第5話 王宮の沈黙
出立が決まると、王宮はかえって静かになった。
騒ぎが収まったわけではない。見えない場所では誰もが動いていた。
書簡が書かれ、封蝋が押され、馬が選ばれ、護衛の名簿が作られた。
神殿では星図が何度も開かれ、政務院では東方辺境の記録が机を埋めた。
だが、アステルの周囲だけが不自然に静かだった。
誰も正面から反対しない。心から賛成もしない。
王宮の沈黙は、柔らかな布のように彼女を包み、同時に少しずつ息を奪った。
出立までの三日間、予定はぎっしり詰められた。
街道での礼法。辺境伯への挨拶。農村での振る舞い。
食事の注意。病への備え。
護衛との距離。星のかたわれと対面した時の言葉。
知らない土地へ行くための準備は、知らないことの多さを突きつけた。
「村の家に入る時は、敷居を踏まないように」
ミレイが言った。
「王宮でも踏みません」
「王宮の敷居と村の敷居は、意味が違う場合がございます。
土や灰が置かれていることも」
「灰?」
「魔除け、湿気取り、家畜の虫除け。土地によります」
アステルは頷き、覚えた。
ユーリス卿は帳簿を持ってきた。
「東方辺境の税制は、王都近郊とは違います。
現物納が多く、麦、豆、羊毛、乾草が主です。
貨幣で納める地域と同じ感覚で見てはなりません」
「麦の納入が遅れると、王都ではどこに影響が出ますか」
「軍糧倉、王宮厨房、神殿配給、商人組合の粉流通です。
ただし王宮に届く分は優先されます」
「つまり、王宮の白パンは遅れにくい?」
ユーリス卿は一瞬黙った。
「そうです」
「村では?」
「村では、納めた後に残る分が暮らしになります」
納めた後に残る分。
王宮では、残るという考え方をしたことがない。
皿にのぼるものは常に足りていた。
足りないという報告は読む。
飢饉という言葉も知っている。
だが、食卓の上で空白を見たことはなかった。
ガラードは剣ではなく、外套を持ってきた。
「街道用です」
それは王宮の外套よりずっと重く、厚かった。
深い灰色で、飾りはほとんどない。
裏地には羊毛が使われ、雨を弾く油の匂いがした。
「重い」
「軽い外套は寒さを防ぎません」
「なるほど」
「見た目より、役に立つかどうかです」
アステルは外套を羽織った。
肩にずしりと重みがのる。
王冠とは違う重みだった。
こちらは、身体を冷えから守るための重みだ。
アステルは、はじめは地味だと思った。
リディアなら、もう少し優美なものをあつらえただろう、と。
「似合いませんか」
「似合う必要はございません」
「あなたは時々、褒める気がないわね」
「殿下に必要なのは、褒め言葉より丈夫な靴です」
そう言って、ガラードは革の旅靴を差し出した。
王宮用の靴とはまるで違った。
革は厚く、底は硬く、泥を踏むための凹凸がある。
手に取ると、土と油と革の匂いがした。
その日の午後、アステルは政務院で東方辺境の記録を読み続けた。
麦の質は良い。納入量は年によって差が大きい。
水路の管理が難しい。春の雨が遅れると収量が落ちる。
若い働き手が数人、王都へ出て戻っていない。
水路番の家の記録もあった。
村の水門と麦倉の管理を代々担う家。現当主は病がち。子が一人。
名前の欄で、アステルの目が止まった。
カイ。姓の欄は空白だった。
「姓はないのですか」
記録官が申し訳なさそうに目を伏せた。
「村の者は、家名を持たぬことも多くございます。王宮記録では、水路番の子カイ、と」
「水路番の子カイ」
アステルは声に出してみた。
アステル・デ・ヴェルタ。
カイ。
王国を背負う名前と、村で呼ばれるだけの名前。
その落差が、紙の上で向かい合っていた。
「まだ確定ではございません」
「分かっています」
分かっている。
けれど名前を知るというのは不思議だった。
帳簿の中の村が、少しだけ近くなる。
夕方、中庭でリディアに会った。
遠縁の王族令嬢で、アステルと同じく女王の血を引いている。
継承順位は遠い。
だが、もし星読みの結果に重大な疑義が出れば、彼女の名が持ち上がることは誰もが知っていた。
「儀式のこと、聞きました」
「王宮で知らない者はいないでしょう」
「おつらいでしょうね。星があのような場所を示すなんて」
「あのような場所?」
アステルの目に力がこもったのを見て、リディアは一瞬だけ目を伏せた。
「言葉が過ぎました。けれど、皆が心配しています。
第百一代という大切な時に、辺境の麦畑など」
「星が示した場所です」
「星も、時には試すのでしょうか。本当に王冠にふさわしい方かどうか」
微笑みは美しかった。美しく、怖かった。
アステルが、リディアには負けたくないと思わせるほどに。
「ありがとう、リディア。でも私は、行きます」
「ええ。どうかお気をつけて」
翌朝、厨房では東の粉でパンが焼かれた。
白パンではない。
淡い乳色で、皮は少し厚く、割ると香ばしい湯気が立った。
噛むほどに、麦の甘みが出る。
王宮の白パンより重い。腹に落ちる感覚がある。
「毎朝これにして」
アステルが言うと、ミレイが目を丸くした。
「王宮用の白パンではなく?」
「ええ」
出立前夜、アステルは荷を確かめた。
旅衣。厚い外套。革靴。手袋。
短剣。小さな祈祷書。
星石。地図。東方辺境の記録の写し。
窓の外には星が出ていた。
アステルは記録を開いた。
水路番の子、カイ。
彼女はその名を指先でなぞった。
「あなたは、何を知っているの」
答えはない。
明日、王都を離れる。
初めて、王宮の石の外へ。
星が示した麦畑へ。




