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星の進路  作者: 春凪とおる
第3章 王宮は星を疑う

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第25話 麦の値段

市場町へ入る前から、音が押し寄せてきた。


荷車の車輪が石を噛む音。

牛の低い鳴き声。空樽を転がす音。値を呼ぶ商人の声。


朝の冷気はもう消え、人と家畜の熱が通りにこもっていた。

麦袋を積んだ車が門の前で列をつくっている。

荷運び人たちは肩に粉をつけ、怒鳴りながら車の間をすり抜けていった。


アステルたちが乗せてもらった荷車にも、麦村の袋が十二あった。

朝露を吸った麻布は重く、縫い目から細い麦の穂先が突き出している。

市場の秤へ載せると、商人は袋の口へ手を入れ、麦粒を一つ噛んだ。


「東の麦は香りがいい」


そう言ってから、銀貨を並べた。

四人の子がいる農夫の顔が曇った。


「去年より安い」

「橋が壊れてるだろう。北へ回した分の運び賃を引けば、これだ」

「壊したのは俺たちじゃない」

「俺でもない」


横で荷運び人が鼻を鳴らした。

「遠回りすれば車軸が減る。馬草も一日分余計に要る。

 川沿いは霜で滑る。袋を落とせば、弁償するのはこっちだ」


誰か一人が得をするために、値を下げているわけではなかった。

アステルは秤の針と銀貨を見比べた。


「なら、麦をもっと高く買えばよいのではありませんか」


商人は彼女の身なりを見て、少し間を置いた。


「構いませんよ。その分、粉屋へ高く売ります。

 粉屋はパン屋へ、パン屋は町の者へ高く売る。それでもよければ」


アステルは答えられなかった。

通りの向こうから、石臼の低い音が響いていた。


粉屋へ入ると、空気が白く霞んでいた。

息をするだけで、舌に粉っぽさがつく。

女主人は東の麦を挽いた粉を指で擦った。


「香りはいい。でも白くはならない」

掌に残った粉は、わずかに茶色かった。


「王宮では白いパンが好まれます。だから南部の白い粉を混ぜる。

 東の麦も王宮へ入るけど、兵舎の粥や使用人のパンへ回るものが多いね」

「味がよいなら、王宮が高く買えばいい」

「王宮が高く買えば、商人は王宮へ売るでしょう?」


女主人は笑った。

「そうしたら町の粉が減る」


帳場には、王宮向けと町向けの札が分けて掛けられていた。

王宮には必要な量があり、届ける期限がある。


町には毎日パンを買う人がいる。

片方だけを満たすわけにはいかなかった。


外へ出ると、四人の子がいる農夫が隣の露店にいた。

受け取った銀貨を掌に並べ、塩と鍬の刃を見比べている。


「これじゃ足りないな」

農夫は塩の袋を一度戻した。


「子どもが四人いるんだ」


店主は困った顔で秤の分銅を指した。


「こっちにも三人いる。

 まけた分を、うちの子に食わせろとは言えないだろう」


二人とも怒鳴らなかった。

長い付き合いなのだろう。


しばらく互いの顔を見たあと、農夫は新品の鍬の刃を諦めた。

古い刃をもう一度使い、塩を買うことにした。


来春、摩耗した刃で畑を起こせば、仕事は少し遅れる。

その小さな遅れも、いつか麦の値段へ戻ってくるのかもしれない。


「税を下げることはできないの?」

アステルが尋ねると、近くで納税の札を扱っていた町役人が顔を上げた。


「麦村だけですか?」

「橋が壊れている間だけでも」

「では、霜のひどかった村は? 雨で収穫が減った村は?」


机には村ごとの札が山になっていた。

役人の指は墨で黒く染まっている。


「事情を一つずつ調べて毎年税を変えるなら、それを調べる人間が要ります。

 決める頃には次の種まきですよ」


冷たい言い方だった。

だが、楽をするために拒んでいるわけでもなさそうだった。

アステルは口を閉じた。




昼を過ぎると、市場の熱気はいっそう濃くなった。

焼いた腸詰めの脂。馬糞。汗。粉。干した魚。

呼び声は途切れず、銀貨が数えられ、秤の皿が何度も上下した。


アステルは朝から、いくつもの答えを口にした。


麦を高く買えばいい。

王宮が買えばいい。

税を下げればいい。

橋を直せばいい。


どれも、言った瞬間は正しく思えた。

けれど、そのたびに別の誰かが困った。

橋についても同じだった。


「直してくれるなら助かるさ」

荷運び人は車輪の鉄輪を叩いた。


「だが工事の間、道をどうする? 石を運ぶ車と麦の車を同じ道へ入れるのか。

