第14話 土を知らない手
翌朝、アステルは畑に立っていた。
夜のうちに薄く霜が降りたらしく、冬麦の葉は朝日に濡れていた。
遠目には銀の布を敷いたように見える。
けれど畝へ入ると、水滴が裾を濡らし、土は靴底へ重く貼りついた。
王宮で用意された旅靴は丈夫ではあったが、畑には向かなかった。
一歩ごとに踵が泥へ沈む。抜こうと力を入れれば身体が前へ傾いた。
「言ったでしょう」
少し先を歩くカイが振り返った。
「聞きました」
「聞いただけですね」
アステルは反論できなかった。
泥道を歩けることと、畑を歩けることは同じではないらしい。
村の朝は早かった。日が昇る前から竈に火が入った。
井戸の滑車が鳴り、桶を運ぶ足音が道を行き交う。
羊が囲いで騒ぎ、どこかで薪を割る音がする。
王宮の朝が鐘と扉の音で整えられて始まるなら、村の朝は必要に追い立てられて始まる。
カイは畑の端でしゃがみ、土を一握り掬った。
指で押し崩し、匂いを確かめるように鼻先へ寄せる。
「湿りすぎてる」
「どうして分かるの」
「見れば」
アステルも足元を見た。
「見ても、土です」
「だから分からないんです」
悪意のない声だった。それが余計に悔しい。
アステルは手袋を外した。
ミレイが背後で息をのむ。
「殿下、手が荒れます」
「土を触るだけよ」
「その『だけ』がどこまでか、分かっていらっしゃいません」
昨日までなら心配しすぎだと笑ったかもしれない。
だが今朝、靴を泥に取られたばかりのアステルは答えず、袖を少しまくった。
指を土へ差し入れる。
表面は冷えていたが、その下には鈍い湿り気があった。
掬うと思ったより重く、細かな粒と粘る塊が混じって爪の間へ入り込む。
握ると水分が掌へにじみ、開いても形が崩れず残った。
「これが湿りすぎ?」
「固まりすぎるでしょう。水が抜けてない。
上の水路が詰まりかけてるせいです」
「水が多いなら、よいのではないの」
「多すぎれば根が息をできない。
寒い時期に水が溜まれば、夜に凍ることもある」
カイは麦の葉を二本、指の間にそっと挟んだ。
「ここ。先が少し黄色い」
アステルは顔を近づけた。
青緑の葉の先が、ごく薄く色を失っている。
離れて見れば同じ畑だった。
だが一枚ずつ見れば、葉の色も立ち方も違う。
王宮の庭なら、傷んだ葉は庭師が摘む。
ここでは葉の小さな変化が、数か月後の麦袋の重さになる。
「帳簿の『土の湿り気』には、こんな冷たさはなかったわ」
「帳簿を触っても手は冷えませんから」
カイは立ち上がり、畝の間を進んだ。
「民の暮らしを知りたいって、本気ですか」
「本気よ」
「じゃあ、昼までこの畑を歩いてください。
踏んでいい場所と駄目な場所を覚えて。
東の端まで行ったら、土を三か所触って。」
「女王候補への課題?」
「畑に入る人への課題です」
最初のうちは、アステルも負けまいとして歩いた。
カイの足が置かれた場所を見て、同じところへ靴を下ろす。
けれど畑は平らに見えて平らではない。
浅い溝があり、古い足跡があり、柔らかい場所の隣に固い土がある。
麦の芽を避けようとすると歩幅が合わず、身体の均衡が崩れた。
冷たい風は遮るもののない畑を低く走り、耳を刺した。
外套は、裾に泥を吸って重くなる。身体が温まるほど息は白く濃くなった。
東端では、年配の女が麦の間へ藁を薄く敷いていた。
アステルたちの姿に気づくと、慌てて立ち上がり、鍬を置いて深く頭を下げた。
アステルが畝へ足を向けると、女の口がわずかに動いた。
だが、声は出ない。
「何かあるの?」
問われて、女はますます身を縮めた。
「……そちらは、入られませんように」
「なぜ?」
「昨日、根元を見たばかりでございます。まだ土が緩く……」
アステルは畝の外へ足を戻した。
「こちらを回ればいいのね」
女は何度も頭を下げた。
「恐れ入ります」
昼前、三つ目の土を調べようとした時だった。
足を置いた場所が、表面だけ固く乾いていた。
体重を移した途端、その下が崩れた。
右足を抜こうとして左足も滑り、アステルは膝から泥へ落ちた。
冷たさが衣を通って一気に染みる。両手をついた土から、湿った匂いが立った。
「殿下!」
ミレイの声が飛んだ。
騎士が駆け寄ろうとしたが、カイが手で止める。
「そこから来ると麦を踏みます。回ってください」
カイは畝を二つ越え、アステルへ手を差し出した。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
「嘘ですね」
「少し、悔しいだけ」
差し出された手は硬かった。
指の節には小さな傷が重なり、爪の際には洗っても落ちない土の色が残っている。
その手を握ると、身体は思ったより簡単に引き上げられた。
「土は、知らない人には意地悪ね」
「知ってる人にも優しくはないです」
カイはアステルの靴の周りを見た。
「でも、踏まれたくない場所を覚えれば、次は少しましになります」
アステルは掌を開いた。
泥が線の間へ入り込み、赤くなった皮膚に黒い筋を作っている。
それでもカイの手に比べれば、まだ柔らかかった。
王宮で自分は、国土、作付面積、収量、修繕費を学んだ。
けれど、一握りの土がどれほど冷たいかも、畝を一本越えるためにどこへ足を置くかも知らなかった。
土を知らない手。
その事実は泥より重く、拭っても消えないものとして掌に残った。
昼の鐘代わりに、遠くで木板が二度鳴った。
村人たちは顔を上げ、空を見た。
西の地平に、細い雲が浮かんでいた。
昼食の後、カイは三か所から採った土を木皿へ並べた。
見た目はどれも同じ茶色なのに、乾かすと違いが現れた。
水路近くの土は黒く固まり、丘側の土は指で触れるだけで細かく崩れた。
三つ目には白い小石が多く混じっている。
「同じ畑の中でも、こんなに違うのね」
「だから水も肥やしも同じにはできません」
アステルは記録官の帳面を覗いた。
そこにはすでに「東畑、排水不良」と書かれている。
「それだけ?」
記録官は、何を問われたのか分からない顔をした。
アステルが続きを促すより先に、カイが淡々と言った。
「丘側は乾きやすい。小石の多い場所は根が浅い。
少なくとも三つに分けて書いてください」
記録官は戸惑いながら行を増やした。
紙の上で一枚だった畑が、ようやく三つの顔を持った。
夕方、アステルは井戸で手を洗った。
冷たい水を何度流しても、爪の際の土は取れない。
ミレイが小さな刷毛を持ってきたが、アステルは首を振った。
「今夜だけ、このままにしておく」
「お食事の前には落としていただきます」
「では、それまで」
汚れを誇るつもりはなかった。
半日歩いただけで村人と同じになれるわけでもない。
ただ、土を知らなかったことまで洗い流したくなかった。
帰り道、朝の女が畑から上がってきた。
女は道の端へ避け、深く頭を下げた。
その視線が一瞬、アステルの泥だらけの靴へ落ちる。
朝とは違い、麦の芽は一本も靴の下になかった。
女は何も言わなかった。
ただ、張り詰めていた肩がわずかに下がった。
アステルは自分の旅靴を見た。
最上の靴にも歩けない場所がある。
けれど、足の置き場所は覚えられる。
明日は今日より一つ多く、見分けられるものがあるはずだった。




