第42話 女王候補の宣言
大広間には、息の音が集まっていた。
人が多すぎる時、空気はかえって静かになる。
貴族たちの衣擦れ、神官の銀鈴、騎士の鎧がかすかに鳴る音、
商人組合の長が喉を鳴らす音。
すべてが抑えられ、広間の高い天井の下で薄く重なっていた。
高窓から入る朝の光は白く、石床を細長く照らしている。
その光の上を歩くたび、アステルの靴音が冷たく響いた。
彼女は深い緑の衣をまとっていた。
王宮の正式な女王候補衣よりは地味だが、袖口には銀糸の星と麦穂が縫い込まれている。
胸元には星石。額にはまだ王冠ではなく、候補の銀環。
その銀環が、今日はひどく軽く感じられた。
これから口にすることの方が、ずっと重い。
広間には、王都の主要な者たちがほぼ全て集まっていた。
マグナス、オルフェ、ユーリス卿、ガラード、ミレイ、リディア。
貴族院の長老たち、神殿の高位神官、騎士団の副官、政務院、
商人組合、王都の町代表、そして東方支援に関わった神殿配給の者たち。
カイは広間の端にいた。
彼のために用意された衣は、王宮の礼服ではなかった。
深い灰色の上着に、清潔な白い襟。
飾りは少ない。
アステルがそう望んだ。彼を貴族のように見せる必要はない。
けれど、王宮の場で侮られないだけの整えは必要だった。
アステルが壇上へ上がると、広間が静まった。
膝をつく者はいない。まだ戴冠ではない。
だが全員が、何かの境目に立っていることを感じていた。
「星読みの儀について、私は宣言します」
声は広間に通った。
アステルは自分の声を聞きながら、幼い頃に礼法教師から教えられたことを思い出した。
王族の声は高くても低くてもならない。
怒りを見せすぎても、怯えを隠しすぎてもならない。
聞く者が従える声であれ。
今、その教えの奥に、別の声が混じっている。
カイの声。
王宮は遠すぎる。
「第百一代女王候補アステル・デ・ヴェルタの導きのかたわれは、
東方辺境の麦村、水路番の子カイです」
ざわめきは、波のように広がった。
水路番の子。
姓のない名。
王宮の記録に載せるには、あまりに短く、あまりに地上の匂いがする名。
貴族の一人が立ち上がった。
「殿下。星がその者を示したことについて、神殿は正式に認めたのですか」
オルフェが前へ出た。
「認めます」
短い答えだった。
「再儀式において、星図は王宮より東方麦村へ伸び、
さらに王国各地へ広がる線を示しました。
カイが星盤に触れた際、反応も確認されています」
別の神官が青ざめた顔で俯く。
貴族が続ける。
「しかし、かたわれとは女王の片翼。国政に関わる者です。
姓も位も持たぬ者をそのように認めれば、王国の秩序が」
「秩序とは、誰のためのものですか」
アステルは尋ねた。
貴族は言葉に詰まった。
「王国を保つためのものでしょう」
「では、王国に麦村は含まれますか」
「当然です」
「水路番は?」
広間の空気が動く。
「畑を守る者は、王国の秩序の外にいますか」
貴族は答えられなかった。
アステルは視線を広間全体へ向けた。
「ただし、私は今、カイを王宮へ取り込みません。
将来の立場まで、本人に代わって決めるつもりもありません」
今度のざわめきは、別の色を帯びた。
神官たちが顔を上げる。政務官たちが互いに目を合わせる。
カイ自身も少し驚いたようにアステルを見た。
「かたわれとは、女王を王座へ押し上げる者ではありません。
女王が王座から遠くなりすぎた時、民の暮らしへ引き戻す者です」
アステルは息を吸った。
石床の冷たさが靴底から伝わる。指先は少し冷えている。
だが声は震えなかった。
「カイは水路番です。現時点で彼から水路を奪い、
名を高い称号で覆えば、星が示した地上の声を消すことになります」
リディアが貴族席で静かに頷いた。
それは小さな動きだったが、周囲の貴族たちには見えたはずだ。
「百代続いた星読みの儀は、王座の正統性を飾るためだけのものではありません。
女王の進路を正すためのものです」
オルフェが深く頭を下げた。
「神殿は、その解釈を認めます」
ざわめきがまた広がる。
危険だ。
アステルはその危険を肌で感じていた。
神殿が認めたということは、百代目の記録にも触れることになる。
王宮の外を示した星を、過去にも隠していたのではないかという疑いが生まれる。
貴族たちは、女王のかたわれが自分たちの外から出たことを警戒する。
王宮の近くで女王を支える権利が、血筋や位だけでは決まらなくなるからだ。
カイの名を消さないことは、ただの善意ではない。
王宮の秩序に刃を入れることだ。
