第21話 王宮からの使者
朝から空は低く曇っていた。
早春の湿った風が、踏まれて低く広がる麦の葉を同じ向きへ撫でつけていた。
蹄の音が聞こえたのは、逗留している家の軒下で、
アステルが泥のついた靴を拭っていた時だった。
村の道を馬が急ぐことはめったにない。
子どもが最初に駆け出し、粉を量っていた女たちが戸口から顔を出した。
遅れて男たちが手を止めた。
二頭の馬と、王宮の紋章を小さく掲げた一台の馬車が、畑の間の細道を窮屈そうに進んでくる。
車輪は昨日の雨でゆるんだ土に沈み、そのたびに御者が短く舌を鳴らした。
降りてきた使者は、青灰色の上着に旅の埃を厚くつけていた。
四十をいくつか過ぎた男で、礼は正確だったが、腰を折った拍子に顔がかすかに歪んだ。
だが、差し出した筒だけは汚れ一つなく、封蝋には星を抱く王冠が押されていた。
「アステル殿下に、摂政侯マグナス様からの返書をお届けいたします」
村の者に聞かせる声ではなかった。
それでも、周囲に集まった人々は息をひそめた。
王宮という言葉だけが、よそよそしい金属のように空気へ残った。
アステルたちが逗留している家の一室が、急ごしらえの受け取りの場になった。
卓上には帳簿と欠けた湯呑みが端へ寄せられ、神官は衣の皺を何度も直した。
ガラードは戸口に立ち、ミレイは壁際に控えた。
カイは来なかった。
アステルが窓の外を見やると、彼は水路へ下りる道のそばで、
板と縄を肩に担いでいた。
一度だけこちらを見たが、呼ばれる前に背を向けた。
「同席してもらった方がよいのではありませんか」
神官は明らかに困った顔をした。
「書面は殿下に宛てられたものです。それに、まだ彼の立場は正式に――」
「それだけではないでしょう」
ミレイが窓に目をやった。
「あの子は、王宮の手紙の前に座れば、
もう村のカイではいられなくなると思っているんです」
使者が眉をわずかに動かした。
軽蔑ではなく、理解の置き場を探す戸惑いだった。
蝋を割る小刀が、乾いた音を立てた。
内容は簡潔だった。
星読みで示された「かたわれ候補」カイの身元を確認し、
必要とあれば王都へ同行させること。
アステル殿下は速やかに調査の経緯を報告し、再召喚に備えること。
村の水利、収穫、課税に関する帳簿を提出できるよう整えること。
「必要とあれば、とは誰が必要を決めるのです」
アステルが問うと、若い神官は口を開きかけ、使者に先を譲った。
「摂政侯を交え、王宮にて協議されます。
私は書面以上の権限を持ちません」
疲れを隠さない答えだった。
使者は王都を発って七日目に村へ着いた。
途中で何度も馬を替えたという。
王宮では、この村がどれほど遠いかを地図の指幅でしか知らない者もいる、
と彼は言葉を濁しながら付け加えた。
昼過ぎ、広場で書簡の内容を説明することになった。
雲は切れたが、日差しは白く弱い。
土の上に人の輪がいくつもでき、誰も同じ方を向かなかった。
「カイを連れていくのか」
最初に声を上げたのは、水門の修繕を手伝う老人だった。
「あいつがいなくなれば、北の畑へ誰が水を回す?」
「水のことだけじゃない」
粉屋の妻が胸の前で腕を組んだ。
「帳簿を見せろって、どこまでだい。
去年、橋が落ちて納めが遅れた分まで蒸し返されるのか」
「王宮の人間が来れば、飯も馬草も村持ちだ。次は税が上がる」
「殿下だって、王都へ戻ればここを忘れるんじゃないの」
最後の言葉を発した女は、アステルと目が合うと視線を落とした。
謝りもしなかった。そのことがかえって胸に刺さった。
アステルは一歩前へ出た。
靴の底で乾きかけの泥が割れた。
「カイを無理に連れて行くつもりはありません」
