角、かたわれの名。
整った文字が並ぶ。
だが、星の軌道を記す欄だけが短い。
「これだけ? 確かに少ない……」
「ええ。通常はもっと詳しく書かれます。
どの星がどこを通ったか、何を照らしたか。
ですが先代女王の記録には、王宮内とだけしかないのです」
「母上のかたわれは、マグナス叔父上でしたよね?」
「公式には」
アステルは、はっとして、紙から目を離した。
「ユーリス卿、それは」
「私は、疑いを持てと言っているのではありません。
ただ、記録には書かれなかったものがあるかもしれないと、覚えておいてください」
保管庫の外の空気は、少し湿っていた。
回廊の向こうから、旅支度の音が聞こえてくる。
馬具の金具、箱を運ぶ足音。
ミレイの指示も飛んでいる。
忙しそうだとアステルは思った。
アステルは、母の記録を胸に抱えた。
星図の端。
記録の空白。
水路番の子カイ。
ひとつひとつは小さな点だった。
けれど点が増えるほど、王宮の整った床の下に、別の線が隠れている気がした。
夜、寝台に入る前に、アステルは母の記録をもう一度読んだ。
王宮内。
かたわれ、マグナス。
星石、正常。
星儀、成就。
確かに、整いすぎている。
ふと窓の外を見ると、星が出ていた。
あの光は、百代目の夜にも同じようにあったはずだ。
母は何を見たのだろう。何を見なかったことにしたのだろう。
アステルは紙を閉じた。
明日、王都を出る。
星図の端へ。
あるいは、王宮の地図が端と呼んでいる場所へ。




