↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の進路  作者: 春凪とおる
第2章 麦畑のかたわれ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/46

第17話 女王候補、泥に沈む

翌朝、水路の詰まりを取る作業が始まった。

男も女も鍬や籠を持って集まり、流れの両側へ散っていく。


水路へ降りる者が泥をさらい、岸の者が籠で運ぶ。

崩れた石を積み直す者、抜いた草をまとめる者。

誰かが大声で指図しなくても、それぞれが自分の場所を知っていた。


「私も手伝います」

アステルが言うと、村人たちは一斉に困った顔をした。


「見ているだけでも学びになります」

神官が言った。


「見ているだけでは、手触りが分かりません」

ガラードが鍬を一本借り、アステルへ渡す。


「軽い方です」

受け取った瞬間、腕が下がった。


「これで軽いの?」

「刃が小さいですからね」


水路の泥は畑の土より冷たく、粘った。

鍬を泥へ入れ、持ち上げようとすると、柄を引く腕が震える。

岸へ投げても、半分は水路へ戻った。


「それでは、いつまでも終わりません」

「分かっているわ」


「分かってる人の泥じゃないです」

「泥にも違いがあるの?」

「落とす場所を見てください。流れへ戻してる」

悔しいが、その通りだった。


「腰を使って」

「使っています」


「腕だけです」

「腕も私の一部です」

「そういう問題じゃない」


カイが鍬を持ち、刃を泥の下へ滑らせた。

膝を曲げ、柄を身体へ引きつける。

一塊の泥が岸へ落ちた。


同じように真似をすると刃が石へ当たり、反動が手首へ響く。

額に汗が滲む。

泥と枯れ草、水へ沈んだ根の匂い。

濁った水が長靴を押し、冷たさが少しずつ上がってきた。


王宮で人足賃の欄へ赤線を引いたことがある。

前年より高い、と。

あのとき削ろうとした銀貨の重さが、今は鍬の柄から手首へ返ってきた。


岸では、年老いた者が泥の籠を受け取っていた。

女たちは詰まりから抜いた草を分け、子どもは小石を拾う。


「全員が出るの?」

「出られる人は」


「畑の仕事は?」

「後でやります」


「休む時間は?」

「水が流れたら」


共同作業とは、余った時間を持ち寄ることではなかった。

自分の仕事を後へ押し、村の流れを先に直すことだった。




昼近く、詰まりの大きな場所へ移った。

カイが水の向きを変え、二人が枝を引く。アステルは岸から籠を受け取る役を任された。


「重い時は二人で」

そう言われていたのに、村の女が一人で持った籠なら自分にも運べると思った。


両手で柄を掴み、身体へ引き寄せる。

泥は予想以上に重い。

足元の板へ片足を置いた瞬間、靴底が滑った。


世界が傾いた。

冷たい水が膝を越え、外套の内側へ一気に入った。

泥が腰まで跳ね、息が止まる。


「殿下!」


ミレイが悲鳴を上げた。

神官が星の名を呼び、騎士たちが動く。

カイは一番近い場所から手を伸ばした。


「掴んで。

 だから、その靴は畑用じゃないって言いました」

「今、それを言う?」

「今が一番分かるでしょう」


悔しい。

寒い。

重い。


笑っている子どももいる。

けれど、不思議と泣きたくはなかった。


差し出された手を握り、立ち上がる。

水を吸った外套は石のように重かった。


「殿下、もう戻りましょう」

ミレイが外套を脱がせようとする。


「まだ終わっていないわ。

 村の人たちも濡れているし」

「慣れています」

カイが言った。


「殿下は慣れてない。

 冷えたまま働けば、明日動けなくなる」

「でも」

「一人倒れたら、世話をする人が一人減ります」


アステルは唇を噛み、岸へ上がった。

村の女が古い布を投げてよこす。


「殿下、無理すんな。

 でも泥の落ち方は悪くなかったよ」

「それは褒めているの?」

「半分はね」


周囲に小さな笑いが起きた。

こんなはずじゃなかったと思っても声にはならなかった。

笑われたことより、何もできなかったことが悔しかった。


着替えて戻った頃、水路は細い音を取り戻していた。

カイは泥だらけの手で水をすくい、流れを見た。


「これで二日は持つ」

「二日だけ?」

「上の板が傷んでる。

 本直ししないと、また詰まります」


紙の上で三か月止まっている間、村では二日ずつ持たせている。




夕方、共同湯で髪を洗うと、何度すすいでも髪から泥が流れた。

湯は少しぬるく、薪の煙の匂いがする。爪の間の黒い筋は残った。


「怒っている?」

洗い桶を差し出すミレイへ聞く。


「心配しております」

「ごめんなさい」

「ですが、今夜は星をご覧になる前に眠ってしまわれるでしょうね」


その通りだった。

瞼を閉じる直前、遠くで水路の音が聞こえた。

泥に沈んだ身体は、王宮のどんな寝台より深く、

アステルを眠りへ引き込んだ。


翌朝、目を覚ますと腕が上がらなかった。

着替えの紐を結ぼうとして指が震え、ミレイに手伝われる。


「昨日の代償でございます」

「村の人は、毎日これを?」

「同じ仕事ではなくても、身体を休める日は少ないのでしょうね」


朝食へ出ると、村の子どもが戸口に小さな鍬を置いていた。刃は木でできている。


「何?」

「殿下の鍬。軽い方」


昨日の言葉を真似たのだと分かり、アステルは顔が熱くなった。

周囲の大人が笑う。


「確かに、次はこれで練習するといいですな」

ガラードまで笑いをこらえている。


「子ども扱いしているでしょう」

「水路では、昨日の殿下は子ども以下だった」


カイの容赦のない言葉に、さらに笑いが広がった。

以前なら、女王候補を笑う声に護衛が反応しただろう。


アステルも、腹は立つのに嫌ではなかった。

ただ、カイはともかく、記録官や代理神官にまで、

泥に落ちて、何もできなかった自分を見られたのは嫌だった。


アステルは木の鍬を拾い上げた。

昨日のものより、腹立たしいほど軽かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。