第6話 候補者たちの笑み
出立の朝が近づくにつれて、王宮には笑みが増えた。
祝福の笑み。心配の笑み。礼儀の笑み。
隠しきれない好奇の笑み。
どれもよく磨かれていて、どれも本心の輪郭を見せなかった。
アステルは、そういう笑みを見分ける訓練を受けている。
王宮では、剣より先に笑みが刺さることがあるからだ。
朝の謁見室には、女王の血を引く遠縁の若者たちが集められていた。
表向きは旅立つアステルへの挨拶。
実際には、星読みの結果によって生じた揺らぎを、
互いに測るための場だった。
リディアは淡い菫色の衣で現れた。
花のように静かで、棘のありかを見せない。
「アステル殿下。東方への旅、どうかご無事で」
「ありがとう」
「王都を離れるのは、初めてでいらっしゃるのでしょう?」
「ええ」
「羨ましくもあります。
わたくしは、王都の外をほとんど知りませんもの」
言葉だけなら無邪気だった。
けれど周囲の貴族たちは、その一言に耳を澄ませていた。
王都の外を知らぬ女王候補。
麦畑に導かれる第百一代。
旅に出る間、王宮に残る遠縁の王族令嬢。
笑みの裏で、誰もが駒を数えている。
若い貴族の一人が言った。
「星の導きが、よき学びとなりますように」
「学び?」
アステルが尋ねると、彼は少し慌てた。
「いえ、民の暮らしを知る、という意味でございます。
もちろん、星の選びそのものに疑いは」
「疑いは?」
「ございません」
リディアが柔らかく笑った。
「皆、殿下を案じているだけです。辺境の者は、王宮の作法を知らないでしょうから」
「私も、辺境の作法を知らないわ」
その場が小さく静まった。
アステルは続けた。
「ならば、互いに知らない者同士です」
リディアの微笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「殿下はお優しいのですね」
優しい。
それは褒め言葉の形をした棘だった。
女王候補にとって、優しさは美徳であると同時に、
弱さとして扱われることがある。
アステルは返事をしなかった。
謁見が終わると、ユーリス卿が待っていた。
手には革紐で括った帳簿の写し。
「ずいぶん賑やかな朝でしたな」
「笑い声は少なかったのに」
「王宮では、静かな時ほど賑やかなものです」
アステルは思わず笑った。
ユーリス卿は帳簿を差し出した。
「東方辺境の古い記録です。出立前にお目通しを」
「また帳簿?」
「帳簿は退屈ですが、嘘をつく時にも癖が出ます」
その言葉に、アステルは顔を上げた。
「嘘?」
「水路の修繕申請が、三度差し戻されています。
理由は書式不備、見積不足、現地確認待ち。
どれも間違いではない。
ですが、三度続けば偶然ではありません」
「誰かが止めている?」
「そこまでは言えません。
言えませんが、王都に届く前に弱い訴えは丸くなります。
泥のついた声は、書類になる時、ずいぶんきれいになりますので」
泥のついた声。
アステルは帳簿の表紙に触れた。
革は乾いていた。
泥などどこにもついていない。
どういうことなのかと、アステルは思った。
その日の午後、ガラードによる護衛確認が行われた。
選ばれた騎士は八名。
派手な紋章は外され、旅装は控えめだった。
神官二名、政務記録官一名、侍女はミレイだけ。
行列というより、静かな使節団に近い。
「少なすぎるように思うわ」
「多ければ目立ちます」
「……危ないのでは?」
「だから私が行きます」
ガラードは簡単に言った。
アステルは彼の横顔を見た。
灰色の髭、傷のある手、広い肩。
王宮の中では古びた騎士に見えることもあるが、
旅装になると急に実用の人に見えた。
「ガラード」
「何でしょう」
「もし星が間違っていたら?」
「星のことは神殿長にお聞きください」
「あなたの答えを聞いているの」
ガラードは少し黙った。
「星が間違っていたとしても、道は間違いではないでしょう」
「どういう意味?」
「アステルが王都の外を見る。それは必要です」
その呼び名は、朝の冷気よりも静かに胸に入った。
「ただし」
「ただし?」
「感動して泥道に膝をつくのはお控えください。助け起こすこちらの腰が持ちません」
「ひどい言い方」
「丈夫な靴を履いてください」
夕暮れ、アステルは星見の塔へ向かった。
出立前に、もう一度だけ黒石の扉を見ておきたかった。
塔の前にはオルフェがいた。
「来ると思っていました」
「星に言われたのですか」
「いいえ。人の足音です」
オルフェは珍しく、少しだけ笑った。
塔の影は長く、中庭の芝を黒く染めていた。
冬の空は澄み、星が現れるにはまだ早い。
「神殿長。星が示した者は、必ず女王を助けるのですか」
「必ず、進路に関わります」
「助けではなく?」
「助けとは限りません。止める者かもしれない。
叱る者かもしれない。
あなたの望む道から、引き戻す者かもしれない」
アステルは塔を見上げた。
「それでも、かたわれと呼ぶのですね」
「ええ。半分とは、似ているものだけを言うのではありません。
欠けているものを持つ相手も、かたわれです」
欠けているもの。
アステルは自分の手を見た。
白く、傷の少ない手。
剣だこはある。
けれど土を掘ったことはない。
水門を持ち上げたことも、凍った水路に手を入れたこともない。
その夜、リディアから贈り物が届いた。
白い絹の手袋だった。
旅にはあまりにも美しく、汚すには惜しい品。
添えられた札には、流麗な文字で書かれていた。
どうか、その御手が傷つきませんように。
ミレイはそれを見て、顔を曇らせた。
「お持ちになりますか」
アステルは少し考えた。
「ええ」
「旅には向きません」
「分かっている。でも、持っていく」
白い手袋は、王宮そのもののようだった。
美しく、清らかで、泥を知らない。
アステルはそれを荷の底へ入れた。
傷つかない手で、何が掴めるのだろう。
窓の外では、星がひとつ光り始めていた。




