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星の進路  作者: 春凪とおる
第2章 麦畑のかたわれ

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第18話 星と水門

村に来てから、アステルは星を見る時間が減っていた。

王宮では夜になると自然に空を見上げた。


星読みの儀を控えていた頃は、星の位置も光も、

自分の運命に関わるものとして見えた。


だが村では、皆が朝の空を見る。


雲の厚さ。風の向き。霜の残り方。

鳥の飛ぶ高さ。山の輪郭。水路の音。

空が明るくなる前から、人々は今日の仕事を決めている。


「星は見ないの?」

夜、アステルが尋ねると、カイは麦倉の戸を閉めながら空を見上げた。


「見ますよ」

「でも、あまり話さない」

「星を見ても、明日の水門は開けなきゃいけないので」


星を軽んじているようでいて、違った。

カイは北の空に並ぶ三つの星を指した。


「親父は、あれが山の肩へ近づく頃を見て、春の作業を決めてました」

「あなたは?」

「まだ外します。星だけじゃなく、風と土も見ないと」


「星が嫌いなのかと思った」

「嫌いじゃないです。ただ、星は遠い」


カイは水門を押してできた掌の傷を見た。

「水門は近い」




翌朝、彼はいつもより早く外へ出ると、空を見て顔をしかめた。


「風が変わった」

「雨?」

「いや、冷える。霜が来るかもしれない」


村の動きが変わった。

女たちは倉から藁と古布を出した。

子どもたちは芽の遅い畝や、水の溜まりやすい低地へ運ぶ。


男たちは家畜の囲いを直し、水路の流れを少し落とした。

土が水を含んだまま凍れば根を傷めるという。


アステルも藁束を抱えた。乾いた茎が袖へ刺さり、細かな埃が舞う。

昨日の筋肉痛が腕と腰に残っている。


「霜はそんなに危ないの?」

「時期と場所によります。今は低い畑が危ない」

「同じ村なのに?」

「畑は一枚ずつ違います」


カイは当然のように言った。

水はけ、日当たり、風の通り、土の癖。

王宮の帳簿では麦畑は面積で数えられる。

だがここには、同じ一反でも違う畑がある。


「この畑は先に藁を置く。向こうは朝日が当たるから後でいい」

「どうして全部へ置かないの」

「藁が足りないからです」


また、足りないものを分ける仕事だった。

神官は旅の星盤を持って畑へ来た。


「殿下、今夜は星の位置を確認する予定でした」

「霜への備えが終わってからにします」

「儀式の確認は重要です」

「麦も重要です」


言ってから、アステルは自分の言葉に驚いた。

数日前までなら、星読みの確認を後へ回すなど考えなかっただろう。

神官は不満を隠さなかったが、畑へ敷かれていく藁を見て黙った。




日暮れ近く、カイの父も杖をついて外へ出てきた。

咳をしながら風へ顔を向け、濡らした指を風へかざす。


「東へ回ったな」

「夜半から落ちますか」

「明け方がきつい。風が乾いていると鼻の奥が痛む」


カイは父の言葉を聞き、配置を少し変えた。

王宮なら、正式な観測官ではない者の判断を記録へ採用するには理由が要る。

ここでは長く暮らした身体そのものが記録だった。




夜、霜は来た。

冷気は音もなく下り、屋根と道を白くした。


アステルは明け方、戸を叩く音で目を覚ました。

外へ出ると息が白く固まり、畑の麦は薄い硝子をまとったように光っている。


村人たちは黙って畑を歩き、葉を確かめた。

大きな被害ではなかったが、低い場所ではいくつかの葉が折れ、色を失っていた。

カイは膝をつき、葉を指で挟んだ。


「ここは持つ」

「分かるの?」

「たぶん」

「たぶん?」

「畑に絶対はないです。

 昼まで待たないと、傷みがどこまでか分からない」


アステルは白い畑を見渡した。

昨日まで元気に見えた場所が、一夜で違う顔をしている。


王宮の制度は、変わらないことによって国を支えようとする。

けれど畑は毎日変わり、その変化へ追いつかなければ生き残れない。




昼、霜が溶けると水滴が葉から落ちた。

傷んだ葉を数える作業にアステルも加わった。


十歩ごとに畝を区切り、折れた葉、色の変わった葉、無事な葉を分ける。

記録官は数を帳面へ移した。


「被害、軽微」


星図で一つの点だった村が、畑ごと、家ごとに分かれていく。

助かった畝では安堵の声が上がり、傷んだ場所では黙って葉を起こしていた。




夕方、アステルは旅の星盤を取り出した。

黒い円盤の銀の点は、冷えた光を返すだけだった。


「今朝、星は霜を教えなかったわ」

「見方を知ってる人には、教えたかもしれません」


カイの父を思い出す。星だけを見たのではない。

風も土も、長く積み重ねた記憶も見ていた。


「星が示せば、答えが出ると思っていた」

「星が全部決めるなら、水路番はいりません」

「王女も?」


カイは少し考えた。

「全部決めてくれるなら、たぶん」

アステルは苦笑した。


星は遠い。

だが遠い光が、自分をこの近い水門へ連れてきた。

その不思議さは消えない。


夜空には雲がなかった。

無数の星が冷たく輝く下で、村人たちは明日の水の相談をしていた。


夕食を終えた後、代理神官は星盤の反応を記録するため、

アステルに儀礼どおりの問いをした。


「星の導きに従い、示された者を王都へ伴う意思がありますか」

定められた返答は「あります」だった。


アステルは知っている。

けれど昼の畑で、藁をどこへ置くか迷う人々を見たばかりだった。


「示された者の意思と、村の状況を確認してから答えます」

「その返答は記録にありません」

「なら、余白へ書いて」


記録官の羽根ペンが止まり、それから欄外へ新しい行を作った。


星盤は光らなかった。

神官はそれを不吉と見るべきか迷った顔をした。


「光らないのは、私の答えが間違っているから?」

「判断できません」

「星にも、分からないことがあるのね」

「我々の読み方が足りないのかもしれません」


その答えを聞き、アステルは少し安心した。

星を読む者さえ、すべてを知っているわけではない。


外へ出ると、霜を免れた麦の葉が月明かりを返していた。

星盤の銀の点より、近くの水滴の方が明るく見えた。



翌朝、記録官が前日の霜害調査を「被害、軽微」とまとめた報告を見て、

アステルは畝へ目を戻した。


「村全体では軽微。でも、ここを持つ家には?」


記録官は筆を止めた。

低地の一枚に被害が偏っている。

村の収穫量への影響は小さくても、その畑を耕す家には軽くない。


「『一部低地に集中』と加えます」

同じ霜も、どこから見るかで重さが変わる。

星図で一つの点だった村が、畑ごと、家ごとに分かれていく。


アステルはその細かさを面倒だと思わなかった。

むしろ、今まで大きな言葉で覆いすぎていたのだ。


空では朝の星が薄れていた。

星が消えたのではない。

明るさの中で見えなくなっただけだった。


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