第35話 記録に戻すもの
東方へ送る荷が王宮を出た翌朝、アステルは出発の記録を確かめた。
保存食と種麦。水門と橋を直すための材。
橋の先で荷を受け取る者へ向けた書状。
紙の上では、すべて王宮を発っている。
けれど、まだ東方へ着いたわけではない。
「届くまでは、毎朝見せて」
「承知いたしました」
ミレイが紙をまとめた時、オルフェからの使いが来た。
神殿の記録保管庫で待っているという。
アステルは、隣室に保管させていた小箱を持ってくるよう、ミレイへ頼んだ。
箱の中には、すでに読んだオルフェの私信がある。
母の星読みには、公式記録と異なる線があったこと。
本来示されていた者が、王宮の外にいたこと。
その者の名は確認できず、マグナスが公式のかたわれにされたこと。
私信で知った内容は、アステルの中ではもう、
知らなかった頃へ戻せない真実になっていた。
だが、それはオルフェが私的に伝えた真実だった。
王宮や神殿の記録を訂正し、再儀式の扱いを決める根拠には、
まだなっていない。
神殿へ着くと、オルフェは保管庫へ続く石段の前に立っていた。
「私信をお持ちいただけましたか」
「あなたが書いたことを、確かめるために来ました」
「そのために、お呼びしました」
オルフェは石段を下り始めた。
「私の手紙だけでは、公の記録を改める根拠にはなりません。
私が後から作った話だと退けることもできます」
「あなたは神殿長でしょう」
「神殿長の言葉であっても、証拠の代わりにはなりません」
「再儀式を行えば、新しい記録が作られます。
その前に、百代目の原記録がどう扱われたのかを、
あなた自身に確認していただく必要があります」
「なぜ、今なのですか」
「あなたが、カイを命じて王都へ召さなかったからです」
それだけが理由ではないと、アステルには分かった。
オルフェは今も、神殿が過去に行ったことを公にするのを恐れている。
「過去と同じように、先に記録だけを整えれば、
もう原記録を示す機会はなくなるでしょう」
保管庫の最奥で、彼は薄い紙束を卓上へ置いた。
用意されていた資料は三つだけだった。
最初は、母の星読みの原記録。
アステルは私信に書かれていたとおり、銀の線を目で追った。
線は王宮の中で止まらず、城壁を越え、王都の南地区へ伸びていた。
終点の欄だけ、紙が不自然に薄い。
刃物で文字を削った跡だった。
何が書かれていたかは、削られた原記録だけでは読めなかった。
知っていたはずのことだった。
それでも、オルフェの文字で読むのと、
自分の指先ほどの距離にある傷を見るのとでは違った。
誰かが紙へ刃を当てた。
名が消えるまで、同じ場所を削った。
二つ目は、母の出産に立ち会った者の記録だった。
母が南地区に滞在していた時期と、出産の経過が記されている。
末尾には、出産を助けた者の名があった。
ミラ。
文字は削られていない。
ミラは神殿に認められた助産師ではなかった。
それでも記録には、母の出産に立ち会い、
生まれたアステルを取り上げたことが残されていた。
ミラを立派な人物として讃えるための記録ではない。
ただ、その場にいて、役目を果たしたことは消えていなかった。
三つ目は、星読みの儀式に立ち会った神官の補足記録だった。
儀式で銀の線が南地区へ伸びたこと。
線の終点に示された者が、女王候補の出産を助けたミラと同一人物であること。
書いた神官は、後に資料を集めて推測した者ではない。
その場で星盤の反応を見た立会人だった。
「これで、私信の内容は裏づけられます」
三つの資料を重ねれば、順序は動かなかった。
星盤は南地区を示した。
終点にいたのはミラだった。
その名は原記録から物理的に削られた。
そして公式記録には、マグナスがかたわれとして残された。
「マグナスは、いつ知ったのですか」
「分かりません。初めから承知していたのか、後に知らされたのか。
それを示す記録は見つかっておりません」
分からない部分を、都合のよい推測で埋めてはならない。
「これを公にすれば、何が起きますか」
「神殿が星読みの記録を改めた事実が明らかになります。
現在の記録も信用できないと言う者が出るでしょう」
「ミラの名を戻せば、それで訂正になりますか」
「名を記すだけならば」
「それだけでは足りないわ」
ミラの名を消した者たちは、国の安定のために必要だったと説明するだろう。
反対に、名を戻す者たちは、奪われた聖女を救う話にしたがるかもしれない。
どちらも、ミラ本人が語った人生ではない。
「確認できるのは、星盤がミラを示したこと。
ミラが母を支え、わたしを取り上げたこと。
そして、その名が記録から削られたことです」
「はい」
「それ以上は、分からないまま残します」
名誉あるかたわれだった。王宮へ来ることを望んでいた。
母と生涯変わらぬ絆を結んでいた。
そうした物語を、アステルが代わりに作ることはできない。
「記録を戻す時は、消した事実も残します。
ただ名前を書き足して、最初から正しく記録されていた形にはしません」
「いつ、訂正を命じられますか」
アステルは首を振った。
「今ここでは命じません。
再儀式の記録をどう作るかと合わせて、正式な手続きを取ります。
わたしにその決定をする権限がまだないなら、正式にその権限を得た後に」
原記録を見た勢いで、すぐに正そうとすれば、
また一人の意思だけで記録を変えることになる。
「カイについては、どうなさいますか」
カイが星盤に示された事実を、消させるつもりはない。
だが、事実を残すことと、カイの暮らしをすべて公にすることは同じではなかった。
「四つ、別に尋ねます。再儀式へ応じるか。王都へ来るか。
かたわれとして何を公にしてよいか。
そして、何を私的なこととして伏せるか」
再儀式を受けることは、王都で暮らすことへの同意ではない。
かたわれとして認められることは、家族や仕事や過去を、
すべて王国へ差し出すことでもない。
「カイが伏せたいと望んだことが、王位の判断に必要な場合は?」
「その時は、伏せたまま認められるのかを王宮と神殿で考えます。
公にできないなら別の者へ変える、とはしません」
アステルは原記録の削り跡を見た。
「百代目では、本人へ返されなかった問いです」
ミラが何を望んだのかは、もう確かめられない。
だからこそ、まだ尋ねられる相手には、記録を作る前に尋ねなければならない。
「カイへの手紙を書きます」
「再儀式へ来るように、と?」
「いいえ。まず、何を選ぶのかを聞きます」
保管庫を出る前に、アステルは三つの資料をもう一度見た。
削られた名前。削られずに残った署名。
その二つが同じ人物だと記した、立会人の言葉。
記録へ戻すべきなのは、美しく整えられた物語ではない。
確かめられた事実と、誰かがそれを消した事実だった。
地上へ戻る石段を上りながら、アステルはカイへ尋ねる四つの問いを、
順に繰り返した。
次の星読みは、答えを決めてから行うものにはしない。