 秋の納めに遅れたら、誰が罰を払う?」


壊れたままでよいはずはない。

だが、直せと命じるだけでも足りない。


どの言葉にも、自分の暮らしを守る都合があった。

だからといって、それを身勝手な嘘と切り捨てることもできなかった。




午後、最後の麦袋が秤へ載せられた。

商人が並べた銀貨は、朝より一枚少なかった。


「なぜ?」

アステルが聞いた。


「王宮向けの予定量が埋まった。ここからは町値だ」

農夫が顔を上げた。


「同じ畑の、同じ日に刈った麦だぞ」

「買う先が違う」


商人はそれだけ答えた。

同じ秤の向こうでは、王宮の印をつけた買い手が白い手袋のまま銀貨を数えていた。


彼は麦粒には触れない。

袋の数と封の形を確かめ、札へ印をつけていく。


「王宮では、この麦がどこから来たか分かるのですか」


アステルが尋ねた。

買い手は札を見せた。


「東部第五集積所。村名まで残す帳面もあります」

「その先は?」

「粉になれば、他の麦と混ざりますから」


麦村の畑も、運んだ者の名も、最後には一袋の粉になる。

けれど王宮の側から見れば、一粒ずつ名前をつけていては、

必要な量を期限までに揃えられない。


仕組みとしては正しい。

その正しさが、アステルにはひどく遠く見えた。


腹の底に怒りが湧いた。

だが、誰に向ければよいのか分からない。


商人を罰すれば、麦を買う者が減る。

王宮に高く買わせれば、町の粉が減る。


税を下げれば、別の村との釣り合いが崩れる。

一つ直せば、別の場所が痛む。


そして、その複雑さを言い訳にして、誰も何もしないことだってできる。

それがいちばん腹立たしかった。


帰り支度をする頃、農夫の麦が三袋、荷車へ戻された。

安く手放せば、種と塩を買う銀貨が足りない。

持ち帰れば、余計に馬草が要る。

農夫は何も言わず、袋の縄を締めた。


「制度を変えるなら、毎年同じにした方が、村も備えやすいのではない?」


帰り道でアステルが言った。

カイは轍に車輪を合わせながら答えた。


「でも、畑は毎年違います」


今年は雨が多い。去年は霜が遅かった。

水路板が一枚割れれば、北の畑の粒が痩せる。

橋が落ちれば、同じ麦でも銀貨が減る。


制度が毎年変われば、人は備えられない。

変わらなければ、畑の現実から離れていく。


「王宮の制度は、変わらないことで国を支える」

アステルは言った。

一日歩いた足の裏が熱を持ち、粉を吸った喉が痛かった。


「畑は、変わることで生きている」

カイは前を向いたままだった。


「たぶん、どっちも止められないんでしょうね」

答えではなかった。




市場町を出ると、呼び声が少しずつ遠ざかった。

残ったのは、荷車の軋む音だけだった。


西日が売れ残った三袋を照らしている。

朝と同じ麦なのに、帰りの荷台は重く見えた。


道端の溝に、こぼれた麦粒が数粒落ちていた。

アステルは拾おうとして屈み、立ち上がるとき膝に手をついた。


全身が重かった。

一日見て回っただけの自分でさえ、これほど疲れている。

だからといって、麦村の暮らしが分かったとは思えなかった。


アステルは農夫に頼み、売れ残った袋から両手に収まるほどの麦を分けてもらった。

ミレイが出した小さな布袋へ入れる。

代金を渡すと、農夫は断らなかった。

銀貨の枚数を確かめてから、午後の値が書かれた札を差し出した。


「それも持っていってください」

「値札を?」

「麦だけ見ても、今日いくらだったかは分からないでしょう」


アステルは札を布袋の口へ結んだ。

これを王宮へ持ち帰ったところで、国のすべてが分かるわけではない。


今日見たのは、一つの市場の、一日の出来事にすぎなかった。

それでも、都合のよい言葉へ置き換えてしまう前に、思い出すことはできる。


「これは持って帰る」


アステルは値札を結んだ小袋を膝へ置いた。

カイは、農夫の荷台に残った三袋を見た。


「売れなかった麦も、村へ戻れば無駄にはなりません」

「どうするの?」

「それは持ち主が決めます。ただ――」


カイは前方を見た。

「帰る途中で、様子を見たい家があります」


荷車は西の街道へ曲がらなかった。

三袋の重みで車軸を低く軋ませながら、麦村への道を戻っていく。


値札を結んだ小さな袋は、アステルの膝にあった。

カイが気にしている脇道の先に、誰が暮らしているのか。

アステルはまだ知らなかった。

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