第43話 王宮裁定
王宮裁定の日、政務院の長卓には三種類の地図が広げられていた。
一つは王国全土の行政地図。
管区、街道、税の流れが細かく記されている。
もう一つは神殿の星図。星の軌道と女王たちの記録が、銀の線で重ねられている。
最後の一つは、東方麦村から持ち帰った水路図だった。
木板を写した粗い図で、畑の名、水門、橋、壊れやすい土手、
村人たちが呼ぶ小さな地名が書き込まれている。
三つの地図は、同じ国を描いているはずだった。
けれど、まるで違う国に見えた。
朝議の間には、前日よりも少ない人数が集められていた。
だが、その分、声は鋭かった。
摂政侯マグナス、神殿長オルフェ、政務院の長、貴族院代表、
騎士団長ガラード、ユーリス卿、リディア。そしてアステルとカイ。
裁定の議題は三つ。
東方辺境の修繕と税の減免。
星読み記録の改定。
かたわれカイの身分と扱い。
最初の議題は、激しくはあったが道筋が見えていた。
被害調査、修繕隊、種麦支給、次年度税の調整。
ユーリス卿と政務院が数字を揃え、マグナスが現実的な範囲を示した。
リディアは貴族側の寄付と名誉付与の仕組みを提案した。
「東方支援に名を連ねることは、貴族の面目を保ちます」
リディアは穏やかに言った。
「ただし、支援の名で村へ過剰な干渉をすることは禁じるべきです」
貴族院代表が渋い顔をする。
「善意まで縛るのか」
「善意ほど、相手の家の戸口を踏み越えやすいものです」
アステルはリディアを見た。
王宮の言葉で、王宮を縛る。
彼女にしかできない戦い方だった。
二つ目の議題、星読み記録の改定で空気は重くなった。
オルフェが百代目の記録について、複数資料の照合で確定した事実を告げた。
先代女王候補が恋人の戦死後に妊娠を知り、南地区の助産師ミラに支えられてアステルを出産したこと。星がミラを本来のかたわれとして示したこと。
その名が公式記録から削られ、マグナスがかたわれとして公表されたこと。
部屋の温度が下がったようだった。
貴族院代表が顔色を変える。
「それを公にすれば、先代女王の治世に傷がつく」
「すでに傷はあります」
アステルは言った。
「隠したままにすれば、傷ではなく腐りになります」
マグナスは目を閉じていた。
彼にとっても、これは容易ではない。
彼は公式には先代女王のかたわれだった。
その立場で摂政侯として王宮を支えてきた。
記録を戻すことは、彼自身の正統性にも影を落とす。
「マグナス様」
オルフェが静かに言った。
マグナスは目を開けた。
「私は、異議を唱えぬ」
その声は低かった。
「私は先代女王を支えた。
だが、星が最初に示した者ではなかった。それは事実だ」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
アステルは叔父を見た。
彼の横顔は疲れていたが、逃げてはいなかった。
「ミラの名を神殿記録に戻す」
マグナスは言った。
「そして、先代女王がその後に行った産院と救貧制度の整備に、
ミラの言葉が影響したことも記せ」
オルフェは深く頭を下げた。
三つ目の議題で、部屋はさらに荒れた。
「カイに称号を与えるべきです」
儀礼官が言った。
「姓も位もない者を、そのまま女王のかたわれとして記録するのは、
あまりに不安定です。せめて王宮名を授け、星読補佐官として」
「嫌です」
カイが即答した。
部屋の全員が彼を見る。
カイは少し気まずそうにしたが、言葉を引っ込めなかった。
「俺は水路番です。星読補佐官とか言われても、水路は詰まります」
ガラードが口元をわずかに緩めた。
儀礼官は青ざめる。
「これはあなた個人の好みの問題では」
「好みじゃなくて仕事です」
カイは自分の手を見た。
「俺を王宮の人間にしたら、俺が見てるものは変わります。
王宮の床を気にして、水路の泥を忘れるかもしれない。
そしたら、星が俺を選んだ意味がなくなるんじゃないですか」
アステルは胸が熱くなった。
カイは、自分の役割を分かっている。
王宮に染まらないことが役割なのだと。
「現時点で、カイに貴族位、官職、称号は与えません」
アステルは言った。
「姓も王宮名も、本人の同意なく与えません。
公開記録には、本人が認めた範囲で、東方辺境の麦村、
水路番の子カイ、と記します。
詳細記録は非公開とし、家族と村の情報を伏せます」
「殿下、それではあまりにも」
「あまりにも何ですか」
儀礼官は口を閉じた。
あまりにも低い。あまりにも王宮の外。
あまりにも、星の示した現実そのもの。
「代わりに」
ユーリス卿が提案書を広げた。
「王宮と各地の暮らしの要をつなぐ連絡制度を設けます。
水路番、倉番、橋守、産婆、粉屋、薬師、街道宿の者など、
各地で生活の流れを実際に見ている者から定期報告を受ける仕組みです」
