第19話 はじめての夕食
アステルはカイの家で夕食を取ることになった。
村長の家が、使節団の人と荷でいっぱいだったからだ。
神官たちは難しい顔をした。
王女候補が、身元も家格も定かでない水路番の家へ入った前例がなかった。
ガラードは
「護衛が戸口に立てば済みます」
と平然としていた。
ミレイは最後まで心配そうだったが、小さな布包みを持ってついてきた。
中には王都から持参した薬、針、糸が入っている。
カイの家は水路の近くにあった。
壁は土と木で、冬の風が当たる側には藁が厚く詰められている。
戸口には泥を落とす石があり、内側には乾いた草と薪の煙の匂いがした。
「狭いです」
カイが先に言った。
「入っても?」
「入るなら、そこは踏まないで。床板が弱い」
王宮なら、主人が礼を述べ、座る場所を示す。
ここではまず床の弱い場所を避ける。
それも家の事情を知らなければできないことだった。
室内は一間で、竈と食卓、棚、奥の寝台が見渡せた。
壁には水路で使う鉤と縄が掛けられ、窓際には削りかけの木板が立ててある。
カイの父は寝台に横になっていた。
痩せた男で、咳が胸の深いところから響く。
だが目は鋭く、アステルを見ると起き上がろうとした。
「そのままで」
アステルは慌てて言った。
「殿下に寝たままなど」
「私は客です。病人を立たせる客ではありません」
父親は少し笑い、また咳き込んだ。
ミレイが近くへ寄った。
「熱は?」
「いつもの咳です」
カイが答える。
「いつもだから放ってよい、とはなりません」
ミレイは布包みを開き、父親の額と脈を確かめた。
カイは驚いたように手元を見る。
「侍女って、髪を結う人だと思ってました」
「髪も結います。でも、人のお世話は髪だけではありません」
ミレイは乾燥させた薬草を少量、湯へ溶いた。
「これは咳を止める薬ではなく、少し楽にするだけです。
きちんと医師に診てもらう必要があります」
「医師を呼べる家じゃない」
「ではミレイ。近くの施療所と、そこまでの道、費用を調べて。
王都へ戻る前に私にも報告して」
すぐに治せるとは言わなかった。
けれど、見なかったことにもしなかった。
カイは鍋を火から下ろした。
夕食は麦粥と豆、干し肉を少し入れた煮込みだった。
木の器と匙は使い込まれている。
王宮の銀器の輝きはない。
けれど湯気は白く、泥作業で空腹になった身体には何より豊かに見えた。
「殿下のお口には合わないかも」
「食べてから決めます」
麦粥は素朴だった。塩気は薄く、干し肉の香りが少し強い。
噛むと麦の粒が残り、温かさが喉から腹へゆっくり広がった。
「おいしい」
カイは疑うような顔をした。
「本当に?」
「本当に」
「王宮の人って、嘘でもそう言うんじゃ」
「言う時もあります」
「言うのかよ。……今は?」
「空腹は正直ですもの」
父親が笑い、また咳き込んだ。
食卓の上には一つだけ、空の器が伏せてあった。
アステルが目をやると、カイの父が気づいた。
「母親の分だった器です。捨てるほど欠けてもいないんで」
カイは何も言わず、器を棚へ戻した。
王宮の記録なら、この家は「成人二名、病人一名」と書かれるだろう。
だが家の中には、記録から消えた者の器も残っている。
「王都へ行ったことは?」
アステルが尋ねると、父親は若い頃に一度だけ麦を運んだと答えた。
「石壁が高くて、空が狭かったです」
「王都の空が狭い?」
「ここは広いでしょう。カイ、そこを開けてあげなさい」
カイが戸を少し開けた。
冷たい風とともに、夜空が見えた。
王宮の尖塔にも高い壁にも切り取られない星空が、麦畑の上へ広がっている。
「王都では、星を見る場所も決められているわ」
「空を見るのに?」
「儀式の時は」
「面倒ですね」
「あなたは王都を何だと思っているの」
「床が光ってて、空が狭くて、何をするにも紙がいる場所」
父親が声を立てて笑った。
「そうね、だいたい合っているわ」
アステルも笑った。
その後、話は水路のことになった。
水路番だった頃、上流の家と水をめぐって三日口を利かなかったこと。
都へ運んだ麦が、自分たちの食べる麦より高い値になったこと。
カイは、自分が子どもの頃、
勝手に板を抜いて他の村人からも叱られたことを言った。
楽しい話だけではない。
水を分ける決定で恨まれたこともあった。
働けなくなった父の代わりをカイが早くから引き受けたことも、
短い言葉の間に混じった。
カイは、星が用意した物語の人物ではなかった。
病人の咳を聞き、床板の弱い場所を避け、
明日の水門を考えて暮らす、一人の若者だった。
食事が終わると、カイは鍋の底に残った粥を小さな器へ移した。
「それは?」
「隣の婆さんに。今日は集まりで足を痛めたから」
「あなたの家だって余ってはいないでしょう」
「余ってないです。だから少しだけ」
「カイ。蓋をして持っていけ。冷める」
外へ出る時、アステルは戸口で振り返った。
小さな灯の中に、カイと父親の影がある。
はじめての夕食は豪華ではなかった。
けれどその夜、アステルは初めて「民」という言葉ではなく、
誰かの家の灯りの中で食べる食事を知った。
王宮へ戻れば、この温かさをどんな言葉で報告すればよいのだろう。
外では、星が麦畑の上まで低く降りていた。
村長の家へ戻る道で、ミレイがぽつりと言った。
「王宮のお食事が恋しくはございませんか」
アステルは考えた。香草の香りがする肉料理も、焼きたての白パンも思い出せる。
「恋しいわ。でも、今夜の粥も忘れたくない」
「味を?」
「器の数も、床の弱い場所も、咳の音も」
「王宮へ戻ったら、あの家のことを報告なさいますか」
「カイに確かめる。勝手に名前を出せば、帳簿の時と同じことになるもの」
ミレイは頷いた。
背後でカイの家の戸が閉まった。
小さな灯は消えず、水路の音のそばで揺れていた。
翌朝、カイは空になった薬包をミレイへ返した。
「親父、昨夜は少し眠れました」
「効いたのなら何よりです。ただし、これで治ったわけではありません」
「分かってます」
「近くで診られる医師がいないか、出立までに調べます」
カイはしばらく薬包を見ていた。
「約束できないことを、できるみたいに言わないんですね」
「できない約束をするのも、お世話とは申しません」
ミレイの返答に、カイは頭を下げた。
王女に向ける礼ではなく、一人の働き手へ向ける礼だった。




