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星の進路  作者: 春凪とおる
第5章 第百一代の女王

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第41話 帰還

再儀式の翌朝、王宮は夜明けを待つ獣のように静かだった。

石の回廊には夜の湿り気が残り、朝霧の中で白灰色の壁が冷たく沈んでいた。


アステルは眠っていなかった。

星見の塔を出た後、自室へ戻り、ミレイに髪をほどかれ、外套を脱がされた。

けれど寝台に入っても、目を閉じることができなかった。


瞼の裏に、星図の線が残っている。

王宮から東方へ。南地区へ。さらに王都の外へ。


一本ではない、網のような光。

その網の中に、母の時代に消された助産師ミラの名があった。


アステルは夜明け前に起き上がり、窓を開けた。

湿り気を含んだ朝の空気が流れ込み、火照った肌を冷ました。

王都の屋根はまだ眠っているが、厨房の方角からは早い火の匂いがした。

白パンを焼く匂いではなく、薪が湿り気を含んで弾ける匂い。


王宮に帰ってきた。

けれど、今の帰還は、王宮の中へ戻ることではない。

外で見たものを、王宮に持ち込むことだった。


カイは客室にいた。

熱は下がったが、まだ本調子ではない。

ミレイが用意した旅装に着替えていたが、王宮の客室の中ではやはり落ち着かなそうだった。


壁の織物、磨かれた机、足音を吸う絨毯。

そのすべてに、彼は少しずつ身を引いているように見える。


「眠れましたか」


アステルが尋ねると、カイは窓の外を見たまま答えた。


「少し。寝台が柔らかすぎて」

「柔らかすぎる?」

「沈むんです。落ち着かない」


アステルは笑いかけたが、途中で止まった。

柔らかすぎる寝台には落ち着けないけれども、彼は、王宮が知らない硬さの中で生きてきた。


「今日は、朝議があります」

「俺も?」

「呼ばれると思う」


カイは露骨に嫌そうな顔をした。


「王宮の人たち、昨日の星図を見たんでしょう」

「塔の外から、光は見えていたはず」

「じゃあ、俺が説明しなくても」

「あなたの言葉でなければ届かないことがある」


カイは黙った。

少しして、ぽつりと言う。


「俺の名前、また大きな声で言われますか」

「言います」

「困ります」

「困らせることになる」


アステルは正直に言った。

カイが顔を上げる。


「あなたの名を記せば、王宮は、自分たちが王宮の外へ導かれたと認めることになる。

 貴族も神殿も、それを恐れている」

「だったら、記録しなくても」

「駄目」


そう言い切った瞬間、村へ向く視線まで増やすのではないかという迷いが胸を刺した。

カイは少し目を見開く。


「一度消された名があります。母の時代に、星が示した助産師ミラの名が」


アステルは、記録から削られた経緯を短く話した。


「その人は、王宮に来なかったんですか」

「来られなかった。呼ばれなかった。名だけが制度に吸われた」

「吸われた」


カイはその言葉を繰り返した。


「水路でもあります。上で水を取られて、下には跡だけ来る」


アステルは胸が痛くなった。


「だから、あなたの名を勝手には消さない。

 でも、残す範囲も私一人では決めません」

「でも、俺の名前が残ると、村に迷惑が」

「その危険もある」


アステルは逃げずに答えた。


「あなたを持ち上げ、利用しようとする者も、

 村を探って貶めようとする者も出る。

 だから、あなたの意思を確認したいの」


カイは窓の外を見た。

王宮の庭は朝露を受けて白く光っている。


遠くに見える訓練場では、騎士たちがまだ動き出していない。

王宮の朝は、村より遅い。


「俺は、偉くなりたいわけじゃないです」

「分かっているわ」


「王宮に住む気もない」

「それも」


カイは、窓辺の指で木枠をなぞった。

名を残せば面倒が増える。消せば、何もなかったことになる。


