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星の進路  作者: 春凪とおる
第2章 麦畑のかたわれ

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第20話 麦畑の上の星

出立を予定していた前夜、アステルはカイと麦畑に立っていた。

使節団は、明日には一度、王都へ報告を送らなければならない。


カイを王都へ連れて行くかは、まだ決まっていなかった。

代理神官は正式確認のため同行を求め、村は水路番を失うことを恐れた。


カイ本人は水門と父の病を理由に拒んでいる。

アステル自身も、答えを出せずにいた。


星はカイを示した。

けれど星が示したからといって、その人の暮らしを引き剥がしてよいのか。


「ここです」


カイが足を止めた。

そこは、星読みの夜にアステルが見た場所だった。

石垣、水路、低い屋根、小さな家の灯り。

遠い幻だった風景が、今は足元の土と冷たい風を持っている。


「あの夜、あなたはここにいた?」

「たぶん。変な光が畑へ落ちた夜なら」

「変な光」

「星だとは思いませんでした。水路が凍ったかと思って見に出たんです」


アステルは思わず笑った。


「星より水路」

「水路が凍る方が困ります」


カイは真面目に言った。

二人はしばらく空を見上げた。


星は王宮で見たものと同じはずなのに、ここでは違って見える。

遠い光でありながら、麦の葉の先へ触れているようだった。


「私は、あなたに王都へ来てほしいと言うべきなのだと思います」

アステルは言った。


「王宮はそう望むでしょう。神殿も、星読みの確認を求めています」

「殿下は?」

「分からない」


正直に答えると、カイは少し意外そうにした。


「王宮の人でも、分からないって言うんですね」

「最近、分からないことばかりです」

「それは、いいことなんですか」

「たぶん。苦しいけれど」


カイは麦の葉を指で撫でた。


「俺は王都へ行きたくないです」

「ええ」


「親父の咳もある。水門の板も替えないといけない。

 俺がいなくても村は回るけど、今すぐは困る」

「あなたがいなければ何もできない村なの?」

「違います。誰かが代わる。

 でも、その人は自分の仕事を止めます」


アステルは麦倉の帳簿を思い出した。


「星に選ばれたことは、嫌?」

「よく分かりません」

「私と同じね」

「でも、星に選ばれたからって、今日の仕事が減るわけじゃない」


カイは水路の音へ耳を澄ませた。


「殿下が、ここで見たものを王宮へ持って帰るなら、

 ちゃんと持って帰ってほしいです」

「ちゃんと?」

「泥をきれいにしてから話すんじゃなくて」


アステルはその言葉を胸に受けた。

王宮へ戻れば、村の話は報告になる。


水路は修繕項目となり、貸し麦は備蓄管理となり、

カイは「かたわれ候補」になる。


泥は拭われ、匂いは消え、言葉は整えられる。

橋の上で荷を分けた人々も、雨を待って桶を出した子どもも、

項目の外へこぼれていく。


「泥をつけたまま報告書を出したら、記録官が泣くわ」

「紙の話じゃないです」

「分かっている。少しだけ冗談を言ったの」

「王宮の冗談、難しいですね」


二人は同時に少し笑った。

だが笑いが消えると、アステルはもう一度、王都の方角を見た。

丘の向こうにあり、ここからは見えない。


「王宮では、あなたを連れ帰れなかったことを責められるでしょう」

「すみません」

「来るつもりはないのに謝るの?」

「殿下が怒られるのは、少し悪いと思うので」

「少しだけ?」

「水門よりは」


星より水路。王女より村。

それは拒絶ではなかった。

目の前で、自分を必要とする場所を捨てないということなのだ。


「では、私がもう少しここへ残ると言ったら?」

「困ります」


「また?」

「王都の人が長くいると、村が落ち着かない。

 神官は歩く場所を選ぶし、騎士の馬は餌を食うし。

 村長は毎晩眠れてない」


「私も働くわ」

「水路に落ちる仕事ですか」

「次は落ちません」

「畑に絶対はないです」


自分が言った言葉を返し、カイはほんの少し笑った。

アステルは悔しかったが、反論できなかった。


「使節団の一部は明日返すわ。私は三日だけ残る。

 村長にも負担を確かめる。

 あなたを連れて行くかどうかは、それからもう一度話すから」

「俺の答えは変わらないかもしれません」

「それでも、私が分からないまま命じるよりいい」


カイはしばらく麦畑を見ていた。


「村の仕事を止めないなら」

「止めない」

「帳簿の名前を勝手に持って行かない」

「約束する」

「約束は、守ってください」


その重さを、今のアステルは少しだけ知っていた。

「ええ」


空で星がひとつ流れた。

麦畑の上を、細い光が横切る。

カイは一瞬だけ見上げ、すぐに水路へ視線を戻した。


「願い事は?」

「水門の板が届くこと」


「もっと星らしい願いはないの?」

「板がなければ春の水が回りません」


アステルは笑い、それから麦の若葉へ目を落とした。


星は遠い。麦は近い。

その両方を見ようとしても、まだ答えには届かなかった。


カイを説得できたわけではない。

橋も水路も直らず、帳簿をどう伝えるかも決まっていない。

それでも、王宮を出た時より、知らないことは増えていた。


「カイ」

「はい」


「明日、橋をもう一度見せて」

「朝の水門が終わってからなら」

「分かったわ」


二人は村の灯りへ戻った。

背後では水路が低く流れ、冬麦の葉が風にこすれ合っている。




村長の家の前では、神官と記録官が待っていた。


「殿下。明朝の出立時刻を」

「報告を持たせ、先発を明日王都へ返します。

 私は三日だけ残ります」


神官が顔をこわばらせた。


「王都からの命は、候補を確認し、可能なら同行させることです」

「確認は顔を見ることでは足りません。

 この村で何を担っている人なのか、私は今日ようやく知り始めたばかりです」


「王宮はお待ちです」

「麦も待たないそうです」


カイが横で小さく咳払いした。

笑いを隠したのだとアステルには分かった。

記録官は予定表の一行を引き、空白へ新しい日付を書いた。


「滞在を延ばす理由は、どのように」


アステルは答えを考えた。

「本人の拒否」「村の事情」「水路調査」

どれも正しいが、どれ一つでも足りない。


「星が示した進路を確認するため、と書いて」

「進路は、ここへ至る道では?」

「ここから何を見るかまでが進路よ」


それが正しい解釈かは分からない。

神官も納得していなかった。

それでも今は、分からないものを分からないまま残す必要がある。




部屋へ戻ると、机の上に白い報告用紙が置かれていた。

アステルは最初の一行を書いた。


――星の示した者を、東方麦村にて確認。

そこで筆が止まる。


次に書き加えるべき項目が多いのではない。

最初の一行から、見ているものが違っていた。


窓の外で水門の板が鳴った。

アステルは新しい紙を取り、最初から書き直した。


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