ざわめきは鎮まらなかった。
若い神官が息をのみ、すぐ横で衣の袖を引こうとした。
ガラードは一歩前へ出て、神官を制したが、賛成とも反対とも言わない。
ミレイは安堵する代わりに唇を固く結んだ。
彼女だけは、その約束がアステル一人の力で守れるものかを考えていた。
使者が低い声で告げた。
「殿下。そのお言葉は、王宮の決定に先立つものと受け取られかねません」
「それでも、今の私の意思です」
「意思と決定は同じではございません」
人々の前で言葉を正され、頬が熱くなった。
だが、引っ込めればカイを差し出すことを認めたように見える。
アステルは黙って立った。
「持って帰って、直るんですか」
人垣の後ろから、泥のついた手をした若い農夫が聞いた。
「その紙を王宮へ持って帰って、橋も水路も税も、直るんですか」
答えられる言葉を探した。
視線が集まり、喉が乾いた。
「分かりません」
静けさが落ちた。
農夫の肩から力が抜けた。
それは安堵ではなく、期待するのをやめた者の姿に見えた。
誰かが小さく舌打ちし、粉屋の妻は「そうだろうね」と呟いた。
神官は目を閉じ、ガラードは剣帯を指先で鳴らした。
使者だけがアステルを見ていた。
王宮では許されにくい答えを、どう受け取るべきか測りかねているようだった。
説明が終わっても、人々はすぐには散らなかった。
二人、三人と固まり、声を潜めて話した。
アステルが近づくと会話が途切れる。
そのたび、自分が口にした「分かりません」が
村じゅうへ冷たい水のように染みていくのを感じた。
夕方、雲の縁から橙色の光が差した。
水路では、カイが濡れた板を石に渡し、縄を締め直していた。
水は浅く、泥の匂いが強い。アステルが近づいても、彼は手を止めなかった。
「書簡のこと、聞いた?」
「だいたいは」
「広場には来なかったのね」
「俺がいると、みんな俺の顔を見るでしょう。紙に何が書いてあるかより」
縄を引く手の節が白くなった。
アステルは広場でのやり取りを話した。
「分からないのに、直ると言うことはできなかった」
「殿下らしいです」
褒められたようには聞こえなかった。
「間違っていた?」
カイは水に手を入れ、板の隙間へ詰まった藁を抜いた。
冷たい水が腕を伝い、袖口を暗くした。
「守れるか分からない約束で、人は冬を越すこともあります」
アステルは返す言葉を失った。
水音が急に大きくなったように感じた。
「守れなかったら、その人は二度傷つくわ」
「そうです」
「なら、希望を持たせることが正しいとは言えない」
「正しいとは言ってません。
薪が足りない家に『春までには助ける』と言うのと、
『助けられるか分からない』と言うのと。
どちらが残酷だったかは、春にならないと分かりません」
「そんなの、約束する側に都合のいい言い方よ」
カイは顔を上げたが、怒らなかった。
「かもしれません。
約束された側が、それで今日の飯を半分にできることもあります」
日が沈むにつれ、濡れた土から冷えが上がってきた。
アステルは腕を抱いた。
嘘をつかないことだけが、自分に選べる誠実さだと思っていた。
だが人には、明日まで待つための言葉が必要なのかもしれない。
それでも、守れない約束を口にすることはできなかった。
「私は、何と言えばよかったの」
カイは答えなかった。
答えを持たないのか。
持っていても渡すべきではないと思ったのか、アステルには分からなかった。
水路の板を越えた水が、細く二つに分かれて畑へ流れていく。
どちらへ多く流すか、板の傾きひとつで変わる。
カイはもう一度縄を締めた。
アステルはその横に立ち、冷えた指先を袖へ隠したまま、暗くなる水を見ていた。