「でも、名前を消されるのは嫌です」

その声は小さかったが、確かだった。


「水路番の子カイ、でいいです。立派な名に直さないでください」

アステルは頷いた。


「現時点では、その名で記します。称号も姓も加えません。

 公開する範囲、伏せる村や家族の情報は、あなたに確認します」




朝議の間へ向かう回廊で、マグナスが待っていた。

彼は夜を越した顔をしていた。

髪は整っている。衣も乱れていない。

けれど目元の疲れは隠せなかった。


「昨夜の星図について、説明を求める声が出ている」

「説明します」

「説明だけでは足りぬ。おまえは選ばねばならない」

「王座につくか、王座の形を変えるか?」


マグナスはわずかに眉を上げた。


「そこまで言うか」

「考えざるを得ませんでした」


二人は窓際に立った。

王宮の中庭では、庭師が朝露を含んだ土をならしている。

小さな鍬が土を動かす音が、静かな朝にかすかに届いた。


「私は、女王になることを嫌がっていたわけではありません」


アステルは言った。


「国を知らないまま王冠を受けることが怖かった。

 でも今は、少しだけ知ってしまった」

「知れば、軽くなるか」

「重くなりました」


マグナスは静かに頷いた。


「ならば、女王に近づいた。王冠は、軽い者には載らぬ」




朝議の鐘が鳴った。

低く、長い音が王宮の石を震わせる。


アステルは歩き出した。

背後には百代の名。隣にはカイ。前には王宮の沈黙。


朝議の扉の前で、アステルは一度だけ立ち止まった。

扉の向こうから、低い声が漏れている。


貴族たちの声、神官たちの声、政務官が紙をめくる音。

すべてが厚い木の扉に遮られて、意味を失ったざわめきになっていた。

カイが隣で小さく息を吐いた。


「畑に入る前みたいですね」

「畑?」

「霜が降りた朝、踏んでいいか、まだ分からない時があります。

 入れば分かるけど、入ったら跡がつく」


アステルは扉を見た。

これから入れば、王宮には消せない泥の跡がつく。


「怖いですか」

カイが尋ねる。


「怖いわ」

「じゃあ、大丈夫です」

「なぜ」

「怖い時の方が、足元を見るので」


その言葉に、アステルは少しだけ笑った。


扉が開かれる。

冷たい空気と、視線の熱が同時に流れてきた。


広間に入った瞬間、アステルは、自分がもう以前の女王候補ではないことを知った。

かつて向けられた期待は、王冠の形をしていた。


今は違う。

期待、不安、警戒、怒り、好奇。

王女として彼女を守っていた最後の薄い膜が、そこで破れた。


彼女は壇上へ向かった。

その背後を、カイが歩く。

姓のない水路番の子の足音が、王宮の石床に響いた。


「カイ殿の身辺について」


騎士団の副官が言った。

カイがぎょっとした顔をする。


「昨夜以降、複数の貴族家が客室周辺を探っております。

 挨拶、贈り物、身元確認の名目ですが」


アステルの背が冷えた。


「もう?」


ガラードが頷く。


「王宮は早いところだけ早いのです」


名前を消さないと決めたその朝から、名前は利用され始めていた。

麦村では、水門を動かせばすぐに水の流れが変わった。

良くも悪くも、結果は目に見える。


王宮では、言葉が流れる。

噂になり、恐れになり、値段や警備計画に変わる。

星図の線は美しかった。けれど地上の線は、もっと絡まりやすい。


「カイへの接触は、本人の同意なく許しません」

アステルは言った。


「贈り物も、招待も、身元調査も」


貴族の一人が眉をひそめる。


「それでは、かえって特別扱いでは」

「そうです」


アステルははっきり答えた。


「王宮の視線にさらした責任があります。

 守らなければ、名を記す資格がありません」


沈黙が落ちた。

女王になる道は、美しい宣言ではなく、こうした細い防壁を一つずつ置くことから始まるのだと、

アステルは知った。

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