政務院の長が眉をひそめる。
「それは政務院の通常報告と何が違う」
「通常報告は、村長、領主、管区役人を通ります。
今回必要なのは、途中で泥を落とされる前の声です」
泥を落とされる前の声。
アステルはその言葉を覚えた。
裁定は夕方まで続いた。
完全な勝利ではない。制度は暫定だった。
現時点で官職、姓、貴族位、称号を与えない。
本人の同意なき召喚、拘束、婚姻交渉と、村や家族への過剰調査を禁じる。
王宮へ意見書を送る権利を認め、説明や出席を求める時は召喚ではなく招請とし、
参加は本人が選ぶ。将来、本人が新しい立場を望むことまでは禁じない。
儀礼官の一人が、かたわれが将来王配となるのか、
姓のない者を王家へ迎えられるのかと口にした。
アステルは遮った。
「本人の意思を問わず、その話を進めることは認めません」
王配にするとも、しないとも決めなかった。
「招請」
カイはその言葉を聞いて顔をしかめた。
「召喚よりはまし?」
アステルが尋ねると、彼はしばらく考えた。
「水路の点検みたいに、王宮の点検に来るってことで」
「それを公式名にしたら、王宮の人が怒るわ」
「だから必要なんでしょう」
アステルは笑った。
疲れていた。けれど、笑えた。
王宮裁定は完璧ではなかった。
だが王宮の地図の上に、初めて水路図が重ねられた。
そしてその線は、もう簡単には剥がせなかった。
裁定が終わった後も、政務院の灯は消えなかった。
役人たちは新しい制度のための紙を作り始めた。
どの地域から誰を選ぶのか。報告はどの頻度で届くのか。
領主や村長を飛び越える形になれば、地方の支配層が反発する。
逆に領主を通せば、声はまた整えられてしまう。
「暮らしの要にいる者を選ぶ、というのは曖昧すぎます」
政務官の一人が言った。
「曖昧だからこそ、現地の実情を見る必要があります」
ユーリス卿が答える。
「水路番が重要な村もあれば、橋守が重要な谷もある。
産婆が誰より多くの家を知っている町もあるでしょう」
アステルはその議論を聞きながら、羊皮紙の上に新しい線が引かれていくのを見ていた。
線はまだ震えている。制度としては弱い。
けれど、それは水路を掘り始めたばかりの溝に似ていた。
カイは途中で眠そうになっていた。
「難しい?」
アステルが小声で尋ねると、彼は正直に頷いた。
「でも、水を分ける話に似てます」
「どこが」
「全部に一度に流せない。流しすぎると崩れる。
止めすぎると枯れる。誰かが見てないと詰まる」
アステルはその言葉を、すぐにユーリス卿へ伝えた。
ユーリス卿は少し目を丸くし、それから紙の端に書きつけた。
流しすぎず、止めすぎず、詰まりを見つける制度。
「それ、王宮の言葉にすると変ですね」
カイが言うと、ユーリス卿は真面目に答えた。
「良い制度とは、現場の言葉を変にしすぎないことから始まるのかもしれません」
夜更け、アステルは地図の端に小さく書いた。
声の流れ。
裁定の翌朝、最初の反発は書簡で届いた。
北方の侯爵家からだった。
封蝋は厚く、文面は丁寧で、だからこそ棘が深かった。
星の連絡役制度は地方領主の統治権を侵す恐れがある。
領民が王宮へ直接声を上げる道を持てば、領地の秩序が乱れる。
かたわれカイの扱いが前例となれば、今後、女王の周囲に身分不明の者が入り込む危険がある。
アステルはその書簡を最後まで読んだ。
手が冷たくなる。
「これが一通目です」
ユーリス卿が言った。
「続きます」
「でしょうね」
リディアは別の書簡を開いていた。
「こちらは南部伯爵家。表向きは祝辞ですが、最後に
『水路番殿への過度な栄誉が民に不相応な望みを抱かせぬよう』とあります」
カイはその場にいなかった。
いなくてよかった、とアステルは思い、すぐにそれも違うと思った。
本人の名をめぐる危険を、本人から隠すことはできない。
「見せます」
アステルは言った。
ユーリス卿が少し眉を動かす。
「よろしいのですか」
「彼の名についての話です」
午後、カイは書簡を読んだ。読むのに時間がかかった。
難しい言い回しをアステルが説明するたび、彼の顔が少しずつ硬くなっていく。
「つまり、俺みたいなのが調子に乗るなってことですか」
アステルは答えに詰まった。
「そう言っている人もいる」
カイは紙を畳んだ。
「分かりました」
「怒っている?」
「怒ってます。でも、驚いてはいません」
その静けさが痛かった。
「村でも、水を多く欲しがる家は、下の畑が黙ってる方が都合いいんです」
カイは書簡を机に置いた。
「王宮も同じなんですね」
アステルはその言葉を、否定できなかった。
翌朝、アステルは裁定文の余白に書き足した。
丸くしすぎないこと。
ユーリス卿はそれを見て、黙って頷いた。




