第13話 かたわれ候補、拒否する
水門の仕事が終わるまで、王都の使節団は待たされた。
代理神官は何度も懐中時計を確かめた。
記録官は帳面を開いては閉じ、正式な面会の始まりをどこに置くべきか迷っている。
ミレイはアステルの靴へ泥が跳ねるたび眉を動かした。
ガラードだけが、妙に満足そうに水を見ていた。
「なぜ楽しそうなの」
アステルが小声で尋ねる。
「あの若者は、仕事の優先順位を間違えません」
「女王候補より水門を優先しているのよ?」
「水門を間違えれば、今夜から村が困ります。
女王候補は、少し待てます」
反論しようとして、やめた。
自分は待てる。空腹でもなく、病気でもない。
外套もあり、護衛もいる。
けれど水は、時刻を過ぎれば下の畑まで届かない。
カイは板の高さを確かめ、石の隙間に詰まった枯れ草を鉤棒で掻き出した。
板をわずかに上げると、細かった流れが勢いを増す。
水面に浮いていた小枝が回り、やがて南へ向かう溝へ吸い込まれていった。
「あれで終わり?」
「まだです」
ガラードが答える。
カイは水路に沿って歩き、途中で膝をついた。
土の崩れた箇所を指で押さえ、流れが畝へ漏れていないか確かめる。
少し先にいた子どもが板切れを持って走ってきた。
カイは礼も説明もなく受け取り、溝の縁へ差し込んだ。
子どもも、当然のように土をかぶせる。
誰か一人の作業ではなかった。
水門を動かすカイ、その先の流れを見る者、壊れた場所へ板を運ぶ子ども。
それぞれの動きが繋がって初めて、水は畑へ届く。
アステルは王宮の噴水を思い出した。
決まった時刻になると水が上がり、夜には止まる。
誰が弁を開き、管を直しているのか、考えたこともなかった。
ようやくカイが戻ってきた時には、日が石垣の向こうへ半分沈んでいた。
彼は水路脇で手を洗った。
泥は落ちたが、爪の間の黒さまでは落ちない。
濡れた手を上着で拭き、使節団の前に立つ。
「待たせました。それで、星が何ですって?」
代理神官が大きく息を吸った。
「あなたは、アステル殿下の『導きのかたわれ』として示された可能性があります。
これは王家の継承に関わる神聖な事柄です。
王都へ同行し、大神殿で確認の儀を受けていただきます」
「行けません」
カイは即答した。
「まだ説明の途中です」
「最後まで聞いても、今は行けません」
「これは招待ではありません。王命に関わる要請です」
「王命なら、麦も王様のところへ行くんでしょう」
カイは首を傾げた。
「王都へ納める分があります」
記録官が答えると、カイは水路を指した。
「なら、その麦を育てる水も王命に関わりますよね」
神官の顔が赤くなった。
「詭弁です。王家の儀式と、一村の水門を同列に扱うなど」
「でも、水が来なければ麦はできません」
「代わりの者に任せればよいでしょう」
「任せられるなら、そうしてます」
カイの声は荒くなかった。
むしろ、話がどうして通じないのか不思議そうだった。
「親父が寝込んでいます。
上の水門を全部見られる人間は、今は俺と村長の甥だけです。
その甥は、橋の仮修繕に出てる。
橋も水路も、王都の返事を待って止まってはくれません」
王都から来た一行の後ろで、村人たちが黙っていた。
彼らはカイを励ましもしなければ、神官へ怒鳴りもしない。
ただ、王都がどのような答えを出すのかを見ている。
ここで命令すれば、カイを連れて行くことはできる。
騎士たちがいる。王家の名もある。
だが、その後で誰が水門を開けるのか。
アステルには答えられなかった。
「カイ」
彼女は一歩前へ出た。
「私は、あなたを無理に王都へ連れて行くために来たのではありません」
「殿下」
神官が止めようとする。
「少なくとも、今この場で命じるためではありません」
アステルは言い直した。
自分の一言で王命そのものを否定することはできない。
けれど、王命という言葉を使えば何でも今すぐ動くと思うこともできなかった。
カイは彼女を見た。
「じゃあ、何をしに来たんですか」
「確かめに」
「何を?」
問いは真っ直ぐだった。
星が正しいか。
神殿の儀式か。自分の進路か。
カイが本当に「かたわれ」なのか。
王都を出た時なら、答えは決まっていたはずだ。
今は、そのどれも足りない。
「星が示した場所を。あなたを。そして、私が知らないものを」
「知らないもの?」
「橋の申請が三か月も戻ってこないこと。
その間も村の人が自分たちで石を運んでいること。
水には、切り替えなければならない時刻があること」
自分の口から出た言葉を聞いて、アステルはようやく、この旅で何を見始めたのか分かった気がした。
「王宮の書類だけでは分からなかったわ」
カイは少し眉を寄せた。
「知らないものを見に来るなら、殿下の靴じゃ足りないと思います」
ミレイが息をのむ。神官はまた顔を強張らせた。
アステルは自分の泥のついた旅靴を見た。
「これは街道用です」
「畑用じゃない」
「違うの?」
「全然違います。底が平らすぎるし、足首も弱い。畝の間で滑ります」
「王宮では、最上の旅靴だと聞いたわ」
「王宮の人は畑を歩かないんでしょう」
それは非難ではなかった。
ただの事実だった。
最上の靴にも、歩けない場所がある。
王宮で身につけた知識も、きっと同じなのだ。
「では、教えて」
「何をですか」
「畑用の靴と、水の見方と、この村のこと」
カイは黙った。
夕方の風が麦の若葉を揺らす。
低い葉がこすれ合い、細かな波のような音を立てた。
遠くで家畜を呼ぶ声がし、先ほど切り替えた水が南の溝を流れていく。
「殿下が村に残るんですか」
「あなたを確かめるには、あなたの仕事を見なければならないでしょう」
「見ても面白くないですよ。朝は水路、昼は畑、夜は水門です」
「星の話より、よく分かりそう」
カイは困ったように口を閉じた。
村長が二人の間へ遠慮がちに声を挟む。
「滞在なさるとなると、殿下のお部屋が……」
「雨風を防げれば十分です」
言った途端、ミレイが横から小さく首を振った。
「寝具と湯、それから着替えを乾かす場所は必要です」
「では、それも」
ガラードが笑いを噛み殺し、神官は額を押さえた。
「殿下、使節の日程は」
「変更します。王都へは、星の示した者を発見したこと、
本人には村を離れられない事情があること、
確認のため数日滞在することを報告してください」
「数日で済むのですか」
記録官が尋ねる。
「それを確かめるために残ります」
カイはまだ納得していなかった。
「村の仕事を止めないでください」
「止めません」
「畑へ入る時は、俺の言うところを歩いてください」
「分かったわ」
「勝手に麦を踏まない」
「さっきは知らなかったの」
「知らない人ほど踏むんです」
「では、もう一度教えて」
アステルが言うと、カイは長く息を吐いた。
「……収穫の邪魔をしないなら」
「努力します」
「努力じゃ困るんですけど」
こうして、導きのかたわれ候補は王都への同行を拒否した。
王命より水門を、星より村を選んだ。
そしてアステルは、拒否されたまま麦村に滞在することになった。
その夜、村長の家へ向かう途中で、アステルは何度も足元を見た。
道の端には、見分けがつかないほど小さな麦の芽が並んでいる。
一度知れば、もうただの草には見えなかった。




