第16話 麦倉の帳簿
麦倉は、村で一番静かな建物だった。
厚い木の扉には古い鉄の錠がかかり、土と石で固めた壁には窓がない。
扉が開くと、乾いた麦、藁、埃、古い木の匂いが流れ出した。
王宮の穀物倉より小さい。
けれど積まれた袋は、この村が冬を越し、
春に種を蒔くための腹そのものだった。
「帳簿を見るんですか」
カイの声には、あからさまな警戒があった。
「見ます」
「王都の人は帳簿が好きですね」
「私は帳簿で国を習ったから」
「じゃあ、今日は村の帳簿を見てください」
カイは棚の奥から一冊の帳面を出した。
王宮で見た提出用の帳簿とは、表紙からして違っていた。
紙は厚さが揃わず、角は擦り切れ、表紙には麦粉の跡がついている。
書き手も一人ではなかった。
収穫。納入。
種麦。共有分。
水路板の代金。橋修繕の積立。
病人の家への貸し。
働き手を失った家への貸し。
「この貸しは?」
「返せる時に返す分です」
「返せない時は?」
「翌年へ回る。麦で無理なら、水路の草取りや収穫の手で返す」
「できるの?」
「いえ、病人しかいない家は、それもできません」
「その家の分は?」
「皆で少しずつ被ります」
「不満は出ないの?」
「出ますよ。自分の家も苦しいのに、どうして他所の分までって」
カイは帳面の名を確かめた。
「でも一軒が冬を越せなければ、来年の水路作業も収穫も人が減る。
情けだけで貸すんじゃない。村が欠けないためでもあります」
余った者が分けるのではない。
足りない者同士が、誰を欠けばもっと足りなくなるかを考えている。
「王都への納入は?」
「納めます」
「村で足りなくても?」
カイは麦袋の緩んだ紐を結び直した。
「足りないと言えば、翌年の見回りが増えます」
「申告が正しいか確かめるためでしょう」
「見回りが来れば、帳面を出して、畑を案内して、家ごとに話をする。
その間、案内する人間は仕事を止める。
仕事が止まれば、もっと足りなくなる」
「でも、確認しなければ国は正確な量を把握できないわ」
「分かってます。
ただ、確かめる側の一日と、止められる側の一日は同じじゃない」
「今年は足りないの?」
「今のままなら。でも橋の修繕が自前になったら厳しい。
板と釘は買わないといけない。上の水門の板も替え時です」
「橋は申請中よ」
「申請は腹にたまりません」
カイが袋を軽く叩く。乾いた音がした。
数字の脇に人の名がある。
誰の家にどれだけ貸したか。誰が水路へ何日出たか。
――誰が病で働けなかったか。
「これを王都へ出せば、事情が伝わるのでは?」
「出しません」
カイの声が鋭くなった。
「なぜ? 病で働けない家があるなら、そう書けばいいじゃない」
「王都へ見せる帳簿と、村で見る帳簿は違います」
「それは、虚偽ということ?」
王女として問わなければならなかった。
国を動かすには正確な数字がいる。
「生きるための帳簿です」
「税を逃れているの?」
「逃れられるほど余ってません」
悔しさを押し殺した声だった。
「では、どうして」
「全部そのまま見せたら、弱い家から先に潰れます。
王都が見るのは俺たちの事情じゃない。
返っていない数字なんだ」
「そんなことはないわ。
王都にも、飢えさせるための決まりがあるわけではないもの」
「だったら、どうして! ……橋が」
カイは、言いかけてやめてしまった。
アステルが唇をぐっとかんでいるのを見たからだ。
アステル自身も、昨日までなら村全体の数字を見て判断しただろう。
一軒ずつの名も、病も、貸し借りも知らないまま。
麦倉の外で風が石壁を鳴らした。
「教えて。どこからが嘘で、どこからが守るための知恵なのか」
カイは棚の麦袋を見上げた。
そして、別の棚から王宮に提出した表紙と同じ帳簿を持ってきた。
2冊の帳簿を前にしてカイが言う。
「それ、俺も毎年迷います」
正解を持っているから王都に逆らうのではなかった。
迷いながら、それでも誰かを数字の外へ落とさないようにしている。
王宮に提出した帳簿には「貸し」という項目がなかった。
共有分から出た麦も、最終的には村全体の消費量へまとめられている。
「数字を偽っているのではなく、見せ方を変えているのね」
「同じことだと言う人もいます」
「私も、さっきまでそう言おうとしたわ」
カイは答えなかった。
アステルは二冊を並べ、同じ年の頁を追った。
合計量は大きく違わない。
違うのは、誰が先に食べ、誰が後で返すかという内側の動きだった。
「王都が知るべきなのは、この仕組みなのかもしれない」
「知って、認めるんですか」
「分からない。認めれば、不正に使う村が出ると反対されるでしょう」
「実際、出るかもしれません」
カイは村を美しく言わなかった。
帳面を預かった者が身内を先にした年も、
水路作業の日数を多く書いた者もいたという。
そのたび村で争い、書き直した。
「では、村の帳簿も完全ではないのね」
「人が書くものですから」
王宮の帳簿も、村の帳簿も、人が書く。
違うのは、どの失敗を恐れているかだった。
王宮は国全体の不正を恐れ、村は目の前の一軒が冬を越せないことを恐れる。
戸口では記録官が待っていた。
「殿下、確認は済みましたか。数値に不一致が?」
ここで書き取らせれば、カイの恐れが今すぐ起きるかもしれない。
だからといって、何もなかったことにもできない。
「いいえ。確認すべきなのは、二つの帳簿が生まれた理由よ」
記録官は困った顔をしたが、すぐ思い直した。
求められているのは、数字が合うか、合わないかという答えだ。
だが二冊の合計は、ただちに不一致と呼べるものではない。
「個人名を除いた概要なら記録できます。
ただし、正式な報告として受理されるかは分かりません」
麦倉の扉が閉じると、乾いた麦の匂いだけが衣に残った。
王都へ持ち帰るべきものは、数字だけではなかった。
アステルは報告書の余白へ書いた。
――村内貸付分が総消費量へ合算されている。
個人名を伏せたまま、共有麦の貸付・返済制度を別項目として
報告できる様式を検討すること。
書き終えた一文は、王宮の帳簿にはない長さになった。