それでも、消してはいけなかった。
「私は王冠を受けるなら、星と麦の両方を見る女王になります」
広間は沈黙した。
賛同ではない。反発でもない。
何かが始まったことへの、張りつめた沈黙だった。
その時、広間の後方から別の声が上がった。
町代表の老人だった。
王都の粉屋組合にも関わる男で、普段は政務院の隅で低く頭を下げている。
「殿下」
彼は緊張に声を震わせていた。
「王宮の白パンに使う粉は、麦村だけでなく、多くの村から来ます。
水路番の声を聞くというなら、粉屋の声も、荷車引きの声も届きましょうか」
アステルは彼を見た。
「届く仕組みを作ります」
老人は深く頭を下げた。
その一礼は、貴族の礼よりずっとぎこちなかった。
けれどアステルには、その方が重く見えた。
宣言の後、広間はすぐには解散しなかった。
人々は小さな群れを作り、低い声で話し始める。
貴族たちはリディアの周囲に集まり、神官たちはオルフェに詰め寄った。
カイがアステルのそばへ来た。
「俺の名前、あんなに大きな声で言わなくても」
「必要だったの」
「村で聞いたら、みんな変な顔します」
「誇ってくれるかも」
「心配します」
その答えが、あまりにカイらしくて、アステルは少し笑った。
カイとの短いやり取りの間にも、貴族たちは広間の柱のそばで小さな輪を作っていた。
誰かが「血筋」という言葉を口にし、別の者が「星読みの乱用」と返す。
さらに別の声が
「東方の村を調べるべきだ」
と言った時、アステルの背中に冷たいものが走った。
村を調べる。それは善意にも警戒にもなる。
カイを確かめるため、村の帳簿を探る者が出るかもしれない。
水路番の家の弱みを探す者もいるかもしれない。
カイの名を消さないことは、彼を守るだけではない。
彼を王宮の視線にさらすことでもある。
リディアが貴族たちの輪へ歩いていった。
彼女は扇を開き、柔らかく微笑む。
「皆様。今この場で東方の村へ疑いの目を向けるのは、
あまり賢いことではありませんわ」
「リディア様」
「星が示した者を貶めれば、神殿を疑うことになります。
神殿を疑えば、百代の女王の正統性にも影が差します。そこまでお考えで?」
貴族たちは黙った。
リディアの言葉は、カイを守るための慈悲ではない。
王宮の利害そのものを使った牽制だった。
アステルは遠くからそれを見ていた。
自分にはまだできない戦い方だと思った。
一方、神官たちはオルフェの周囲に集まっていた。
「神殿長、本当に記録へ」
「星石の反応は確認されました」
「しかし、民は混乱します」
「民が混乱するのではありません。私たちが混乱しているのです」
オルフェの静かな声に、若い神官たちは口を閉じた。
広間の端では、町代表の老人がカイに近づいていた。
老人は深く頭を下げ、ぎこちなく言った。
「水路番殿。粉屋の倉にも、声を通す道ができるなら……ありがたい」
カイは慌てた。
「殿とか、やめてください。カイで」
そのやり取りを見て、アステルは少しだけ息をついた。
王宮、神殿、貴族、民。
それぞれが違う反応をしている。
宣言は終わりではなく、反応の始まりだった。
そして女王になるとは、その反応すべてを受けることなのだと、
アステルは肌で知った。
その夜、王都の街にも宣言は広がった。
粉屋の前では、客たちが
「水路番の子だってよ」
と囁き合った。
神殿の階段では、若い神官が民に質問攻めにされていた。
貴族街の馬車の中では、母親が娘に
「王宮の外の名を軽々しく口にしてはいけません」
と言い聞かせた。
誰も同じようには受け取らない。
それが、宣言が国へ出ていくということだった。
アステルは、眠る前にカイの名を紙に書いた。
水路番の子カイ。何度書いても短い名だった。
けれどその短さの中に、村と水路と傷んだ畑がある。
長い王家の名よりも、今の彼女には重く見えた。
夜更け、アステルはカイの客室を訪ねた。
扉の前にはガラードが選んだ騎士が立っている。
廊下の向こうには、貴族家から届いた贈り物の箱がまとめて置かれていた。
果実、上等な外套、短剣、祈祷書、香油。
どれも表向きは礼だが、箱の一つ一つに紐がついているように見えた。
「全部返す?」
カイが尋ねた。
「一つずつ確認します」
「面倒ですね」
「王宮では、贈り物も言葉なの」
「村だと、芋は芋です」
アステルは思わず笑った。
けれどすぐに、箱の山を見て笑えなくなった。
カイの名を消さないと決めた途端、王宮は彼に別の名を貼り始めた。
彼をカイのままにしておくためには、宣言だけでは足りない。




