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星の進路  作者: 春凪とおる
第1章 星が示したのは麦畑だった

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第7話 忠告

出立前日、アステルは神殿に呼ばれた。

王宮の北端にある星の神殿は、昼でも夜の気配を残している。


黒石の柱、銀の天盤、冷たい香の匂い。

床には星座の軌道が薄く刻まれ、歩くたびに靴音が水の底のように響いた。

オルフェは、祭壇の前で待っていた。


「旅立つ前に、渡すものがあります」


神殿長が差し出したのは、小さな星盤だった。

掌に収まるほどの黒い円盤で、銀の点が刻まれている。

中央には針のように細い石がはめ込まれ、光の角度で青く見えたり、白く見えたりした。


「これは?」

「旅の星盤です。王都の大星図ほど詳しくはありませんが、夜空と方角を照らすことができます」


「私に読めるでしょうか」

「読むのではありません。迷った時、見なさい」


アステルは星盤を受け取った。

黒石は思ったより温かかった。


「神殿長は、私が行くことに賛成なのですか」

「賛成、反対という言葉で星を測ることはできません」

「人としては?」


オルフェは少し沈黙した。

「人としては、心配しています」


意外な答えだった。


「あなたも心配するのですね」

「神官も人です」


「時々、星に近すぎて忘れます」

「それはよくありませんね」


オルフェは祭壇の天盤を見上げた。


「アステル殿下。

 王宮の者は、星の結果を恐れています。

 けれど神殿にも、恐れている者がいます」

「神殿にも?」


「星読みの儀は、百代続いた王権の正統性を支える柱です。

 星が王宮の外、しかも名もない村を示したということは、神殿の読みの権威にも問いを投げます」


「星が神殿を困らせているのですか」

「星は困らせるために光るわけではありません。

 ただ、人が星を都合よく使いすぎた時、

 困ることが起きる」


アステルはその言葉を胸に置いた。


「星読みは、いつから今の形になったのですか」

「初代から、と記録にはあります」

「記録には?」


オルフェの視線が、ほんのわずかに揺れた。


「古い記録ほど、書いた者の願いが混じります。

 事実と祈りは、ときに同じ墨で書かれる」

「神殿長」

「今は、そこまでです」


拒まれた。けれど完全に閉じた言い方ではなかった。

アステルは星盤を握りしめた。


「私は、カイという名を見ました。水路番の子です」

「記録に?」


「はい。姓はありません」

「星は身分を読みません」


「でも人は読みます」

オルフェは頷いた。


「ええ。だから、あなたはその名を守らねばならない」

「守る?」


「星が示した瞬間から、その者は王宮の言葉にさらされます。

 称えられ、疑われ、利用され、切り取られる。

 本人の知らぬところで」


アステルは昨夜の若い影を思い出した。

灯を持って戸口に立っていた。

眠そうで、寒そうで、ただ畑を見ていた。


「私は、もう巻き込んでしまったのですね」

「星が示したのです」

「でも、星を受けたのは私です」


オルフェは何も言わなかった。


神殿を出ると、冬の光が眩しかった。

中庭では出立の荷が整えられている。


馬の吐く息が白く、革紐の匂いが冷たい空気に混じっていた。

そこでマグナスに呼び止められた。


「少し歩こう」


二人は回廊を歩いた。

子どもの頃、アステルはこの回廊で何度も転んだ。

マグナスはそのたび、直接抱き上げることはせず、

手だけを差し出した。


「怖いか」

「少し」


「それでいい。怖くない者は、旅に向かない」

「叔父上は、私を止めたいですか」


マグナスはすぐには答えなかった。


「止めたい。だが止めるべきではないとも思う」

「なぜですか」

「おまえが王宮で窒息しかけていることに、

 気づかぬほど私は鈍くない」


アステルは足を止めた。

マグナスも止まった。

窓の外では、庭師が霜の残る土をならしている。


「女王になることを嫌がっているのではないのだろう」

「嫌ではありません」


「だが、国を知らぬまま王冠を受けることを恐れている」

その言葉は、胸の奥にまっすぐ届いた。


「……私は、王都で学んできました。」

「そうだ。だから足りぬ。」

「では」

「その目で見てこい。ただし、見たものに酔うな」


「酔う?」

「王宮で育った者は、初めて出会ったものに酔う。

 泥にも、貧しさにも、人のやさしさにもだ」

「......」


「初めての経験を美しい物語にしてしまう。

 民は物語ではない。

 疲れ、嘘をつき、怒り、助け合う。

 時に残酷だ。時にこちらより賢い」


アステルは黙って聞いた。


「おまえが見に行くのは、星が示した奇跡ではない。

 人の暮らしだ」

「覚えておきます」

「もう一つ」


マグナスは声を低くした。


「王宮には、おまえが失敗することを望む者もいる」

「リディア?」


「名は出さぬ。彼女だけではない。

 おまえが麦畑から何も得られず戻れば、星読みの権威も、おまえの資質も傷つく。

 そうなれば、別の候補を立てる声は必ず出る」


アステルは息を吸った。

冷たい空気が肺に入る。


「私が行くことで、王宮も動くのですね」

「すでに動いている」


マグナスは、いつもの穏やかな目でアステルを見た。


「だから、倒れるな。

 迷うなとは言わぬ。だが倒れるな」

「はい」


その夜、アステルは旅の星盤を机に置いた。

黒い円盤の上で、銀の点が淡く光る。


星は遠い。

けれど、その下にある道は泥でできている。


彼女は、リディアから贈られた白い手袋と、ガラードから渡された厚い革手袋を並べた。

どちらも手を守るためのものだった。


けれど守るものが、まるで違った。


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