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星の進路  作者: 春凪とおる
第3章 王宮は星を疑う

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第26話 飢えは王都に届かない

市場町から麦村へ戻ると、カイは村長と麦倉を預かる家へ話を通した。

日が落ちる前、一袋の麦を倉から借り出し、畑外れへ続く脇道へ向かった。


「どこへ持っていくの?」

「少し先です」


答えはそれだけだった。

袋を肩へ担ぐと、麻布が擦れて低い音を立てた。


麦は軽いものではない。

カイは腰を落として重みを受け、ぬかるんだ坂をゆっくり上った。


ガラードは事情を確かめてから、少し離れて後を追った。

アステルも続いたが、二度足を滑らせた。

道の端には小さな足跡があり、片方は靴底の形が崩れていた。


家は畑の外れにあった。

屋根の藁はところどころ黒ずみ、戸口に積まれた薪は腕ほどの高さしかなかった。

戸を叩くと、しばらくして老女が顔を出した。


カイを見ると安堵が浮かんだが、アステルを認めた瞬間、

それは緊張へ変わった。

老女は曲がった背をさらに折ろうとした。


「そのままで」

アステルが止めても、老女は一度頭を下げた。


「王女様を、こんなところへ」


謝られているようで、アステルは返事に迷った。

老女は客を立たせていることに気づき、急いで二人を招き入れた。


室内は外より風がないだけで、暖かくはなかった。

炉には灰が厚く積もり、細い枝の火が弱く揺れている。


鍋の中では、麦粒を数えられそうなほど薄い粥が煮えていた。

湿った衣服と煙、古い藁の匂いがした。


幼い子どもが炉端に座っていた。

頬は痩せ、袖から出た手首が細い。

泣きもせず、カイの肩の袋を見ている。

その視線に気づいた老女は、子どもの前へ自分の体を少しずらした。


「お茶を」


老女は棚へ手を伸ばしたが、土瓶の中は空だった。

水を汲もうとするのを、ミレイがいれば止めただろう。

アステルは、どう言えば老女の習慣と誇りを傷つけずに済むか分からなかった。


「どうか、お構いなく」

と王宮で使う言葉を口にした。

ここではその丁寧ささえ、壁になる気がした。


座る場所も分からなかった。

椅子は一脚だけで、子どもが使っている。

アステルは壁際の薪束へ、そのまま腰を下ろした。湿気が衣服へ染みた。


カイは麦袋を炉の脇へ置いた。

「貸しです」

老女はすぐには袋へ触れなかった。


「先月も、隣から芋をいただいた。これ以上は」

「春に畑が起こせたら、できる分を返してください」

「起こせなかったら?」


カイは子どもを見た。

子どもは椀を両手で持ち、熱くもない粥を、一口ずつゆっくり舌へ運んでいた。

早く食べればなくなると知っている食べ方だった。


「あの子が春まで持たないと、返せるかどうかの話にもならない」

老女は唇を引き結び、ようやく袋へ手を置いた。


感謝より先に、恥じるような色が浮かんだ。

それでも手を離さなかった。孫を生かそうとする意思が、遠慮を押しのけた。


カイが麦の使い方を話すと、老女は

「豆なら向かいの家と干し林檎を替えられる。薪は孫が拾える」

と、自分の算段で返した。


助けられるだけの人ではない。

足りないものを組み替え、今日まで家を保ってきた人だった。




家を出ると、冷たい空気が肺へ刺さった。

カイは空になった肩を回した。


坂の途中で、向かいの家の男とすれ違った。

腕に薪を抱え、その半分を老女の戸口へ置くところだった。

カイが麦を運んだと知ると、男は安心するより先に眉を曇らせた。


「うちも今年は余ってない。毎日とはいかないぞ」

「分かってます」

「倉から出したなら、村長には?」

「話してあります」


男はアステルへ礼をするでもなく、薪を置いて帰った。

近所の助け合いという言葉から想像していた温かさはなかった。


余裕のない者が、自分の家を危うくしない範囲を測りながら

少しずつ差し出している。

誰か一人が遅れれば、老女の炉火が消える。

不安定な仕組みだった。


「なぜ、あの家には渡すの?」

「冬を越せそうにないからです」


「ほかにも同じ家があるでしょう」

「あります」

「全員に?」

「できません」


カイは道の泥を見たまま歩いた。

隣近所がどこまで助けられるか。

春に使える畑や、働ける家族が残っているか。


決まった基準はなかった。

村長や麦倉を預かる家、収穫を知る年長者たちが相談して決めるという。

ガラードは配分へ口を出さず、王宮の命令ではないことだけを確かめていた。


「あの家へ渡した分、不作になれば別の家の備えが減ります。

 貸しを返さない家が増えれば、倉は空になる。

 俺が知っている家を先にしただけだと言われるかもしれない」

「それでも渡したのね」


「渡さないで死んだら、その理由も俺が覚えてることになります」


美しい答えではなかった。

正しさより、自分が耐えられる後悔を選んでいるようにも聞こえた。


「王都に報告しても、これは届かないのですね」

「届いた時には、別の名前になります」


カイは指を折った。


「救済申請、減免願い、孤児扶助。人の腹じゃなくて、紙の名前になる」

「名前がなければ、予算を出せないわ」

「でも紙にすると、あの子が粥をゆっくり食べていたことは消える」


カイは答えなかった。


「救済申請を出せば、あの家は助かる?」

「決まるまでに冬が終わるかもしれません。通れば、来年は助かるかもしれない」

「なら、今の貸しと制度の両方が要るのね」

「たぶん。でも申請に載れば、あの子の父親が残した負債も調べられます。

 家を手放せと言われるかもしれない」


助けを求める紙が、別の取り立てを連れてくる。

だから老女は申請をためらい、村は正式でない貸しを選ぶ。


その選択にも、誰かが帳簿を都合よく扱う余地が生まれる。

アステルは歩きながら何度も振り返ったが、家は坂の下へ隠れて見えなくなった。




夜、仮宿としている家で出された麦粥と煮豆を前に、アステルの手は止まった。

昼の子どもの椀よりずっと濃い。


空腹は感じているのに、匙を口へ運ぶたび、あの細い手首が浮かんだ。

半分を残して椀を置くと、ミレイが静かに見た。


「お口に合いませんか」

「食べられないのではありません」


アステルは自分の言葉が言い訳に聞こえた。


「考えずに食べられないだけ」

「殿下が残されても、空腹の方のお腹が満ちるわけではございません」


責める声音ではなかった。それがかえって痛かった。

ミレイは残った椀を下げなかった。


「これは殿下のお食事です。まず、お召し上がりください。

 明日、余分に回せる食料があるか、カイ様へ相談いたしましょう」


王宮にいた頃のミレイなら、違う答えを返しただろう。

残り物を誰へ回すかは、厨房役人の仕事だと考えたはずだ。


だが彼女は、村の配分を自分で決められると思い上がりもしなかった。

ミレイは、善意で勝手に配れば村の順番を壊すことも分かっていた。


「ミレイも、変わったわね」

「殿下ほどではございません」

「それは褒めている?」

「まだ決めかねております」


ミレイの口元が少し緩んだ。


火が弱まり、部屋の冷えが戻ってきた。

アステルの腹は空いたまま鳴った。

恥ずかしくて手を押し当てると、ミレイは聞こえなかったふりをした。


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